哲学#022.輝く夢と、虚しい夢。
「夢」という言葉には、「将来実現したい願い」という意味があります。
私は子どものころ、「将来の夢は?」と尋ねられるのが不快でした。「夢のある生き方はしたくない」と答えて、可愛げのない子どもだと言われていました。
なぜ、そんな答え方をしていたかというと、子ども心になんとなく「夢」という言葉に「愛」という言葉と同様のふわふわとしたいかがわしさを感じていたからです。そして、何よりも「夢」などより、生きる「根っこ」が欲しいと思っていました。
生きる「根っこ」とは何かというと、当時はうまく言語化できずにモヤモヤしていましたが、要するに生きるための基本となる「価値」「より所」のことなのです。
つまり、自分にとって何が大切なのかということを見極める「価値観」を獲得しなければ、何をやっても「虚しい」ということです。
人は「根っこ」がなければ、「虚しくない夢」を実現することはできないと思うのです。
夢というと、若くして何百億ものお金を動かす実業家が話題になることが多いですが、その中のひとりがテレビのインタビューで「自分の父親は田舎のサラリーマンで、自分はもっと夢のある生き方をしようと思って実業家になった」と語っていたことがありました。
その人は六本木ヒルズの家賃が何百万円もする部屋に住み、一般的には成功者として位置づけられています。しかし、本当に彼らは「夢のある生き方」を実現しているのだろうかと思うのです。
確かに条件の悪い会社のサラリーマンになって奴隷労働するより、自分で起業し自ら社長になって、自分の意志で会社を動かし働くことができた方がいいとは思います。
ところが、ここで「目的」を間違えると、とんでもない泥沼へはまり込んでしまうのではないでしょうか。
多くの人が間違えやすい目的とは、それは「社長になる」「金持ちになる」という目的です。
「夢は社長」というのは、ごく普通に聞き流してしまうフレーズです。多くの人は、そこに何の問題も感じないのかもしれません。人はそこに恐ろしい「転倒(落とし穴)」が潜んでいることを見落としがちなものだと思います。
どういうことかというと、「夢は社長」というフレーズの中に、「何をする会社」の社長なのかという重要なセンテンスがスッポリと抜け落ちているのです。
「何をする会社」というのは、「内容」であり「価値」であり「意味」です。
夢も言葉や貨幣と同様に、ひとり歩きをさせてはいけないと思うのです。
社長になるという夢をひとり歩きさせてしまうとどういうことになるかというと、まず、そういう人は夢がかなって社長になった後、自分は何をやっていいかわからなくなると思います。
そのタイプの社長は「意味」とか「価値」とかというものがわからないので、安易に「金さえ儲かればいい」という方向へ行ってしまいます。
そうなってしまうと、何かを作ったり、何かを流通させたり、何かをサービスしたりという「価値」を生み出すのではなく、ただひたすらにお金を集めていけばいいということになります。
まっとうに考えると、お金は「生産」した「価値」への対価として支払われるべきもののはずです。しかし、株式というシステムを使えば、実体がなくても「将来儲かる」というイメージさえ宣伝すれば、お金を集めることができます。株式には人気投票のような側面があり、実体よりイメージに弱い投資家が深く考えずに株を買ってくれるからです。
つまり、実体としての「実業」がなくても、お金を儲けることができるのが、今の社会の実状なのです。このような業務のことを「虚業」といいます。文字どおり「虚しいなりわい」です。
本来なら、投資家は会社の「実業」に「価値」があるかどうかを判断し、会社の「成長性」に投資すべきですが、現在の株式システムは恐ろしいことに実体が伴わなくても上下する株価の差額で儲けを生みだす方法を認めてしまっています。
つまり、会社に投資して儲けるのではなく、株をひとり歩きさせて短期で売買することで儲ける人々がいるわけです。
ひと昔前は土地を転がして儲けた人々がいましたが、今は株を転がして儲ける人々がいるということです。その後に何が残るかは明白です。バブルが崩壊した後には何も残りません。虚しさだけが残ります。
株を転がして儲けるというと、かつて「IT株」を転がして儲けた人もいましたね。後に崩壊しましたが。
あるITベンチャー企業の社長が次のように言っていたのが印象に残っています。
「ウチとか、ほかのITベンチャーバブルも持ってあと1年だよ。だからさ、バブルのうちに実体のあるものを取りに行くんだよ」
当の本人が、実体のないことの虚しさをヒシヒシと感じていたのではないでしょうか。
ITベンチャー企業といっても内容はそれぞれ違います。資金を利用して今後どのような「実業」を創造していくのか、具体的に社会に貢献する仕事をしていかなければ、泡のように消えていく会社も多いと思います。それこそ社長の「創造性」「価値」が問われるところではないでしょうか。
では、「実業」とはどういうことなのでしょうか。はたして虚しくない「夢」というものはあるのでしょうか。
そのことを考えるうえで参考になるのが、第二次世界大戦後の1945年、アメリカで自分の理想の車を作るために戦いを挑んだプレストン・トーマス・タッカーの例があります。
タッカーは「タッカー・トーペード」という車好きのマニア垂涎のそれこそ夢の名車を作った人として知られています。
1988年にジョージ・ルーカス製作、フランシス・フォード・コッポラ監督で映画化もされています。そのタイトルはズバリ「タッカー〈THE MAN AND HIS DREAM(男と夢)〉」です。
終戦後当時はアメリカが最も夢と希望に満ちていた時代だったと思います。「アメリカンドリーム」という言葉が出てきたのもこのころです。
「アメリカンドリーム」とは、才能とアイデアと行動力を持つ人間なら、誰でも自分の能力を活かせる「場」を与えられ、豊かな生活をすることができ、夢は実現できるというものです。
アメリカは自由な国だから、個人の才能を自由に伸ばすことができ、能力のある者は評価されるというわけです。
タッカーは幸運なことに幼少のころに自分がやりたいことを発見しました。さらに幸運なことに、彼は才能とアイデアと行動力に恵まれていました。
13歳で自動車工場で働き始め、30歳で自分の会社を設立、第二次世界大戦中は戦車の銃座にドーム型の防弾ガラスを取り付けるアイデアが評価され製造を一手に請け負っていたといいます。
終戦後44歳になっていたタッカーは、これからは世界の人々に豊かな自動車生活をしてもらおうと、新しいアイデアを盛り込んだ理想の車の構想を練り、賛同してくれるエンジニアや資本家を募りました。
彼の考えた車の特徴は、リア・エンジン(エンジンが後部)、ディスク・ブレーキ(63%のブレーキ力向上)、ティングース・ノーズ(空力学を応用)、サイクロックス・アイ(ヘッドランプがフロントウィールと連動しハンドルを切ることによって照明の位置を変え、角を曲がるときにより前方が見やすいようにした)、シート・ベルト、フロントガラスの前方脱落(事故の際に中にいる人が怪我をしないよう前方に脱落させる)などで、何よりも乗っている人の安全を考えて設計されていました。そのうえ安価で、さらに美しい色とデザインが当時の人々の心をとらえました。まさに車好きな人々の夢をかなえたような車だったのです。【※1】
で、ここで重要なのは、タッカーの夢には具体的な実体があったということです。そしてその価値を認めたエンジニアや資本家が賛同し、「損得抜き」で協力したということなのです。そして「タッカー・トーペード」という歴史に残る名車を作りあげたのです。
私は、それこそが本当のアメリカンドリームだったのではないかと思うのです。
ところが、多くの人の夢を乗せた車作りを良しと思わない人々がいたのです。タッカーに市場を奪われることを恐れた巨大自動車企業ビッグ・スリー(GM・フォード・クライスラー)です。彼らが妨害に出てきたのです。
ビッグ・スリーは政治家や司法に手をまわし、タッカーが実際に作ってもいない車をでっち上げて資金を集めている詐欺師だと告発しました。
大企業が邪魔な業者の妨害をするという構図はいまも75年前も変わらないのですね。
で、詐欺師ではないことを証明するため、タッカーと仲間たちは、いろいろな妨害の中、大変な苦労をして50台の車を完成させました。
途中で原料となる鉄の供給を絶たれたり、工場を追われて自分の家の納屋で製造したこともあったといいます。
ところが困難を乗り越えたにもかかわらず、裁判ではタッカーに不利な証言をでっち上げられ、完成した50台の車を証拠として提出しようとしても、法的な理由をつけて却下されてしまったということです。
法的には勝てる見込みがないと悟ったタッカーは、最後に自分で最終弁論をする許可を得て陪審員に向かって次のように語ったそうです。
「アメリカは、自由な企業組織を作り、そこでは誰だろうと、どこから来ようと、どの階級だろうと、好きな分野で名案を思いついたら、その発想を自由に伸ばせる国だと思っていました。…(中略)…もし大企業が一個人の発想を押しつぶせば、進歩を閉ざすばかりか、(アメリカの)今までの汗と涙はムダになる。この国の存在も危うい。…(中略)…これはないでしょう? あり得ないことだ。私はアメリカ人の健全な良識を信じており、まだ希望を持っています」
その結果、でっち上げられた証言を根拠にすれば有罪となってしまうところでしたが、そこに集まった陪審員は健全な良識の持ち主だったらしく、タッカーは無罪となりました。
しかし、アメリカ全土では健全な良識の持ち主は少数派だったようで、その後タッカーの会社は資金不足で倒産し、「タッカー・トーペード」は50台のみ生産された希少価値の名車となってしまいました。
そしてその後人々がシートベルトのついた車を手に入れるには、25年も待たなければならないことになるわけです。
さらに、その後アメリカの自動車産業は日本の自動車産業に圧倒されることになりました。
タッカーはいわゆる成功者にはなれませんでした。お金持ちにもなれませんでした。彼はある意味では敗者なのかもしれません。しかし、本当に彼は負けたのでそうか。
彼は家族や友人、エンジニアや資本家の協力で困難を乗り越え50台の理想の車を作りあげました。何で協力者たちが集まったかというと、同じ「志(こころざし)」を持つ者として、そこに「信頼関係」ができていたからです。彼らはタッカーが虚しい夢を追っているのではないということを知っていました。彼の輝く夢に賛同できたから頑張れたのです。
そして75年後のいま、「タッカー・トーペード」は50台のうち46台がまだ動いているといいます。また、今のエンジニアにとっても「タッカー・トーペード」は新たに教えられることが多い車でもあるということです。まさしく普遍的に社会的に価値のある車だったということがいえると思います。
タッカーは成功者にはなれなかったのかもしれませんが、彼の業績は虚しいことだったとは、私は思いません。彼の業績の「価値」がわかる人も少数派かもしれません。健全な「良識」を持った人も少数派なのかもしれません。しかし、細々とではあっても、こうして「価値」を語り続けていくのは未来への可能性としては「意味」があることだと思っています。
かのIT企業の社長は「ずるいと言われても違法でなければ許される。倫理観は時代で変わる」と言ったそうですが、私は倫理観は時代によって変わるものではないと思います。「倫理」は普遍的なものだと思います。
そして、それを知ることが人にとって大切なことだと思うのです。なぜなら、それが人の「根っこ」となり「より所」となるものだからです。
たとえば、樹木にとって「根っこ」は地上の枝葉や花や果実を成り立たせる大元(おおもと)です。「根っこ」がしっかりしていなければ、「成長」し豊かな実りを実現することはできません。人も同じだと思います。
多くの動物の親は何も考えることなく子どもに生きるうえで必要なことを教えることができますが、人間はそうはいきません。
多くの人の親が子どもに本物の「生きる道(健全な良識・価値・根っこ・より所)」を教えることができないというのは、悲しいことだと思います。わけもわからず虚しい夢を追い続ける子どもたちも悲しいです。そこには「成長」がありません。
「野望」とは「身のほどを越えた大きな望み」のことですが、夢が「身のほど(実体)」を越えてしまっては虚しいと思います。また、「『野望』と『志』とは違うものである」と言った人がいますが、そのとおりだと思います。
「志」は、身のほどを知った人が、社会的な視点で世の中を見ることで持つことができるものなのだと思うのです。
ある人が自分の父親のことを語ったのを聞いたことがあります。その人の父親はクリーニング店を営んでいました。その人は「親父がね、俺はアイロンを握っているときが一番幸せだと言うんだよ」と言っていました。
あぁ、いい話だなぁと思いました。私にもその幸せがわります。その人もそれがわかるから父親のことを語ったのだと思います。
私も自分で懸命に考えて工夫して仕事をして、うまくいったときに幸せを感じることがあります。ささやかだけれども確かな手応えがあるのです。充実感といってもいいかもしれません。
そういうささやかではあるけれど確かな「価値」、自分を活かせる「場」、虚しくない夢、静かに輝く夢をみんなが見つけることができれば、もっとおだやかな世の中になるのにとつくづく思うのです。
※冒頭の画像は、トヨタ博物館に収蔵されている「タッカー'48」です。まさに輝いています。
【※1】参考文献 映画『タッカー』パンフレット(東宝出版事業室)
【後記】
人は意識して価値を見極めることをしないと、「実体」のないものに振り回されてしまう傾向にあると思います。そして、「実体」のないものに振り回されて人生を終えてしまうと、それほど虚しいことはないのではないでしょうか。そのような蟻地獄に堕ちてしまうことのないよう、次回はその注意点について考察してみる予定です。
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