スキイ場

    静かですねと、誰に言うでもなく彼女は言った。その場にいる言葉を介する生き物は私だけだったので、そうですねと、こちらも何の気なしに返してやった。
 踏切の下は急な坂道が続いていた。彼女の呼吸をひとつずつ数えながら、私は故郷のスキイ場を思い出した。一人乗りのリフトが、さほど近くも遠くもない距離で等間隔に並べられていた。慣れた調子でお尻を滑らせて、私はリフトに乗り込んだ。私の後ろに並んでいたはずの子供の泣き声が、一呼吸おいて聞こえてきた。振り返ると、人を乗せることに失敗した無人のリフトのいくつかが、私を呆然と見上げていた。子供は十も満たないと見た男だったので、おおかたリズムよくリフトに乗ることに失敗したか、乗る直前で足を滑らせたかに違いなかった。雪の上を無力に通り過ぎるのは不思議な感覚だった。よく見ると、私の前のリフトも無人なのであった。当時の流行りのポップスが耳に流れ込んでくる。私はこのままお尻を滑らせて飛び降りたらどうなるのかなと、好奇心のまま想像してみたりした。
 どうかしたんですかという彼女の声で意識が戻った。彼女は私に言ったのではないのかもしれなかった。一応、いいえ、と返事らしいものをしておいた。実家の近くにスキイ場がありまして、なんて、今は必要とは思えない話題だった。夜とは思えない暑さが迫っていた。
 暫くすると猫が可哀そうな顔をして通り過ぎた。彼女は猫をいたく気に入ったようで、猫を追いかけたそうに肩をよじった。私は何もしなかった。今日はやっぱりやめようかと、誰かが言った。誰が言ったのかわからなかった。彼女ではないようだった。
 やけに緑に光る星が目立った。もうすぐ落ちて来て、彼女の髪に溶け入ってくるだろうと思われた。誰もいないし、ちょうどよさそうですね。いきますか。はい。私は長い髪を引き連れてやっと歩きだした。何の音も聞こえなかった。緑の星が淵から溢れるように流れて、色を失った。色があっても無くてもどっちでもいいなと、思うくらいには美しかった。まぶたの裏には、リフトの上から見た真っ白い世界が続いていた。

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