銀河通信 その13 Always Coming Home8

 私たち家族の部屋でおとなたちが宴会を始めたので、私と遠山君はジュナさんの部屋の奥の大きな窓のそばでチャイムと一緒にお月見しながらお風呂上がりのジュースを飲んでいた。
 夜空に明るく満月が浮かび、旅館の庭から虫の声が響いていた。大きく開いた窓からは涼しい風が入って来るので気持ちが良い。旅館で借りたおそろいの子供用の浴衣を着て、お風呂上がりのさっぱりつるつるしたかおでチャイムと仲良く遊んでいる彼を私は不思議な気持ちで眺(なが)めていた。
 そこへジュナさんが入ってきた。
「もう遅いから送っていくよ」
「私も一緒に行く」
 遠山君はチャイムを抱いたまま「チャイムも一緒に連れて行ってもいい?」
「いいよ。みんなで散歩しながら行こう」
 三人と一匹で満月に照らされた夜道を遠山君のお祖父ちゃんのお店をめざして歩いた。草むらの中から虫の声がきこえて夜風が涼しくとても気持ちがよかった。チャイムにはひもをつけていたので、歩きたがるチャイムをあちこちで地面に降ろしてそこらへんを探索させたりしながらのんびりお散歩をしていると、このまま夜が終わらないでずっとこうしていたいような気分になって、どうやら遠山君もそうなのがなんとなくわかった。まだ遊び足りない。もっとこうしてみんなと一緒にいたい。そんな感じ。
「ああもう着いちゃった」
 お店に着いた時、彼はそんなふうに素直に残念そうに言った。
「また明日あそびにおいで」
 ジュナさんが優しくそう言うと彼は嬉しそうに頷いて、チャイムをぎゅっと抱きしめてから私に渡した。「また明日」彼が手を振ってお店の脇道から奥の母屋へと入って行くのを私とジュナさんとチャイムで見送り、もと来た道を歩く。虫の音。明るい満月の光に照らされたでこぼこ道。水分を多く含んだひんやりした夜の空気。草むらや樹木や土のにおい。隣を歩くジュナさんの静かな気配。そばにおとなのひとがいるというだけではない、なんだか見守られているという安心感。抱きしめた猫のやわらかい感触や幸福な重み、陽だまりのようなあたたかいにおい。降ろしてくれとチャイムが合図するたびに途中で少し道を歩かせたり草むらをふんふんと探索させてみたりの気ままなゆっくりした時間の感じ。それらみんな心地よかった。
「空気が澄んでいるから気持ちいいね。月も星もきれいにみえる」
 ジュナさんはそう言って夜空を見上げていた。

「ジュナさん来てよかった?」
「うん、いいところだし。気持ちいいし」
「よかった。急に呼んでしまったから。来てくれて嬉しいし、よかった」
 チャイムを抱き上げて私がまた歩き始めると、彼もゆっくりと歩き出した。私は彼を見上げて尋ねた。
「ねえ、夢時間っていうのがあるって陽志(ひろし)からきいたんだけど、そういうのがほんとうにあるの?」
「なんだか不思議な夢を見ているんだってね」
 ジュナさんはやさしい声でそう言ってちょっと考えてから「うん、あるよ。目に見える外側からの現象として説明するとしたら変性意識状態とでもいうしかないけれど、そういう次元やスペースのようなものはある。そこは人間だけではなくて植物や鉱物や様々な存在の意識と直接コミュニケーションをとれるスペースのようなもので、僕たちが日常に使っている普通の時間とは異なった過去や現在や未来が同時にあるような、そういう意識の次元があるというしかないような感じのものだけれど」
「本当にあるんだ」
 びっくりして私は思わず立ち止まってしまった。
「陽志からちょっと聞かされただけだから、遥香(はるか)ちゃんがどんな夢を見ているのか詳しくは知らないけれど、なんだか夢のなかで巫女のような仕事をしているんだって?」
 チャイムがまた降りると合図するので、私はチャイムを地面に降ろしながら答えた。
「そうなの。というかヒーラーとしての学校みたいなところでみんなで寄宿生として学びながら神託を下ろす仕事をしている感じで女の子も男の子もいる。そういう子たちをシャンティっていうのだけれど、そのシャンティが託宣を下ろす時に入る意識の次元が夢時間っていうものなの」
「面白い夢だね」
「うん。現実よりも夢のなかの方が面白いときも多い。そういう時はいつもなんだか眠くて、向こうから呼ばれているみたいな気がするんだ。気を抜くとすーっと半分夢の世界に、起きていても入っていきそうになる。こうしている今は現実の方が面白いけれど」
「う~ん、そうか。もしかして毎日がつまらない?」
 ジュナさんはそう言って私をじっと見た。
「たまに。でも、今は面白い。こうしてレイラ先生や陽志、ジュナさんに会えたり、話したこともなかった遠山君と仲良くなったり、チャイムと遊んだりできるし」
「それはよかった」
 ジュナさんは目の前で道端にごろんごろんと転がり出したチャイムの頭をなでて「動物や植物なんかともっと一緒に過ごすといいよ。世話したり仲良くしたり、話しかけたりしてもいい。変な人に思われるかもしれないとかあまり気にせずに、もっと人間以外の存在と親しむ時間を大切にしたらいいと思う。君たちにはそういう時間や環境とのコミュニケーションの方が大切なもので、人間とのコミュニケーション以上に君たちにエネルギーのシェアやバランスというものを感覚的に教えてくれると思うから」
 チャイムはごろごろいいながらきゅっとジュナさんの手に自分の両手を当てて自分の額におしつけるような可愛らしい仕草をした。
 か、かわいい…、そしてなんだか(どちらも)うらやましい……。
 私がきゅ~んとなってみとれていると、ジュナさんは笑いながらわしわしとチャイムの頭をなでた。首のまわりやなんかを丁寧にかいてあげて、盛大にごろごろとのどを鳴らすチャイムにしばらくかかりきりになりながら
「人間同士だとどうしても言葉に偏りがちになるし、頭でつくりあげたものでいっぱいになってしまって、いつのまにか本当のものから遠く離れても気づかないままになることが多いから、ちゃんとコミュニケーションをとるのが逆に難しくなったりすることがあるんだよ。君たちはそういうのに、敏感に反応しているけれど、どうやって言葉にしていいかわからない。まだ子供だからというのもあるけれど、そもそも言葉にしようのないものだから、説明したりするのは難しいんだよね。いろんな表現方法や伝え方、シェアの仕方、バランスのとり方があるけれど、それは自分で身体や心ごと丸ごとで味わって経験しながら学んでいくことなんだ。誰かに認めさせたり認められたり証明しようとなんてしなくてもいいことで、自分の味わっている感覚を信頼していくことのほうがずっと大切なものだし、その感覚が君たちを導いてくれるはずだよ」
 そう言って、彼は私を見上げながら微笑んだ。
「今こうしているときに、君は色んなものを全身全霊で感じ取っているでしょう? 虫の声や明るい月の光のやわらかさ、草のにおい、夜の闇や空気、チャイムや僕や樹木、草花、虫や他の生き物たち、石や土や遠くの川、山の存在。その気配。足元の舗装されていないじゃり道の感触、ゆったりと流れる時間、ひんやりした風の心地よさやなんか。そんなの全部言葉にする事は無理だけれど、膨大なその情報を君の細胞のひとつひとつがちゃんと感じとっている。そうして同時に周囲の環境とエネルギーのシェアをしてコミュニケーションをとっている。そういうことに感覚を開いていけばいくほど、自分の感覚に正直になってごまかさずに自分で自分を認めていくほど、僕が話した夢時間にアクセスすることへ意識的に開かれていくと思う」
 私はそばにしゃがんでチャイムの背中をなでた。
「なんだか不思議な話だね」
 そう言ってから、もっとちゃんと言葉にしたい、と思って続けて言った。
「でも、なんでだかジュナさんの言っていることがよく分かるような、もう知っていたような気がする。懐かしいみたい」
 と言った。
 ジュナさんは何も言わずにこっとした。
 私は自分がちょっとほっとしているのに気づいた。
 私が何気なく口にしてしまう本当に感じたり思ったりすることは、たいていのおとなの人から生意気なものだと不興を買うか、ひとによっては反抗的で挑戦的なものだと思われたりもするので、つい反応を確かめてしまったのだ、と自分でも気づいた。
 チャイムがもっとなでてと彼の手のひらに自分の額をこすりつけて甘えている。ごろごろいいながら、あごや首のまわりをかいてもらって、旗のようにたてた尻尾を嬉しそうにふるわせていた。
 しばらくしてからジュナさんはぽつりと言った。
「古今東西南北、世界には意識の探究がたくさんあるから…」
「え?」
 ジュナさんはチャイムをなでながら言った。
「アメリカやカナダ、オセアニア、日本や中国、チベット、ヨーロッパやアフリカの先住民族のシャーマニズムや、禅や、仏教やキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、道教やヒンドゥー教に記されている神仏への道とか……もし前世というものがあるとしてもなかったとしても、祖先の遠い記憶や何かでも、それらのどれかやいくつかに関わっていたとしても不思議ではないよね。細胞レベルで知っているとか。それよりもっとずっと微細な分子のレベルでも記憶があるかもしれないし、そうやってエネルギーの交換をして僕らは存在していることを考えたら、みんなあらゆる存在とつながっているようなものだから」
 ちょっと考えてから
「食べたり食べられたり……食物連鎖っていうのもそう?」
 私が尋ねると、彼は楽しそうに頷(うなづ)いた。
「そうそう、よく知っているね。それもエネルギー交換のひとつのかたちだよね」
「遠い外国からきた果物やお菓子を食べるとき、いつも空想するの。これらが生み出された土地から遠い異国の風や物語を私に運んできてくれて、そうして私のからだの一部になるんだろうなって。へんかな」
「ううん、すごく面白いと思う。君のそういう感性が僕には素敵なものに思えるよ」
 優しく微笑んでそう言われて、私はちょっと嬉しかった。それでつい饒舌(じょうぜつ)になった。
「音楽を聴いていてもそう思うの。私はパパの影響で色んな音楽を聴くんだけれど、色んな国の民族音楽や楽器の音がとても好きなの。どれもなんだかとても懐かしいような気がする。音やメロディ、リズムにもそういう風や物語を運んでくる力がある気がするんだ。変だと思う?」
「ううん、思わない。よくわかるよ」
 にこにこしてそう言われ、さらに私は嬉しくなって夢中で言っていた。
「あのね、本や文字、人の話や言葉にも、時々それを思う時があるんだ。それは普通のただのお話ではなくて、目に見えない心のお話をするための詩の言葉のようなもの、永遠を感じさせるようなものにふれた時なんだけれど」
「うん、わかるよ。一つの文字、言葉や文章がまるで目の前でいま生きているみたいに、いたこみたいに、色んなことを君にイメージで語りだすんでしょう」
「そうなの! そして、それがジュナさんの言葉にはたくさんあるの。音だったりきれいな色だったり、リズムだったり風景のようないくつかの物語のようなものがふっと通り過ぎていくような感じだったりするんだけれど」
 興奮する私にくすくす笑いながらジュナさんは「よくわかるよ」とやさしく言った。
「君たちのそういう感受性を大切にするといいよ。誰かや何かに説明したりわからせようとしなくてもいいし、証明しようとしなくてもいいんだ。言葉にするために無理にしっかりつかもうとしなくてもいい。通り過ぎていくものをただそのまま感じるままに流していけばいい。そうしてその感覚を味わうことを楽しんだらいいんだよ。いっしょに遊ぶみたいにして。そうしているうちに微細なレベルでの色々なエネルギーに自分で気づいていくようになるから。それらは君たちを未来へ導く羅針盤(らしんばん)になる」
「らしんばんて?」
「コンパス。道に迷わないよう方角を知るために使う方位磁石があるでしょう。あれのこと」
「ああ、あれのことか」
 納得する私をじっと見て、彼は静かな口調で言った。
「大事なことは、もしも人のことや何かがわかったとしても、頼まれない限り伝える必要はないし、それに何かの責任を負う必要も感じる必要もないってことだよ。ひとにはそれぞれにやりかた、バランスのとり方があって、たとえよくない結果や未来につながることでも経験として必要な場合があるってことを、自分にも他者に対しても、自然なものとして受け入れること。
 助けようとしなくてもいい。助けられなくても自分を責めなくてもいい。
 これはひととして冷たいとかではなくて、必要なことだからなんだ」
 私はジュナさんの優しい声とは対照的な真剣な眼差しで、それを理解した気がした。
「私にはそんな予知能力みたいなものはないけれど、遠山君にはきっとそういうものがあるんだね」
 私がそう言うと、ジュナさんは何も言わず微笑んだ。
 誰かの何か良くない未来がわかってしまうってどんな気持ちだろうか。
 自分の親しい人や大切な人なら、止めてあげないといけないって、やっぱり思うかもしれない。
 でも、言っても信じてもらえなかったり、ばかにされたり相手にされないだけではなく、怒らせてしまうことだってあるかもしれない。本人だけではなくて、周りにも関係があることだってある。たとえそれが本当のことだと証明することができたとしても、そしてそれができる時にそれを言ったとしても、もう遅いし、いいことなんてない。お互いにいやな気分になるだけだろう。
 そうして実際にそれを止められなかったとしたら。
 わかっていたのに、それが止められないで、現実に良くないことが起きてしまったら。
 やっぱり何か他にもっといいやり方や方法があったんじゃないかとか、伝え方や努力が足りなかったのではないかとか、色々考えてしまうだろう。どうしても後悔してしまうだろう。相手が親しければ親しいほど、大切なら大切なほどに。
 何となくそんなことを思っていたら、彼は私に言った。
「オーストラリアのアボリジニーやアフリカのシャーマン、アメリカの先住民族や世界中に『夢見る大地(ドリーミング・アース)』という概念があるんだけれど、夢時間へのアクセスはそんなふうにあらゆる存在と共に見る夢に入ること、その情報にアクセスすることでもあって、生き残っていく為には全ての生命や存在とそんなふうにコミュニケーションをとり、本当の意味での尊重や平等というものを全身全霊で学び、それを生きる必要があるからなんだ。
 すべての生命や存在を尊重することや、公平性、平等性というのは理想や課すべき道徳、政治的な正しさなんかではなくて、もっとずっとずっと身近で身体的な直接的な感覚なんだ。そしてそういう直接的な感覚を実際に生きるような、感覚のすべてを使った全身全霊での理解の仕方でなければ、本当には問題は解決せず、かえって問題を広げたりややこしくさせてしまったりするだけなんだと思う。未来に君たちやその子供たちが生き残っていく為には、そういう感覚や力が必要なんだろうって思う」
「生き残る?」
「うん」
 彼はちょっと考えてから慎重に言葉を選ぶようにして言った。
「本来の自然な親しみや好意、愛や大切な絆を求める気持ちまで、今はテクニック、商業的にだったり政治的に人を支配したり操作したり搾取するために利用するコミュニケーションが人間のあいだにたくさん溢れすぎていて、人間同士の本来必要な関係性ですらどんどん窮屈なものになるだけでなく、いずれいろんなものを派生させて絡みあったようなもっと深刻な状況から、必要な関係性をもつことにみんなが臆病になったり避けたり、ずいぶんと警戒して人と関わらなくてはならないようになることがあるかもしれない。
 今までのやり方では通らなくなって、がんばればがんばるほどに行き詰ったり、何を信じたらいいのかわからない、群れから離れてひとり、新しい在り方やそれぞれのやり方を自分自身で見つけて行かなくてはならなくなる、そんな時が来ると思う。
 そんなときに頼れるのは、自分自身の感覚を信頼して、自分に合ったやり方や在り方で新しい道を切り拓いていく力と、自分や自分以外のみんな、全ての生命や存在それぞれにそれを認められる本当の意味での公平さ。平等さの感覚なんだよ」
 私は何となく黙ってチャイムをなでていた。
 難しい言葉はわからなくても、彼の言っていることは何となくわかった。
 色々なことが私の中を閃光のように駆け巡って行ったけれども、それらはどれもとらえどころがなくて、ストロボみたいに風景や物語の一瞬一瞬をスナップ写真みたいに浮かび上がらせ、消えていった。
「風が冷たくなってきたね。ちょっと急ごうか」
 チャイムを抱き上げて彼が立ち上がったので、私も「うん」と言って立ち上がり、帰り道を少し早歩きで辿(たど)った。水辺の方から吹いてくる風が少し強くなったみたいだった。私たちが旅館に帰ってから風はいっそう強くなり、一晩中ごうごうとうなる音がして雨がぱらぱらと窓や屋根を激しく打つ音がしていた。

 翌朝は一転からりとした秋晴れの澄んだ空気で、空がいちだんと高いような、気持ちのいい上天気だった。旅館の早い時間の朝食を二日酔いのようなぼうっとしたかおでパパがもそもそと食べているそばで、陽志も同じような状態だった。朝食は旅館の人手の都合か大広間でとるので、みんなで食べていたのだ。ママとレイラ先生はしっかり薄化粧して朝から元気そうだった。朝食後にまたさっと露天風呂に行こうと言い合っている。ジュナさんはすっきりした顔で静かに食事をとっていた。
「休みに来ているのに朝七時に朝食って……」
 遠い目でそう言いながらもご飯はしっかりと食べている陽志と、たぶん同じことを思っているだろうパパとを見比べながら、私はだしのしっかりきいた美味しいおみそ汁をすすっていた。
 う~ん、しみるな~。美味しい~。
 日本人に生まれてよかったあ。
「ご飯食べたら河原の方まで散歩に行こうか」
 ジュナさんにそう言われて、私はうん、と頷いた。
「帰りに遠山君の家に誘いに寄れば、ちょうどいいかもしれないね」
「娘がお世話になりっぱなしで……」
 パパがジュナさんに恐縮したように言うと、ママがすかさず
「ほんとに。どうもすみません」
 と愛想よく言う。でも自分の楽しみの予定を変える気は全くないのが傍から見ていてもわかるのが妙に面白かった。お肌がつるつるになる! といってレイラ先生とママはここの温泉にすきあらば何度でも入りに行こうとしているのだった。
「パパは午後からまた仕事で出ないといけないから、少し休んでいるよ」
 そうすまなそうに私に言って「ご迷惑おかけするんじゃないよ」と言った。
 ジュナさんはそのそばで、いえいえいいんですとか如才なく言っている。そんなのどかな朝食風景に
「おはようございまーす。水瀬さんに会いに来ました!」
 という元気な声が玄関のほうからしたかと思ったら、にこにこした仲居さんに案内されて遠山君がやって来た。
「あ、遠山君、早いねえ! こっちこっち! ちょうど遠山君のところに後で寄ろうかって話をしていたところだよ!!」
 ごはん茶碗片手に私が立ち上がってお箸を持った手を振って言うと、ママが「こら、お行儀の悪い! 座るかごはんを置くかしなさい!」と、たしなめた。
 お箸はいいの? と言いそうになったけど、余計に叱られそうだから、何も言わないことにした。
「楽しみで早く来すぎちゃった。すみません」
 遠山君は大人のひとたちにそう言って「おはようございます」ときちんと挨拶をした。
「朝ごはんは食べたの?」
 レイラ先生がやさしく尋ねると彼はうん、と頷く。ママが湯飲みにお茶をいれてあげて、ちょこんと遠山君が私の前に座ると、いつのまにか家族の一員みたいにふつうに馴染んでいた。昨日初めて話したばっかりなのにみんなで楽しくおしゃべりしている。改めて見ると不思議な光景だった。でもなんかよかった。いい光景だった。
「チャイムは?」
 遠山君が尋ねると、ジュナさんが答えた。
「五時くらいに起きて朝ごはんを食べて、また眠っている」
 ペット連れでの宿泊許可は彼の部屋のみなので、飼い主の陽志がいるのに旅先に来てまでもジュナさんがチャイムの面倒をみているのが、なんだかおかしかった。
「起きてたら一緒に散歩に連れて行ってもいい?」
 陽志とジュナさんに遠山君が尋ね、二人が「いいよ」と同時に言ったのもなんかおかしかった。
 私が笑っていると、遠山君も私につられて笑った。
「何がおかしいんだよ」
 陽志が二日酔いのはれぼったいぶさいくなかおでむっとして言うのにもなんだか妙におかしくなって、二人でけたけた笑っていると「箸が転がってもおかしい年ごろだから」とジュナさんが言った。
「ちっ、がきはこれだから」
 ぶつぶつ言いながらも陽志は遠山君のわきをくすぐって、さらに笑わせていた。
「そんなにおかしければ、もっと笑わせてやろう!」
 と、くねくねして笑いながら逃げようとする遠山君となんだか楽しそうに遊んでいるのだった。


 明るい太陽の下、澄んだ水の大きな川は静かにそこにあった。昼間に来てみると、きらきらと水面に光が乱反射して、なんだかすごく明るく開けたところだった。河原の石が白っぽいのでそれがさらに明るい印象をもたらしているようだ。河原の土手の近くには仮設テントのようなものがあって、ブルーシートがかけられたお神輿やお祭り用の道具がしまわれていたり、河原のあちこちに昨夜焚かれていた炎のための木で組んだ囲いがあったけれど、まだ午前中だということもあってか、私たちの他には誰も人が居なくて静かだった。
 チャイムと一緒に散策したり、裸足になって足だけ川の水につけて浅瀬を歩いたり、小さな蟹や魚を見つけたり、すべすべの丸い石を集めたりして、私と遠山君はいつのまにか時間を忘れて河原で遊んでいた。ジュナさんはそばで見守っていて、時折私たちに混ざったけれど大抵(たいてい)は近くに腰を下ろして私たちを見ていた。
「昨日の屋台はみんなどこに行ったんだろうな」
「ほんとだね。でも夕方になればまたやって来るんじゃない?」
「今日の方が本番だから、昨日よりも増えているかもしれない。今夜は花火も上がるし」
「そうなんだ。楽しみ」
 チャイムが土手の方へ行きたがるのでひもを持って、私たちはチャイムの後をついて歩いていた。草むらに鼻を突っ込んでふんふんいっているチャイムをすきにさせていたら、一羽の黒いアゲハ蝶がひらひらと私たちの周りに飛んできた。チャイムが声にならない音をかかかっと出してアゲハ蝶を見つめて狙っているので少し心配したけれど、アゲハ蝶は低いところへは降りてこないで私たちの頭の上をひらひらと舞い、そして私の頭の上にとまった。
「あ、動かないで。いま水瀬の頭の上に蝶々がとまってる」
「え、うそ?」
 かかかかといってチャイムがじっと私の頭の方を見ている。
「チャイムが狙ってる」
 くくくと笑いながら遠山君が言った。
「頭にとびかかってきそうでこわいな~」
 遠山君がチャイムを抱っこして動きを封じると、今度はアゲハ蝶はひらひらっと彼の頭の上にとまった。
「あ、今度は遠山君の頭の上に」
 興奮したチャイムをぎゅっと抱きながら彼はちょっと嬉しそうに「え、うそ?」と言った。
「ほんと。チャイム離しちゃだめだよ。すっごい見てるから」
 かかかかと鳴きながらチャイムは遠山君の腕の中で尻尾をぱたんぱたんと大きく左右にふっていた。 
「写真撮りたいけど、何も持っていないんだよね」
「うう、自分で見れないのがくやしい」
「気持ちわかるよ。私もさっきそうだったから」
「まだいる?」
「うん」
 アゲハ蝶は遠山君の頭の上でしばらくゆっくり羽を閉じたり開いたりして休んでいたけれど、またふいっと飛んで、ひらひらと今度は茂みの方へ舞うようにして飛んでいった。
「あ~、行っちゃった……」
 二人でひらひらと飛んでいく蝶々を見送り、私は小さく手を振った。遠山君はチャイムの手をとって振っていた。
「きれいな大きいアゲハだったね」
「うん。ああ、惜しいことをした。写真に撮ってほしかったのに」
「チャイムも惜しいことをした、ってかおしているよ」
「ほんとかよ」
 言いながら彼はチャイムを地面に降ろした。チャイムはしきりにぺろぺろと背中をなめて身づくろいをしていたけれど、それから意気揚々(いきようよう)とまた草むらに鼻を突っ込んでいった。
「順番に頭にとまっていってくれたね」
「うん。公平にしてくれたな」
 笑いながらそう言って、彼は蝶々の飛んでいった方を眺めていた。
 私は吹いてくる風のここちよさを味わいながら、空を見上げる。
 空が高くて青く、空気が澄んでいて、昨日までの残暑からふいに風向きを変えた秋の気配がもう世界を包んでいる。ふいに何かを思い出しそうになった。潮がひくように、気づいたらうだるような熱気がこんなふうに去っていて、涼しい風が吹いて、ある日突然、空気がさらりと変わっていることに気づく。短い夏が終わったんだなあって気づいて、少しさみしくもなる。
 ふっと湊(そう)君のことが頭をよぎった。
 もういない友達。この空の向こうにいってしまった私の大切な友達。なんだか楽しかったような思い出の風景とか。場面とか。それらの淡い印象が記憶の中からふいにいくつか浮かび上がって、また消えていった。
「チャイムがうんちしてるよ」
 そこへジュナさんがのんびり歩いてきて、私たちの足下を指さして言った。
「うわ?」
 見るとチャイムは妙な姿勢で土の上できばっている最中だった。
「おお、ほんとだ。あ、出てきた!」
 何故か嬉しそうに実況中継してくれる遠山君と私たちに見守られて、チャイムは今まさに何かを産み落とそうとしていた。そしてあたりにかなり強烈な臭いが漂い、ブツをいくつかそこに落っことし、おもむろに前足で土をかいてかけはじめたがうまく隠せていなかったので、そこらへんから土をとって私と遠山君でかけてあげた。
「これだけしっかり土かけておけば、誰かが上を踏んでも大丈夫だよね」
「うん。大丈夫だろう」
 当の本猫は気ままにまた草むらを散策し始めている。ひもはジュナさんに渡してあったので、私たちは川に降りて手を洗いに行き、二人ともハンカチを持っていなかったので手を振って水を飛ばしながら戻ることにした。私が前を歩いていると、後ろから遠山君が「水瀬」と呼んだので、私は振り向いた。
 待っていても彼は何も言わないでこっちを見ているだけなので「何?」と私がきくと、彼はちょっとためらうような感じで、それから意を決したみたいにして言った。
「あのさ、俺、水瀬に言ってないことがあって」
「何?」
「湊のことなんだけど」
 その瞬間、私はなんとなく自分が自動的に細心の注意を持って最適化されたように感じた。それを知る前に予め知っていたみたいな感じで。パズルのピースがはまるように、断片的なものごとがひとつの絵になって、それをとっさに促したみたいな感じだった。予兆を絵にしたのだ。
「うん」
「実は俺、湊が入院している病院、替えたほうがいいって、なんとなく知っていたんだ。なんでだかそういうのがわかる時があって」
「うん」
「それでそれ、あいつに言ってみたことがあったんだ。難しいことはわからないけど、治療法とか何かがあいつには合っていなかったんだよ。それに、あいつもそれに気づいていたみたいだったから。
 そうしたら、やっぱりあいつは自分でちゃんとわかってたんだ。ただ、ここの治療方法でも他のどこのものでも自分が治ることはないってわかっていて、でも親とか周りのために治療を受けていたみたいだった。
 俺が何となくわかったのは、その治療は受けないでいるほうがまだいい、ってくらいのことだったんだけど、それを伝えるのって難しいだろう? 子供の俺が言っても信じてもらえないだろうし。それで何か方法はないかなって思っていたんだけど、どうしたらいいのかわからなくて、何もできないままでいたら、あっという間に死んじゃったんだ。
 あんなに早くあいつが逝ってしまうとは思わなかったんだ」
 私はできるだけ静かに心を込めて言った。
「遠山君がそれを止められなかったって思うことないよ」
 遠山君は私をじっと見ていた。
「湊君は知っていたんでしょう? 本当に病院や治療法を替える必要があったのなら、なんとかして湊君自身がそうしていたと思うし、彼がするべきことだったのだと思う。うまくいえないけれど、湊君が自分でそれを選んだんだよ。親や周りの為に治療を受けていたというなら、自分の気づいていることよりも、そっちを優先することを選んだってことだもの。間違っているか正しいかとかはわからないけれど、自分で選んでそうしたんだよ」
 そう言って私は、ふっと微笑んだ。
「ほら見て、さっきのアゲハ蝶だよ」
 さっきの黒いアゲハ蝶がひらひらと遠山君の頭上を舞っていた。
「あ」
「ね、たぶん、湊君が気にするなって言ってきてるんだよ。それから、ありがとうって。遠山君の気持ちだけで十分嬉しいって言ってるよ」
 遠山君はちょっと泣きそうな顔でくしゃっと笑った。
「ほんとかよ」
「ほんとほんと」
 私が笑って言うと、彼は「その言い方がうそくさい」と笑った。
「でも、遠山君もそう思うでしょう? この子は天国からのお使いだって」
 私がひらひら舞う蝶々を指さすと、蝶々はそのまま私の指にとまった。
「あ」
「ほらね」
「何がほらね、だよ」
 そう言っている内にまた蝶々はひらひらと飛んで行ってしまった。それを見送ってから私が「チャイムとジュナさんが待っているよ」と彼に手を差し出したら、彼は「うん、行こう」と言って、私の手をぎゅっと握った。そうして二人で手をつないでジュナさんとチャイムのところへ戻ると、いつの間にか陽志が来ていた。
「お~、仲良く手をつないじゃって! ひゅ~ひゅ~」
「陽志、そんなの本物の小学生だって言わないよ?」
 私が冷静に(しかも少し気の毒そうに)そう言うと、陽志はむっとして「かわいくないな!」
 私と遠山君は手を離して、陽志にまとわりついた。
「ね~、のどかわいた。何かおごって~」
「アイスでもいいよ?」
「なんだよ、急にたかりにきやがって」
「なんだよ、可愛く甘えてあげたのに~」
 私が言い返すと、陽志は小学生相手におとなげなく言った。
「あげたのに? だと? それにどこが可愛いんだよ!」
 なんて遊んでいたら、ジュナさんが「護(まもる)君のお店に行って一休みしようよ」とチャイムを抱き上げて声をかけてくれたので、私たちは遠山君ちのお店に移動することにした。
「いい天気だなあ。気持ちいいなあ。またビール飲みたくなってきた」
 歩きながらそう言う陽志に私はあきれた。
「また飲むの? 二日酔いで苦しんでいたくせに」
「いいんだよ。休みに来てるんだから」
 そう言って遠山君ちのお店に缶ビールが置いてあるのを目ざとく見つけると、すかさず手に取っていた。
「昼間から飲むのもいいな」
 ジュナさんまでそれを見てビールに手を伸ばしていた。そして私と遠山君は炭酸飲料とアイスクリームをごちそうになった。チャイムには持ってきていた水飲み用の携帯カップにお水を入れて置いてあげた。
 昨日よりにぎやかに大きな樹の緑陰にあるテーブルについて、楽しそうにしているみんなの顔を見ていると、また不思議な気持になった。ゆるやかな旅の仲間。誰が来て加わっても去っても、すべてよし。それぞれの目的地へ向かう途中のひとときにこうして過ごして、またそれぞれの道へいく。流れていく。また再会するかもしれないし、しないかもしれない。でも、こうやって今、楽しく過ごしている。何かいいものをそれぞれが旅のとちゅうで持ち寄り、そうして分ち合っている。
 チャイムを抱っこして、この小さな可愛らしい旅の仲間と一緒にみんなを眺めていたら、いまがいつなのか、誰といるのか、なんだかよくわからなくなった。ずっとこうしていたような気もするし、なんだか今日初めて会ったばかりのような気もする。とても懐かしいような、新鮮なような。でも、すごく心地がいい。時間というものがそもそもなくなって、いまがいつで誰といて、という境界線もなくなり、緑陰で私たちを包んでくれている大樹も、吹く風も、高く青い空もすべて、ただ心地よく世界にやわらかく溶けこんでしまう。
 時間のない永遠のとき──こういうとき、私は永遠の一部になって世界に溶け込み、私を通して世界が世界をみているような気分になる。私は世界のチャンネルとして世界を見ている。広い宇宙の中の小さな星の世界の中の小さなひとつの窓。私という窓を通して見る世界。それは分離しておらず、すべてを肯定してすべてをただみている。金色のはちみつのようにあまく芳醇で幸福な、時間のないとき。永遠。そんな感じ。
 でもその心地の良い永遠のときは、ふいにまた個人の自分の目に戻ってくることで、途切れる。
 ふと気づいたらジュナさんが私をじっと見ていた、
 そして彼の視線に気づいた私に、にこっと微笑んだ。
 ただそれだけ。
 でも、ああ、彼も知っているんだ。同じものを知っている。だから、わかっている。それがなんとなくわかった。言葉にしなくても、同じものを知っていることが、わかってしまった。わかられてしまった。
 チャイムが降ろしてくれと身じろぎするので、私はチャイムを地面に降ろした。ひもをテーブルの足に結わえてあるので、早速ひもの長さの範囲をチャイムは探索していた。みんなに見守られているので、ぴん! と尻尾をたてて冒険心と好奇心を満足させるべくのしのしと歩き、ふんふんとにおいをかいだり、その場に寝転んで背中を地面にこすりつけるようにごろんごろんとしたり、素晴らしく可愛らしい姿を見せてくれる。
「大人ってなんで酒飲むの? そんな苦いものうまいの?」
 遠山君が言って、陽志が
「うまいんだよ」
 悪いか、というように答えていた。
 遠山君は何か言いたそうに陽志を見ていたけれど、ジュナさんに目を移した。
「それおいしいの? 本当に?」
 ジュナさんは彼に「お酒を飲む人をみるのがあまり好きじゃないんだね」と言った。
「いつもそうってわけじゃないんだけど」
 遠山君がそう言うのを私は背中で聴いていた。地面に転がるチャイムをなでながら。
「何で飲むのかはひとそれぞれだろうけれど、そのやり方がいいか悪いかは別として、絡みついたいろんな呪縛や封印を解こうと魂が必死にもがいて、人生の転換点、今までの自分が死んで新しく生まれ変わるような、魂の望む生き方へシフトしていくためのものを無意識に求めている場合もあるんだよ」
「死んで生まれ変わるの?」
「本当に死んでしまうのではなくて、古い自分という殻を破るための通過点としての死だよ」
「脱皮みたいだね」
「まさにそんな感じだよ」
「人間も脱皮するの?」
「今までの生き方や在り方が魂の望む生き方と大きくかけ離れてしまっていると、古い自分が死んで新しく生まれ変わらないと苦しくてしかたなくなるんだよ。窮屈な殻を破らないと窒息してしまうから」
「酒を飲めば脱皮できるの?」
「いや、そういうわけでは」
 ジュナさんが返答に詰まっていると、陽志が言った。
「ドラッグとかアルコールで一種の変性意識に入ろうとするんだろうな、たぶん」
 そして私をあごでさして「昨日の遥香の話に出てきた夢時間ってやつだよ」と言った。
 遠山君の視線は私へ、それを受けて私の視線はジュナさんへと向かった。
 なんだかまたここへきたみたいだ。
 思わぬところからこの話に戻ってきたことに、私はちょっとどきどきしていた。チャイムを抱っこしてきゅっと抱きしめると少し落ち着いて安心したので、チャイムに一緒に聴いてもらうことにした。
「普段の意識とは違った意識状態のことを言うんだよね、変性意識って。シャーマンの意識状態とか、瞑想中の高僧とかの脳波を調べたりすると特別な脳波の形が出るんでしょう?」
 スーパーナチュラルな分野に詳しい遠山君はジュナさんにそう言った。
「よく知っているね」
「興味があるから」
「変性意識状態に入るのは特別な人たちだけではないよ。ランニングやスイミング、トレーニング、演劇、ゲームや、絵を描いたり、土を触るとか、楽器を演奏するのもそうだし、スポーツ観戦やライブで熱狂したり、クラブで音楽に合わせて踊ったりするのもみんな変性意識へ入るひとつの試みなんだよ。そんなふうに夢中になっているとき、集中しているとき、時間を忘れたりして気持ちがいいでしょう。人間はそうやって魂の解放をするんだよ。そうやって色々な方法を使って僕たちは何とか夢時間に入ろうと還ろうとするし、眠っている時だって本当はそうなんだよ。ただ深くは入ることができなかったり、その入り口に入るための色々な呪縛をゆるめるだけで精一杯の場合もあるけれど」
「じゃあ、俺も入れる?」
「というか、大抵は眠っている時にそうなっているよ。ただ自由にはならなかったり、浅かったり、覚えてはいなかったりの差はあるだろうけれど。シャーマンや瞑想をする高僧なんかはもっとずっと深いところへ意識的に入っていくことができるんだよ」
「自分で脳波をコントロールできるんだよね?」
「外側から科学的に観察するとそういうことになるね」
 ジュナさんはそう言ってから私をちらっと見て、また遠山君の方を見た。
「それに君たちは、あまり自覚しないでもけっこう頻繁(ひんぱん)に自由に行き来しているよ。ここにいながら次元移動していたり普通にしている」
 そう言ってジュナさんは私に
「遥香ちゃん、さっきここに居ながら、ふつうに次元移動していたよね」
「えっ?」
 なにそれ? とびっくりする私に、彼は笑った。
「さっき、時間のないところに行っていたでしょう?」
 あ、と私は思った。
 永遠のときのことだ──あれって、次元移動なのか。
「あの、なんだか時間を忘れたような感じってそうなの?」
「うん。ふつうにみんなとここにいながら、すーって変性意識に入っていたよ。まるでいつも瞑想でもしているみたいに自然にね」
「なにそれ、水瀬そんなことしてたの?」
「してたというか、なんというか」
 私が返答に困っていると、ジュナさんは笑った。
「君だってそうだよ。護君の場合はもっと瞬間的にぱっと入ってまたぱっと戻ってみたいで面白いけど」
「え~~なんだよそれ!?」
「自覚なくやってるんだよ。でもそういうときは、なんか瞬間的に閃いたり、こうしよう、とか今まで思いもしなかったことが浮かんで、気づいたらもうしているとか……そういうのよくあるんじゃない?」
「ええ!?、何で知ってるんだよ?」
 なんだか嬉しそうに遠山君は驚いていた。
「そういうのが何となくわかるからだよ」
 ジュナさんは笑いながらそう答えて、彼の額をつついた。
「君は色んな才能がありそうだから、興味があることもそうだけれど、ぱっとやってみようと思ったことを色々やってみるといいよ。何が合うか何が好きか、そうやってどんどん拓いていくといいよ。どんどん行動していくほどにうまく波に乗っていくと思う」
 そしてちょっと笑って「才能あるサーファーみたいなものだから、波に乗ったらどんどん次々に大きな波をこなしていくと思う。楽しみだね」
「俺、サーフィンなんてやったことないよ。それにサーファーはあまり好みじゃないんだけど」
「比喩(ひゆ)だよ。アホ」
 陽志がそう言うと、負けずに遠山君はきっぱりと言った。
「才能あるって言われたし、俺はアホじゃない」
「才能あるアホかもしれないじゃないか」
「……」
 あ、負けた。
「陽志~~、おとなげないことするなよ~」
 ジュナさんがあきれてたしなめると、遠山君は即座に立ち直った。
「そうだ。おとなげないよ、陽志さん」
「そうだ。おとなげないよ、陽志」
 私もついでにのっかったら、陽志は「のるな」とむっとして私をにらんだ。
「海外に行ってみるといいよ。君は色々な国や場所を旅してみるといいと思う。世界中に友達ができるよ、きっと」
 ジュナさんは遠山君にそう言って、
「今は、ちょっと色々たいへんかもしれないけれど、でも、こうやってへんな仲間ができたりするでしょう?」
 へんな仲間って……確かにそうだけどさ。
 チャイムと一緒に見守りながら、私はそこはかとなく傷ついたりしていた。
「君はひとりでも大丈夫だし、仲間がいてもいなくても、どこででもやっていける。自信をもって、そのままいくといいよ。色々言う人がいても今まで通り気にしないで。たとえそれが親だったり、大人だったりしてもだよ。もう自分の道を行くんだよ」
 遠山君はジュナさんをまっすぐ見て、うん、と頷いていた。何だか彼らしい、真っ直ぐな強い瞳で。よりくっきりと鮮やかに。その存在の輪郭を光らせ、際立たせるみたいにして。そんなふうな彼は、なんだかいつもよりもかっこよく素敵に見えた。
 どこか遠い国の変わった並木道を異国のきれいな女の子と楽しそうに歩いている大人になった彼の姿を、なんとなくふっと思い浮かべた。空がとっても鮮やかな濃い青で、彼らも鮮やかな色彩の洋服を着ている。緑鮮やかな丘陵地帯があって、バグパイプのような神秘的な音も何となく聞こえてくる。イメージとしてはスペインのような感じだったけれど、でもバグパイプの音のようなものが聞こえるからケルト?
 う~ん、遠山君はもてそうだなあ。
 私は何となくそんなことを思いながら、不思議な(へんな)仲間と一緒にいるこのひとときにじんわりとした楽しさのようなものを感じていた。それは幸福のにおい。あたたかく懐かしい平安の肌触り。ゆったりとした平和へ誘(いざな)う快(こころよ)いリズムだった。
「よかったな!」
 陽志に頭をくしゃくしゃにされながら、遠山君は何だか嬉しそうに、にくまれぐちをきいていた。
「さっきはアホって言ったくせに!」
 涼しい風が梢をゆらし、緑の葉がさわさわと鳴った。高くなった陽射しに明るく照らされた草木がきらきらと揺れながら光り、地面に降った揺れる木漏れ日をチャイムが興味深そうにじっと見つめていた。 


 ぱっと明るい光の模様が開いて、夜空を見上げるみんなのかおを照らした。
 どおおんというものすごい音、そしてぱらぱらっという音。火薬のにおい。川面にも花火が映っていた。
 私はジュナさんと遠山君と並んで手をつないで花火を見上げていた。レイラ先生と陽志はその隣で仲良く手をつないで空を見上げていて、私達の後ろではパパとママが同じように空を見上げている。チャイムはお留守番。地響きのような花火の音に今頃びっくりしているかもしれない。

 お祭りは昨夜よりも様々な夜店が出ていて人出も多く、より活気があってにぎやかだった。色とりどりの浴衣を来た女の子たちもたくさんいて、金魚のように夜の中を泳いでいるのはなんだかきれいだった。ひらひらとゆれる緋色の結んだ帯がまるで尾ひれみたいだったのだ。水風船やお面や射的なんかのお店も出ていて、子供たちでにぎわっていた。この子たちの誰かがこれからの遠山君のクラスメイトになったり、友達になったりするんだろう。
 どうかそれぞれの旅路が守られますように。その道行きがどのようなものであっても、旅の仲間としてのひとときを心地よくわかちあえますように。
 ゆるやかに流れる人の波をまるで祈るような気持ちで眺めていたら、どおおんと花火の音が鳴った。歓声が上がって、みんなが夜空を見上げる。
 明るいまるい月のそばに花火が上がっていて、夜空にぱっと鮮やかな光の華を開いて、そして散らしていく。 
「川の方に行こう!」
 遠山君が私の手をとってどんどん人の波を駆け抜けて行くので、その後ろを少し遅れて大人たちが追いかけてきた。人は多いけれど、それでもぱらぱらと散れるくらいなので決してひとでごみごみしている感じではない。そこを上手に縫うようにして河原に出ると、夜空に浮かぶ花火と川面に映る花火の不思議な鏡の世界があった。
「きれいだね」
 上下に咲く光の華にみとれて私が言うと、
「ほんとだ。きれいだ」
 いつのまにか隣にジュナさんがいた。その隣では陽志とレイラ先生が手をつないで花火を見ながら何か仲良く言葉を交わしていた。
「あ、また上がるわよ」
 ママが言って、振り返ると後ろでパパとママが上気した子供のようなかおで空を見上げていたので、私も空を見上げた。夜空に魂みたいな光の玉がひゅるるるとおひれをつけて勢いよく上がる。夜空には光で描かれたその模様がひらき、水面にもゆれてにじみながら映し出されていた。どおおんという音。パラパラパラッという音。火薬のにおい。上下に明かされた光の模様は隣で見上げている遠山君の嬉しそうなかおをも照らした。つないだ手をぎゅっと握って、おおーといってみとれている。
「夜空を上っていく光のおたまじゃくしみたいだね」
 私がそう言うと、
「上空で炸裂するオタマジャクシ……なかなかシュールだね」
 というコメントが返ってきた。
「メルヘン調で言ったつもりだったのに、なぜかホラーで返ってきてしまった」
 私がそう言うと、ジュナさんと遠山君は笑った。
「あ、また上がるよ」
 次々と打ち上げられる光の玉は、夜空でひととき、自らの模様を光の色彩でそれぞれに描き、そして儚く散っていった。そして水面にはにじみながらもそれらの幻影が次々と映し出され、また消えていった。
「このあと、また炎をのせたお神輿が川に入るんだって」
「昨日よりも水がさらに冷たそうだよね」
「でもお神輿の上には炎があるから熱いしちょうどいいんじゃない」
「そうだろうか」
「たこ焼き食べたいな、花火が終わったら買いに行こうよ」
「クリームチーズたい焼きっていうのもあったよ」
 わっとあがる歓声。花火が夜空にひらめき、みんなで無邪気に空を見上げて、同じ夜を泳いだ。また会えるかもしれないし、会えないかもしれない。次々と打ち上げられる光の珠みたいに、ひととき宙空を照らしては去っていく、ゆるやかに流れる旅の仲間たち。宙空に様々な美しい光の模様を描き出し、ひとときの光の色彩でみんなのかおをもあかるく照らし出しては、儚く散っていく光の華たち。揺れる水面。静かに流れる川が映し出すにじんだ光の幻影。私たちは互いに手をぎゅっと握りあって、それを見つめていた。
 
 


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