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「私のせい」だと思ってたけど、それって相手の問題じゃん!

人と関わるのが好きな反面、自分の存在を消したい願望もありました。

それはどうやら、私の存在が友人を苦しめた経験が影響しているようです。

「それなら、自分なんていない方がいいんじゃないか」
そう思っていた私の心が、静かに溶けた話。


私のせいでごめん

これまでの人生を振り返ると、身近な人が私によって苦しんでいるという状況が多々ありました。

厳密には、それを直接言われたパターンと、私が勝手に推測しているパターンの2つがあります。

詳細を書くのは抵抗があるので具体的なことは言えないのですが、「私のせいで生み出された苦しみがある」と思うのに充分な経験をしてきました。

「あなたと一緒にいると惨めな気持ちになる」「あなたのせいで私は今こんなふうに苦しんでいる」と言われた記憶は、今も私の中に残って消えません。

悪気なんてなく、ただ自分らしく過ごしていただけなのに、身近な友人を苦しめてしまっていた。

そんなことが何度もあって、自分という存在がネガティブな感情を生むのであれば、存在を消した方がいいんじゃないかと思うようになりました。

自分らしく振る舞うことが怖かった。

それって私が悪いんだっけ?

そんな想いを友人に聞いてもらったところ、思いがけない言葉が出てきました。

「そんなの本人に言うなよ」

一緒にいることを選んでいるのは自分なのに、それによって感じた惨めさを本人に言うのはどうなのか。

自分の人生がうまくいかないことを、ゆめのせいにしているだけじゃないのか。

そんなようなことを言ってくれて、ハッとしました。

「言われてみれば、私悪いことしてなくない?友人の問題じゃない?」と思えた途端、過去の出来事の見え方がガラッと変わりました。

私の真似をした友人

そんな友人が先日、「こういうとき、ゆめならこうするなと思って、やってみた!」と話してくれました。

友人になくて私にある行動パターンを、試しに取り入れてみたというのです。

それによって、普段とは違う展開になったようで。

それを聞いて、なぜだか涙が溢れてきました。えぇ、なんでだろう。

時間をかけて考えてみると、
・私からの影響を能動的に受けてくれたこと
・それによってポジティブな変化があったこと

がものすごく嬉しかったとわかりました。

先に述べたように、これまでは私からの影響を受動的に受け、それによってネガティブな感情が生まれるという構造だったから、自分が人に影響を及ぼすのが怖かったんです。しかも勝手に。

でも今回は、全然ちがう。

友人が、自分の意思で「真似してみよう」と判断した。私の何気ない振る舞いを見て、取り入れたいと思ってくれた。

そのことが、ものすごく嬉しかったんです。


でも思い返すと、私との関わりによって生じた変化をポジティブに捉えてくれた人もたくさんいたし、今回みたいに真似してくれた人だっていました。

嬉しい記憶もたくさんあったのに、ついいやな記憶ばかり思い出してしまっていたなと思います。

今回の友人の行動と、過去のあたたかい記憶によって、凍っていたなにかが溶けたような気がします。

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『深い雑談』というものをやっています!

私がnoteで書いているような話は、そもそも人に話しにくかったり、話したところでわかってもらえなかったり…

家族すら、もしかしたら家族だからこそ、私が感じている苦しさやもどかしさを話しても伝わっている気がしない。

それがすごく切なくて。

ずっと、私の感覚をわかってくれる相手を探していました。わかってほしい、理解してほしい。同意はしなくていいから、「ゆめはそう思うんだね」って、ただ私の考えを尊重してほしい。私の感覚が伝わる相手がほしい。

学生という枠がなくなって、世界がちょっとだけ広くなったことで、感覚が伝わる人と出会えるようになりました。

もちろん、完全に同じ人なんていない。でも、自分にない感覚の話を、「そういう感覚もあるんだ」とわかろうとしてくれる人がいる。そのことに、私はすごく救われました。

自分の感覚は間違いじゃないんだ、自分は自分の感覚を信じていいんだって、思えるようになりました。

私も、誰かにとってそんな存在になれたら。

私が日々考えていることを言葉にすることで、似たように日々考えている人が「この人となら話せるかも」と感じるかもしれない。そして実際に話してみて、自分の感覚を誇らしく思えたら。

なんかもう、すごく嬉しいなって思うんです。

なかなか自分の感覚が伝わらない、でも誰かにわかってほしい。
そんな気持ちを抱えていたら、ぜひ一度お話ししませんか?

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