Harmony

 やけにかっこいい題名だけど、そんな気にしないでほしい。安楽死とか、odに関する私見を書いたものに過ぎないので。
 結論から言うと、人間はいつからかはわからないけど自由を奪われている。その奪われた自由、自分の生命を左右する自由というものが含まれているのではないか、というのが僕の考え。で、それを歴史とそれから現在の薬のあれこれから見ていきたい。正直、歴史の方は興味がないと思う人が大半だから、飛ばしてくれていい。
 人間が自由を奪われているというのはいつからの話か。多分、究極的には人間が共同生活を始めた時だと思うが、多分決定的なのは17世紀だ。宗教改革の際、ドイツでは戦争の過程として人々は領主が選択した宗派に入ることになった。つまり、人々は宗教を自分自身で選択する権利がなくなった。
 無論、自由主義思想とかリベラルといった思想は高揚するけど、それが国家の権力増大に対抗し、時には補完する形で唱えられてきた側面があることを忘れてはいけない。例えば、近代になって国境という概念ができるに至って、不法移民やら難民を取り締まる法律や部局が出現したのは面白い。要は、人間はどこかの国に属し、更に移動する権利を一部制限されたと考えられる。長々と書いてきたが、近世以降国家権力が強まるにつれて、人間の自由は制限されてきた、ということが僕の見立て。
 
 で、本題はこっから。多分、希死念慮とか死んでしまおうと思った人は多い。で、それをマジに考えると、苦しくなく、そして綺麗な死に方を調べることになる。それを推し進めるとodに行きつくことが多々あるのだが――知っての通り、そんな簡単に死ねる薬はない。単純に飲むだけでも数百錠、数千錠は覚悟しなきゃいけない(カフェインやニコチンなら少なく済むけど、かなり苦しい。前者に関しては断言できる)。で、アルコールとかを併用しても、かなりの分量を覚悟する必要がある。そこまでやっても、必ず死ねるかどうか怪しいという有様だ。確実に死ぬとしたら、odで高揚した状況下とかで、飛び降りをするとか、結局は綺麗さや苦しみを捨てなければいけないわけだ。
 さて、なんで、こうしたことになっているのか。当然、国によって簡単に死ねる薬は規制されているからだ。ここでさっきまでの歴史云々と繋がる。つまり、穿った見方をすると、簡単に死ねる薬を選択して、摂取する自由を奪われているということだ。安楽死の権利というのも、結局のところ国のライセンス、基準の下で自殺を認めるということで、結局は人々が主体的に死ぬ自由が制限されていると言っていい。こうしたことを考えると、やっぱり、国家権力の増大によって、死ぬ自由というのは制限されている。

 まとめます。近世以降、人々は国家権力の増大に伴って自由を制限されてきた。同様に現代でも国によって死ぬ自由は制限されている。場合によっては国家が設定する権利の名の下に、主体的に死ぬ自由というのが制限されている。自分の一番大事な自由を他人様にとやかく言われるというのはあまりいい気分ではない。

 僕はアナーキストじゃないし、国家という共同体があることによる利点もそれなりに享受している(人身の安全とかね)。ただ、一方で自分自身の根源的な部分まで権利の名の下に制限されてしまうとなると辛いものがある。
 でも、きっと死ぬ自由というのは今後、どんどん様々な形で制限されていくだろう。そこにあるのは多分――伊藤計劃が夢想したharmonyな世界なのだろう。
















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