近くて遠い家族の話~「見知らぬ場所」ジュンパ・ラヒリ著(新潮社)
ジュンパ・ラヒリの「見知らぬ場所」が新潮クレスト・ブックスの新刊になっていたのを見て、何年かは文庫待ちをしてみたものの、文庫になる様子もないので、待っている間に絶版になっては困ると単行本を買った。
それから10年近く本棚に置いてあったのを最近になってようやく手に取った。
やはり、ラヒリの文章はいい。短くコンパクトにまとまった描写が秀逸で、淡々と語っていくテンポがとにかくいいのだ。
ラヒリを初めて読んだのは、「停電の夜に」だったが、かなりショッキングな内容だったので、いまでもよく覚えている。
私は、すごく記憶力のわるい人間なので、一度読んだくらいの本はどんどん忘れる。
実用書のたぐいなど、忘れたくない内容については、付箋を貼ってメモを取るなどしてまとめておいて後からでも見直せるようにしておくのだが、小説にそんなことをしてもしょうがないので小説は読みっぱなしになることが多い。
しかも私は、読むのが遅いので、たいていの本は1回しか読まない。
よほど好きな作家や気に入った本を読み直すことはまれにあるが、拾い読みをしたり、どんな話だったかが気になった箇所だけを探すようにして読むくらいしかしない。
それでも1回しか読んだことのないラヒリの短編は強く記憶に残っている。
きっと彼女の小説は、鮮明な映像として私の頭の中に残っているのだろう。
彼女の短編は、淡々としていながら、最後にえっと驚くラストが用意されているのも特徴のひとつだと思っている。
「見知らぬ場所」のラストもそうだし、「停電の夜に」もそうだ。ついでに、「停電の夜に」に収録されている「病気の通訳」もそうである。
ミステリーのように、作者がうやうやしく用意周到に仕掛けてくる、あっと驚く結末というのではなく、すっとさりげない驚きなのがいい。
読んでいると、えっとかへっとか小さな驚きであるが、そこで物語は終わってしまっているので、一読者として突き放されてしまい、ふうんと一旦本を閉じてしばし思考が立ち止まってしまう。
この何とも表現しがたい読後の余韻が、ラヒリの短編の醍醐味ともいうべき魅力だろう。
さて、「見知らぬ場所」は、インド系アメリカ人の父と娘の二つの視点で語られる。
父は妻を手術のトラブルにより急死してしまいひとりで、アメリカ人男性と結婚した娘の家にやってくる。
娘には男の子がひとりいて、お腹の中には二人目の赤ちゃんもいる。娘の夫は、出張で家にいないため、娘と父と子どもの三人しかいない。
父と娘のやり取りがぎこちなくさせているもっとも大きな要因は、二人の間にいたお母さんが急に亡くなってしまったからである。
仮にこの話をモノローグなしに映像とセリフのやり取りだけで描いたとしたら、単に孫の顔を見に娘の家にやってきたおじいちゃんの話になるだろう。
しかし、そのおじいちゃんには娘に話していない秘密があり、娘も父を家に引き取るべきかどうかモヤモヤしている。
物語は、父が自分の住む家へと帰ってしまうところで終わる。しかし、それだけですんなりとは終わらない。
運命のいたずらともいうべき皮肉な出来事で話は閉じられるのである。
このラストには、ふうんと唸って余韻にひたった後に、そっかでも親と子ってどこもこんな感じなのではないかと思った。
家族という病などというこざかしいタイトルの本があった。読んだこともないので何ともいえないが、家族というものは、表面的に何の問題がないように見える家庭でも、例えば誰かがひとり欠けたりするのをきっかけにそれまで胸のうちにしまわれていたひとりひとりの思いが噴き出し、バランスが失われてしまうのだ。
だが、それからしばらくするとまたそれぞれの関係は、何らかの形で均衡を取るようになる。盛大ないがみ合いにまで発展し、何とか仲直りをするか、一切の音信不通になるか。
結局のところ、家族というものは、一緒に暮らす理由があるうちだけに成立する関係だなどといってしまうと何とも虚しいが、近くて遠いのは家族であろうが赤の他人であろうが、実は同じことなのかもしれない。
読んでいただき、ありがとうございます!