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重い筆も後手もこれまで

しかし、先月はひどいものであった。もちろん、ここに投稿したエッセイのことである。余裕を持って執筆に取り掛からないせいで「月が変わるまで」という締切に追われ、記事の大半をAIの生成した文章で埋めてしまった。読んでくださった皆様に対し、あまりに無礼であり、このうえなく情けない。あのような失態は二度と繰り返さないようにしたいものだ。

——といいながら、今日も今日とて月の末日である。日はとうに暮れた。例によって内容すら決まっていないが、とりあえず書きはじめないことには間に合わない。もちろん、前回AIに提案されたテーマは無視するわけだが、その「AIが作る美味しいカレーについて、その驚くべき進化と可能性について」という無茶振りに、いっそ乗ってみる手もあったかなと、今更少しだけ思う。AIが生成したレシピに従って一ヶ月間カレーをつくってみれば、何かおもしろい発見があったかもしれない。

一体いつになったら計画的に物事を進められるのか。子供の頃から同じことを思い続けている。こういう話題になると必ず例に挙げられる「夏休みの宿題」に関しては、たしかに最終日に慌てることが毎年の恒例となっていた。ドリルに解答を、正解不正解織り交ぜながら転記しても終わらず、始業式後の教室で「やったけど忘れました」などとバレバレの嘘を……いや、大勢の手垢でべたべたの経験談はこれ以上書くまい。そんなぼくでも、しかし、こと作文については真っ先に済ませていたように思う。「読書感想文」や「人権作文」など、7月のカレンダーもめくらないうちに推敲の段階に入っていた記憶がある。——ちなみに、9月1日に提出するその原稿用紙には、読書の感想や人権問題を題材にした小説が書かれている。高校生になると、小論文の練習として出された課題にも小説めいたものを出すことになる。そして、いずれも、叱られる。

この頃を思えば、その筆の重くなったこと、重くなったこと、悲しいほどである。たかだか月に一度の、たかだか2,000字足らずの執筆を、どうしても30日間始められずに過ごしてしまう。今こそ、三重県の漁村の丸刈りの三男坊の気持ちをよみがえらせるときであろう。魂まで東京に染まってしまったけれど、白い肌とカールしたまつ毛は失っていないぞ。ならば、文章を書くことへの喜びや楽しみもきっと取り戻せるはずだ。また小説を書けばいいのかな。そうしよう。でも最近は読んですらいないな。読もう。そうしよう。

さて、11月も終わりになると、世の中は俄然、年の暮れの様相を呈する。まだ12分の1の日が残っているわけであるが、そんなことはお構いなしに、ここまでを「一年間」として締めはじめ、まとめだす。出版社は「今年の新語」を選定し、批評家は今年のメディアやカルチャーを総括する。

ちょうど、昨日や今日あたり各種音楽配信サービスが「2023年にあなたがたくさん聴いた曲」のような情報をユーザーに提供し、各々がソーシャルメディア上にプレイリストを共有するなどしていた。ぼくが12月に「All I Want for Christmas Is You」をどれだけ再生しようと、今年最も聴いた曲は、オリヴィア・ロドリゴの「bad idea right?」に確定してしまっている。

こうやって、世は先んじて進んでいく。みんな、未来から逆算して今やるべきことをこなしている。本当の年末になれば、ばたばたと忙しくなることがわかっているから、たとえマライヤ・キャリーがランク外に漏れたとしても、11か月を一年とみなして今のうちに振り返っておくのだ。そうすれば、来る年始の発信は余裕をもって準備できるわけである。お正月にはおせちもお雑煮ものんびり食べられるわけである。

食べたい。できれば日本酒も飲みたい。だから、ぼくも生まれ変わるために具体的な準備を始めた。これからは先手必勝、常に暦を背に歩を進めていくことになろう。今はNotionとGoogleカレンダーと手帳を併用して、プロジェクトの進捗やスケジュールを管理する訓練をしている。現状、うまく予定を組むことができているし、確認や通知のシステムも機能している。その証拠に、このエッセイも一週間前から執筆を促すアラートが出続けていた。うん。出続けては、いた。

あとは「見て見ぬふりをしないこと」だ。これは何事においてもいえることである。思えば、見て見ぬふりをしてばかりの人生を過ごしてきた。そして、そのことすら見て見ぬふりをしてきた。ならば、これを、先んじて2024年の目標として立てることにする。せっかく眼鏡をかけているのだから。

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