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「魂」を持つから、僕らは人を嫌いになり、そして好きになるんじゃないか

おそらくこれらツイートの念頭にあるのは、キズナアイの引退だけでなく、最近起こったVTuberのアレやコレ、それこそ『NEEDY GIRL OVERDOSE』が戯画化したような炎上騒動なんだろうと思う。

ああいう光景を見たら、そりゃ良識ある大人なら、「こんな風に人間のメンタルヘルスに負荷を掛ける仕組みは良くないんじゃないか」と思うでしょう。そして「生身の人間はインターネットやめろ!」と叫び、生身の人間が消費の対象にならないキャラクターシステムの方がより良いんじゃないかと、当然思うのでしょう。

しかし、そうやってプロフェッショナルによって運営され、炎上しても特に中の人のメンタルを壊したりしない、「安全に痛い」キャラクターを、果たして人々は本気で推すことができるのか?僕は疑問なんですね。というか、少なくとも、僕はそういうキャラクターを推すことはできないと思うのです。

キャラクターが炎上したら、そのことに本気で傷ついてしまう「魂」がある、実はそのことこそが、単なる娯楽を超えて「本気でそのキャラクターを推したいと思う」根拠になるのではないかと、そう思うのです。

「分人」とは、第一にコミュニケーションを単純化する仕組みだった

キズナアイが「分人」という概念を利用して複数の中の人を導入しようとしたとき、インターネット上では感情的な反発が大勢を占めました。それによって、キズナアイを運営する人々は、「分人」という概念を放棄して中の人複数制を諦めたわけです。

しかし、そこでは「中の人が複数いるなんておかしい」という感情的な反発はあったけど、そのような仕組みを導入する理論的背景となった「分人」という概念そのものについては、あまり考慮されなかった様に思います。

そして、そのような感情的反発の水準で計画が挫折してしまったために、「分人」という考え方をバーチャルYouTuberに導入することに肯定的だった人たちには、「本当は理論的に素晴らしい考え方だったはずなのに、無知蒙昧な大衆の反発によって実現できなかった」という悔しさが残ってしまっているのではないでしょうか。

では、そもそも分人とは一体どんなもので、なぜ運営側はそれをキズナアイというバーチャルYouTuberに導入しようとしたのでしょうか。

そもそも分人とは、小説家の平野啓一郎氏が『私とは何か――「個人」から「分人」へ』という著書で提言した概念です。

そして著書のタイトルにあるとおり、「分人」は「個人」という概念を置き換えるものなわけです。

では、一体どうやって置き換えるのか?詳しくは上記の本を読んでいただきたいのですが、簡単に要約すると「今までは一つの分かちがたい『個人』というものが、一人の人間そのものとみなされてきたが、そうではなく、様々な生活の場面で現れる複数の『分人』の集合体が一人の人間なのだと、捉え直した方がいいのではないか」ということです。

この著書において「個人」というものは、「本当の自分」というものとほぼ同義として扱われています。そして、いままでの個人を基礎にした個人主義の考え方は、本当の自分というものが確固として存在し、その本当の自分は、社会の中で本当の自分をさらけ出すこともあるが、偽の自分をさらけ出すこともあるとする考え方だったとします。

それに対して、分人を基礎とした分人主義という考えでは、「本当の自分」なんて存在しないとされます。様々な社会生活の場面で人は異なった分人であるが、そのどれもが本物であり偽物なんて無い。複数の異なった分人が集まったものこそが自分なのだという、考え方なのですね、

そして、上記の本の著者である平野氏は、なぜそのような分人主義という考え方が必要になるかについて、「そのほうがコミュニケーションがシンプルになるから」と回答しています。

「本当の自分」というものがどんな人にも存在すると仮定すると、社会生活の場面で他人とコミュニケーションを取るときに、相手の言ったメッセージを「それは本当に、その人が言いたいことなんだろうか。嘘を言って取り繕うよう演技しているんじゃないか」と邪推する必要が出てきたり、また自分がメッセージを発するときも「本当の自分が言いたいことはこうだけど、ここでは場面に合わせて偽のメッセージを伝えて演技しなくてはならないのではないか」と自分を押し殺したりと、コミュニケーションが複雑化するとしているんですね。

そして、そのようなコミュニケーションの複雑さに耐えきれず、他人や自分が言ってる言葉が信じられなくなると、自傷行為などメンタルヘルスに深刻なダメージが生じるのではないかと、平野氏は、推測しているわけです。

それに対して、「本当の自分」なんてなく、場面ごとに「分人」が存在すると考えるなら、そこでは邪推をしたり、自分を押し殺したりするなく、シンプルにその場面に合ったコミュニケーションが可能になり、より健やかに暮らせるようになると、そう平野氏は主張するわけです。

バーチャルYouTuberの中の人の負荷を軽減するために、運営側は「分人」を導入しようとしたのではないか

そして、そのようにコミュニケーションをシンプルにし、メンタルヘルスへの負荷を軽減するというのは、バーチャルYouTuberの運営側からすると、まさにバーチャルYouTuberにピッタリなソリューションなわけです。

YouTuberという存在は、人気であればあるほど、常に膨大な量のコメントに反応してコミュニケーションを行わなければなりません。

しかも活動が多岐にわたる場合、それぞれの活動毎に「言うべきこと/言ってはいけないこと」が大きく変わってきます。あるバーチャルYouTuberが、「台湾」を国として扱ったことにより、中国本土のネットユーザーが激怒し、それに対し運営側が「一つの中国」を肯定すると発言したら、今度は台湾のネットユーザーが怒り出すという炎上騒動が以前ありましたが、これもまさに「それぞれの場面によって正解のコミュニケーションが全く異なる」ということの証左であるといえます。

このようなコミュニケーションの量の多さと質の複雑さに対応する方法として、「同じキャラクターでも、活動毎に別々の『分人』として中の人を複数用意する」という方法が、採用されたわけです。

そしてこれは、中の人が違ってもガワは共有することができるという、バーチャルYouTuberならではの技術的特性ともうまくマッチします。平野氏の本では、分人という考え方を基本的に肯定しながら、しかしそれを破綻させるかもしれない要素として「顔」の存在をあげていました。つまり、リアルにおいては「顔」はそれぞれの個人固有のものであり、それ故分割できないものとされたわけですね。

ところが、バーチャルYouTuberにおいては「顔」も個人を同定する証拠とはなりえないわけで、「顔は共有していても違う分人だよ」という風に認識させることが容易となるわけです。

上記のようなことから、キズナアイの運営側は、「分人」という概念を用いて、中の人複数制を理論的に支えようとしたのだと、そう、僕は推測します。

「分人」という考えは、エンジニア的に言えばオブジェクト指向であり、かなり親和性が高い

そして更に言うと、この「分人」という考え方は、初期にバーチャルYouTuberの運営側に回ったり、それこそバーチャルYouTuberに期待していたツイート主のような、情報技術のスキルが高い人にとっては、かなり親和性の高いものなわけです。

なぜなら、この分人という考え方は、彼らがプログラムやコンピューターシステムを構築する際に用いる、「オブジェクト指向」という考え方と、かなり似ているからなんですね、

オブジェクト指向とは何か、現代のコンピューター技術者ならだいたいは知っていて、仕事に応用しているにもかかわらず、言葉で説明するのは結構難しい概念なんですが、乱暴に要約すると「システム全体を複数のオブジェクトに分解し、個々のオブジェクトは限定された作業のみを行い。それらのオブジェクト同士がメッセージを送り合うことによって、システム全体が動くよう設計する」というものです。

例えば僕が記事を書いているnoteというブログサービス。これを実現するには大きく分けて

  • 記事をデータとして保存する機能

  • 利用者が記事を作成する機能

  • 閲覧者が記事を表示する機能

といったような機能が必要になります。ですが、それぞれの機能を一体にして作ってしまうと、例えば「記事を表示する機能に、SNSでのシェア機能をつけたい」となった場合に、「閲覧者が記事を表示する機能」だけではなく「記事をデータとして保存する機能」や「利用者が記事を作成する機能」にも影響が出る恐れが生じます。

それを防ぐために、個々の機能をオブジェクトとして分離し、個々のオブジェクトはそのオブジェクトに託された機能だけをやる。そういう風にすれば、SNSでのシェア機能をつけたかったら「閲覧者が記事を表示する機能」に対応するオブジェクトだけを改修すれば良いと、なるわけです。

そしてこのような、「一つの分かちがたい個体にすると、複雑になり手に負えないものになるから、複数の理解しやすいものに分割し、それらが集合したものを全体とする」という点は、まさしく分人主義と同じなのです。

だから、様々な障害や改修要求に対応しやすいプログラムを作るのが仕事な人が多かった、初期のバーチャルYouTuberファンからすれば、バーチャルYouTuberもそのように分人主義を導入し、障害対応や改修に対応しやすくあるべきなのが当然だと、そう考える訳です。

そしてさらに言えば、そういう初期のバーチャルYouTuberからすると、現在のバーチャルYouTuberは、顧客のニーズに応えて継ぎ接ぎでシステムを構築した結果、オブジェクト指向のような設計原則が守られなくなってメンテナンス不能となり、結果「炎上」という名の障害が頻発するようになった、そんなスパゲッティコード満載のクソシステムに見えて仕方ないわけです。

しかしバーチャルYouTuberを今推している人が求めているのは、まさに彼らが忌み嫌った「複雑さ」ではないか?

しかし、今バーチャルYouTuberを推している人が求めているのは、むしろその「複雑さ」「理解しがたさ」なのではないかと、僕は思うわけです。

先ほど僕は、分人主義が求められる理由として、それがまさしく「コミュニケーションをシンプルにするもの」だからと述べました。シンプルなコミュニケーションは、答えが容易に予想できるという点で確かに楽です。しかし、そういう楽なコミュニケーションで、人は本当に満足するのでしょうか?

それこそYouTuberを例に出しましょう。ある配信をしたとき、コメントする人に対して、まさにそのコメントをする人が望んだ対応をしてくれるYouTuber、それは確かにその場では心地よいかもしれませんが、それだけです。

一方、コメントをする人に対して、理不尽に切れたりヘラったりする配信者がいたとします。そういう人を見ると、一時的に不快になるかもしれません。が、そこで「○○ちゃん切れてたけどなんかイヤなことあったのかな」とか邪推したり、「あの場ではああいうコメントするのが正解に見えたけど、実は間違ってたのかな」とか思ったり……それは確かにとても複雑なコミュニケーションかもしれませんが、しかしそうやって「どういうコミュニケーションをすればいいのか」と正解を求めて悩むからこそ、真に人間味のある相手とコミュニケーションしている感覚になるわけです。これは人工無能やAIではまだ発展途上のものです。

更に言えば、初期のバーチャルYouTuberが、「こんなの僕らが求めたバーチャルYouTuberじゃない!」と思うような、彼氏バレなどによる炎上。

これは、分人という考え方からすれば確かに起きえないことかもしれません。複数の分人の中のある分人が炎上を起こしたとしても、その問題ある分人をパージすれキャラクター自体に影響は生じないからです。

しかし、そうやって得られるのは、「視聴者である僕らに向き合っているように見えるキャラクターも、結局その場面でお仕事として向き合っているに過ぎないんだ」という諦めなのです。大槻ケンヂの「林檎もぎれビーム」という曲

君が想うそのままのこと歌う誰か見つけても
すぐに恋に落ちてはダメさ
「お仕事でやってるだけかもよ」

という歌詞がありますが、分人という考え方では、「お仕事でやっている」ということがあらかじめ確定したしまっているわけです。

そうではなく、僕らはただ「お仕事」ではなく、その人の本当の気持ちから視聴者に向き合って欲しいと思い、そしてそう思うからこそバーチャルYouTuberに熱狂するわけです。

その熱は、彼氏バレによって「本当の気持ちから向き合ってない」と視聴者に認識されれば、まさしく大量の反転アンチを生んでしまうという点で、危険なものといえます。

しかし、そういう危険を侵す場所だからこそ、そこには独特の熱狂があるとも言えるわけです。「相手はただお仕事でやっているだけだから」ということを端から決めつけて、彼氏バレが起きてもそんなにダメージを受けないような安全に痛いコミュニケーションでは得られないものが、そこにはあるのです。

炎上するような心を持つ一つの魂だから、僕らはバーチャルYouTuberにのめりこむ

簡単に言えば、炎上の対象になりえるほど、確固たる個人として存在しているからこそ、僕らはバーチャルYouTuberを好きになるのです。

そしてもっと言えば、そして確固たる個人として存在しているバーチャルYouTuberが、そうであるが故にメンタルを傷つけてしまう、その傷こそが、実は愛おしかったりするのですね。

最近僕が大はまりしているゲームである『NEEDY GIRL OVERDOSE』の作者にゃるら氏が、ここら辺の感覚を的確に言葉にしています。

 最近、散見されるワードで「プロ意識」があり、感情のまま我儘な行動をすることで、ファンをガッカリさせる気かと責める際に使うのですね。お金をもらっている以上、観客に誠実であらねばならない理屈も分かりますが、僕が誰かを応援していた際に、その人の感情が爆発してプロならざる行動を見せた場合、単純に嬉しいです。この人も同じ人間だなって、本心の部分を曝け出すほどに感性が研ぎ澄まされたタイミングを見れて幸せだなと。大衆からは考えきれない極まった行動に出る、究極のファンサービス。Twitterに居た時代の田村ゆかりさんが深夜に呟く病んだ発言の数々が好きだった。
 仕事という実弾を捨てて、砂糖菓子の弾丸を撃ち放った瞬間なんです。理性よりも優先される感性、自我では抑えきれないイドの沸騰。炎上による罵詈雑言が飛び交う中、僕のような人間も少なからず存在するのも、ネットの面白いところですよね。

ここまで行かなくても、「炎上しちゃうかもしれないほどの個性」こそ、実は僕を含めたインターネット人の大好物であり、「この子推せるわー」と思える理由なのです。そして、そういう人間からすると、炎上の可能性がはなから排除されたバーチャルYouTuberなんて、アルコールの入ってないストゼロみたいな、何の魅力もないものなのです。

(と言いつつ、アルコールがそんなに取れない僕はノンアルのストゼロがあっても結構面白いんじゃ無いかと思ったりするが)

必要なのは、人が傷つかない仕組みじゃ無くて、傷ついてもそれを癒やすことができる仕組みでは無いか

自分の好きな人が炎上によってネットを去って行くというのは、僕も多く経験してきましたが、本当に辛いものです。辛いからこそ、そういう光景を見たとき、多くの人は「炎上で傷つけられる人が出ないようなインターネットにならないか」と思います。

しかし、もし全く炎上ということが起きず、人が傷つかないインターネットというものが完成したら、それはとてもつまらないし、そこでは真の人と人とのコミュニケーションなんてものは存在しないと思うのです。人と人は、傷つけ合うからこそ互いを求め合い、沢山の後悔をしながら、つながることができるのです。

重要なのは、そこで傷つけ合ってしまっても、そこで傷ついたままで終わらず、自分を癒やすこともできる場であるということなのではないでしょうか?

もし、バーチャルYouTuberに普通のYouTuberとは違う革新性があるとしたら、その癒やしを得やすいというところだと思います。キャラクターという仮面を用いることで、現実では捌けないような弱音を吐いたり、キャラクターとして演技する一方で、キャラクターではない「中の人」同士で付き合って、癒やされたり……こういった、それこそツイートで上がったにじさんじなどで行われていることは、今までのYouTuberではなかなかできなかったことです。

抱いたはずが突き飛ばして
包むはずが切り刻んで
撫でるつもりが引っ掻いて
また愛 求める

解り合えたふりしたって
僕らは違った個体で
だけどひとつになりたくて
暗闇で 踠いて 踠いている

掌 - Mr.Children


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