見出し画像

ピンク色の壁

「くすんだピンク色。」
一番後ろの椅子に浅く腰掛け、後ろの壁を向いた背中から、少しだけ口元が見える。頬に空気を溜め、唇を尖らせている。
 廊下から授業5分前を知らせる予鈴が響く。それを合図にして、ロッカーの扉がギーギーと音を立てる。古い校舎だ、ロッカーも錆びついてしまって、雨の日は服が汚れないようにいつも注意が必要だ。筆箱を落とす音や誘い合う話し声が騒がしくなる。
やがて、教室から音がなくなる。この瞬間が、私は大好きだ。この瞬間を味わいたいがために、教室の施錠を率先して行っている。
音のない教室で大きく息を吸って、ゆっくり吐く。

いつもの儀式を終えて、鍵管理の仕事に取り掛かる。まずは、人が誰もいないことを確認する。うん、いつも通り、約一名教室に留まっている町田くんに声をかける。
「鍵かけんで。」
町田君はずっと壁を見ている。まったく反応しない。私は、声はかけたぞと思いながら、持っていく教科書と筆箱を確認し、教室の後ろへ向かう。
教室施錠のやり方は、いたって簡単である。まず、教室の後ろのドアを内側から施錠し、ドアを動かして、施錠されたことを必ず確認する。次に、前のドアへ向かい、教室の照明を落とす。夏の暑い時期は、カーテンを閉めておくとなお良い。しかし、1月下旬なので、カーテンは開けたままにしておく。もっとも、来年度から使用することになる新校舎の建設が始まってからは、この教室はお昼時も日陰に入ってしまい、照明を落とすと本当に暗くなった。
「灰色になった。」
町田くんは一言だけつぶやいた。お気に召さないそうだ。そんなこと言ってないで、早く理科室へ移動されたらどうかしら、なんて心の声を漏らしそうになる。町田君は、気だるそうに立ち上がると、手ぶらで教室を出ていった。いやいや、そっちは音楽室で、理科室は逆ですよ、と心の声を漏らしそうになるも、ぐっと我慢する。私は教室を出て外側から前のドアを施錠し、小走りで理科室へ向かう。
 本鈴が鳴り終わることにちょうど理科室に着いた私は、先生よりも少し早かった。ややしばらくして、町田くんが教室に入ってきた。あら、校舎一周してきたのかしら、と心の声が漏れそうになるも、ここでも我慢成功。しかし顔に出ていたらしく、町田君からは刺すような視線を浴びることになった。

 理科の授業が終わると、鍵を持っている私は素早く教室に向かい、ドアを開ける。人を待たせないことも私の重要な仕事である。

 今日はもう移動教室がないので、鍵を職員室へ返しに向かう。つつがない自分の仕事ぶりに感嘆する。
「あの新校舎、なんとかならん?どこもかしこも最悪やで。」
町田くんが、担任の田畑先生の肩を揉みながら、新校舎に対して文句を言っている。田畑先生は、生徒から呑気親父と呼ばれている。噂によると29歳なので、親父と呼ばれるには少し早いのだが、呑気なので気に留めていないそうだ。その穏やかな性格の田畑先生にクラスで一番懐いているのが、町田くんである。
「最悪って、なにさ。」
「俺、この学校の古くさいところが好きで、受験してん。オープンスクールでひとめぼれした。」
「そうなんか、それは残念やな。」
「残念やな、ちゃうんねん。ほんま他人事や、先生は。」
田畑先生がクスッと笑って、顔を上げた。
「あ、林さん、鍵?返しに来てくれた?」
田畑先生が、突っ立っている私に気づいてくれた。会話を中断された町田くんが私をチラッと見てくるが、とても不満げな顔である。
「林さんは、新校舎楽しみにしてる?」
「そうですね、楽しみです。」
「うん、そうだよね、楽しみだよね。」
予定調和の会話に町田君はムスっとした顔して、先ほど理科室で見せた痛い視線よりも、もっと直接的な睨みをきかせてきた。

つづく。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?