「働く」と「生きる」を語らう書

なんと更新が1か月ぶりになってしまった。
正直言うと存在を忘れていた。よろしくない。
自分が己の思考をアウトプットする練習のための場であり、また未来の自分が振り返って読んだ時に懐かしく思えるための場である。三日坊主は良くない。

・・・などという説教臭い話は至極無駄だ。
初期研修医として半年が過ぎようとしている。日々自分の無能さを痛感する日々である。いつ人生という舞台を降りてやろうか、という考えが日に日に増しながら毎日をやり過ごしている。
大げさに言えば希死念慮というものなのかもしれないが、個人的にはそんな大仰なものでは無いし、本当にそれを抱えている人に失礼な話だ。
「これで死ぬわけじゃあるまいし」で乗り越える人間と、「まぁいつでも死ねるしな」で乗り越える人間がいるという言論を先日Twitterで見かけた。紛れもなく私は後者だ。いつからだろう、高校生の頃はそんなこと考えてもいなかったような気がする。大学生ではわずかに記憶があるような気がする。きっかけは分からない。後ろ向きな人間なのだ、本当に。他人からどう見えているか、どう思われているかを内心とても気にしているし、失敗しないように失敗しないようにとびくびくしながら生きている。臆病で狡い。
話が脱線しそうだ。
上述のような気持ちの割合が増していっているような人間なので、日々の労働も楽しくない。
いや、私の職業柄、これを「楽しい」というようなのはそれはそれでどうかと思うが。
医療職というのはどうあがいても「大きなマイナスを小さなマイナス」に持っていくしか出来ない、という意見をこれまたTwitterで見かけた。大きく首肯する。
このどうしようもないシステム的な毒に囚われ始めている。

高校生くらいから思っていることがある。
例えば日本国憲法では国民の義務として勤労がある。
がしかし、「働く」とは「生きる」ためではないのだろうか。
勤労が義務なのだとしたら、日本国においては日本人として「生きている」以上「働かねば」ならない。
そしてこの構造的ねじれは最早当然のように人類社会に根付いている。「働かざる者食うべからず」、このことわざは個人的には他者からの嫉妬・妬みからきているのではないかとすら思うが、だがこれは常識として受け入れられている。「働かざる者食えず」ではないのか、本来は。
労働という行為を通して得た創作物を以て自己規定が行えるとマルクスは唱えた。
「生きる」とは単に命を繋ぐ・心臓や脳が機能している、ということではない。少なくとも人間にとっては。
では何なのか、哲学者は問う。その答えは極論何でも良い(と私は思う)が、私にとってはそこに「楽しい」という感情が介在していることである。
前述のマルクスの考えは、恐らくだが「働かざる者食うべからず」的思考で至った結論では無いだろう。私なりに言うのならば「働かざる者楽しくあらず」、そういうことを伝えたいのではないのだろうか。
しかし現実はそうではない。
「働く」と「生きる」は完全にその立ち位置を逆転してしまっている。
いつからなのか、何故なのか。そのあたりの歴史には疎い故、分からない。
だがその違和感はずっとぬぐえずにいたし、本格的に労働に従事するようになって半年でその思いは強くなってきた。
「働く」行為に「楽しい」という感情が介在し得るのであれば、それは私の「生きる」に等しい価値になる、そこに存在する価値がある。
だが、少なくとも今は楽しくない。
「給料が高い職についておいて何を贅沢なことを」というお叱りが来そうだが、その給料とやらは「生きる」ことに有効活用したい。しかしその時間が無い。
「働かないで楽して生きたいんだろう?」、否定はしないが完全には合致しない。「楽する」と「楽しい」は同じ漢字でも違う。
数学の難しい問題を、初めから回答を見て答えを書いてしまうこととうんうん悩みながらもその過程を大切にして悩むことすら楽しんで答えに至ることは同じ答えだとしても全く違う、そういうことを言いたいのだ。

結論を出すにはまだ私は「働く」を知らなさすぎるのは重々承知だが、この違和感を「世間知らずな考え方だ」と切って捨ててはいけないようなきがする故、ここに書き残しておく。
願わくば0からプラスを生むような行為を以て生きるを達成していきたい、そう思う今日この頃。

追伸
『わたしの幸せな結婚』アニメを観たがあまりに良すぎる、こんなパートナーを見つけられたらななんて分不相応にも思ってしまう。

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