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自分のこと呪術士だと思っている白魔道士〜その18(過去回想編)〜

 ベンがベハティについて知っていることは、存外少ない。

 ふたりがエオルゼアに出向する数年前。その日はとても寒かった。淹れたコーヒーが片端から冷えてぬるくなるものだから、ベンは早朝の誰もいないオフィスで眉根に皺を寄せていた。

 眉間の皺を一段深くしながら、ベンは手元の紙束――資料として上司から渡された文書を睥睨する。今日は職場に「ベハティ」という名のシャーマンが配属される。資料には彼女の経歴や過去、魔術適正、調査の結果判明した家族構成までもが一冊の資料にまとめて綴られていた。記述は仔細だが文面は淡白そのものだ。そりゃそうだ、彼女はいわば一種の暴力装置として登用された職員なのだ。

 無論、そうだと公言されてはいない。しかしそもそもこんな資料自体、本来ならあってはならないものだ。少なくとも、局長を除いた上層部の大半は彼女を人間として扱う気がないのだろうとベンは考えていた。一個人の過去や経歴を、特に個人の私的な領域に踏み込むレベルで詳らかにして良い権利など誰にもないはずだからだ。彼女と同じように前科者として採用された自分ですらここまで酷くはなかった。精々意識の飛ぶ寸前まで脱魔剤をぶち込まれ続けて、尋問官に三日三晩質問責めにされた程度で済んだ自分の方がはるかにマシだと思える。この資料が存在することが、上が彼女を「暴力装置」として登用していることの証左だった。

 少なくとも、現時点では。この上層部の評価をひっくり返すことも自分の仕事であると、ベンは認識していた。彼女はひとりの人間として国家に貢献できる、人格を認められるべき存在であると証明すること。これは命令ではなく、彼個人の信条から「果たすべき」と判断したことだった。

 ともかく、国家魔導士になるために必要な国家資格――これを取得できずに人生を終える者の方が遥かに多いと言われる難関資格、彼女はこれも試験をパスして取得済みだというから、当面の任務遂行に支障はないだろう。だが資料に記載された彼女の経歴、これがベンの表情に暗い影を落としていた。

 彼女は「カラス」と呼ばれる古代魔法部族の生き残りだ。現地の住民が「呪われた森」と呼び絶対に足を踏み入れることがない森の奥で、母親や祖母、部族の者と共に静かに暮らしていた。

 ところが、ある大嵐の日を境に森のカラス族が全員どこかに消えてしまった。彼女一人だけを残して。何が起きたかを知る者は誰もいない。ベハティはそれから一人森の奥で何年も、何十年も、もしかしたらそれ以上もの長い間、孤独に暮らしていたという。それは部族の掟で子は親と一緒でない限り森から出ることを許されなかったことと、そもそも部族全体が、自分たちの持つ力を周囲の者がどう思うか、ということを重々承知していたことに起因する。無用な争いや混乱を防ぐために、森の外の集落とは努めて関わらないようにしていたのだ。彼女はたった一人になっても、掟を忠実に守っていた。

 その後彼女はある犯罪集団によって言葉巧みに森の外へと連れ出された。彼女の孤独に付け込んだ頭領が行ってきた行為の羅列を読み込むうちに、自分が半ば無意識に資料を強く握り込んでいたことに気付く。ため息をついて紙片の皺を伸ばしながら、ぬるいコーヒーを一気に飲み干して資料のページを捲った。
 
 森を出た彼女の受けた扱いはといえば、虐待と恫喝、精神誘導の揃い踏みだ。徹底的な暴力に晒され続けていたならまだマシだったろう。厄介なのは精神誘導の方だ。彼女が頭領や組織の連中を完全に「悪」だと断ずることができれば、どれほどよかったことか。
 
 この集団の、特に頭領が狡猾だったのは、言葉の上では彼女に優しく接し、孤独を理解していたことだ。理解するだけして寄り添いはしなかったことは明白だが、それでも彼女の苛まれてきた孤独な時間の長さと痛みの深さを鑑みれば、そんな相手にすら縋りたくなっても無理はない。
 
 自分達の「お願い」を聞いてくれれば一緒にいてやれる。私にはお前が必要だ。次の作戦でも頼りにしている、私たちを助けてくれないか。

 反吐が出る。噛み締めすぎた奥歯が重い音を立てて軋んでいるのに気付き、ゆっくりと顎から力を抜いた。ベハティは彼らに「力」を提供しなければ存在することを許されなかったのだ。弱い、役に立たないと判断されればまた一人で置いて行かれるかもしれない。彼女の事情聴取を担当した者の所見によれば、彼女の恐れていたことはただひとつ。「また一人で置いて行かれる」ことだけだった。聴取に伴い開心術の行使が二度ほど行われたという記述もあったが、その際には聴取以前にも長期間、複数回に渡り開心術の使われた形跡が見つかったという。

 頭領の言いつけを破って彼女に親身に接した者が、見せしめに殺されたことすらあったと、資料には淡白な文章で記されていた。自分のせいで、やさしい人が死んだのだ。その絶望がもたらす恐怖は彼女の心をいともたやすく、信じられないほど強固に縛り付けることができただろう。

 さらに資料の記述が事実であれば、彼女の精神は子供のまま成長を止められているはずだ。つまり彼女は「子供の状態で」精神と身体の成長を止められたまま幾年も過ごしてきたため、少なくとも身体的には間違いなく子供なのだ。母や祖母には、彼女らの子として愛されていたことだろう。彼女の顔にある朱色の墨は「子ガラスの証」であり、成長すれば消え去ると資料にも記載があった。彼女の身体は未だ子供のまま成長しきってはいない。本来であればまだ親の愛情が必要な時期といって間違いなかった。

 力がなくとも、何を成せなくても、そこにいるだけで尊ばれるべき存在が「役割を果たさなければ死ぬ」環境で生きることを強いられた時にどんな歪みが生じるか、彼は骨身に染みて理解していた。だからこそ、彼女には「力が無くても存在を許される」ことをわかってほしいと思っていた。

 ただひとつ懸念点がある。彼女が――少なくともベンよりも長い期間生きている彼女自身を、大人と子供どちらの立場に置いているのか……これは実際に彼女と接してみるまでわからない。だがこれから同僚として接する以上、自分の態度は決定するべきだ。彼は顔の前で両の指を組むとしばらく考え込み、結論を出した。

 ――私は彼女の同僚だ。保護者ではない。ましてや彼女の親ではない。彼女の身体が子供だとして、私に彼女を子供として扱っていい道理はない。

 何度も言い聞かせる。たとえ身体が子供のままだとしても、仮にこれから出会う彼女のしぐさや行動が子供のように見えたとしても、彼女は国家試験を突破し、国家魔導士として正式に配属された公務員なのだ。であれば自分は彼女を「同僚」として信頼しなければならない。少なくとも業務中に「子供」として扱うべきではないのだ。彼女を「暴力装置」ではなく「一人の人間」として上層部に認めさせたいと考えているならなおのこと、それが自分に出来る敬意の示し方であろうと、ベンはそう考えたのだった。

 ともかく、犯罪組織に利用され続けていた彼女は、組織の摘発に出動した我らが局長に保護された。つまりはベンの上司だが、ベハティを連れ帰るや上層部及び関連施設に次々と話をつけ、更生の一環として自分の元で就労する許可を取り付けるが早いか意気揚々と笑顔で帰ってきた。

 ベハティという名を彼女に与えたのも局長だ。彼女の名は古代魔法語と密接に関わりつつ独自に発達した「カラス」の言語であったため、古代魔法語に造詣の深い局長が丁寧に意味を紐解き、こちらの言葉に寄せた名を贈ったのだという。資料を手渡されたとき、何の気無しに意味を尋ねると、局長はニコニコと幸せそうに、すこぶる明るい声で答えた。

 「祝福を受けた、幸せを運ぶ人って意味だよ。恵まれたって意味もあるねぇ。彼女はお母さんやおばあちゃんに愛されていたし、そういう意味の音をふたりからもらっていたんだ。私は、それは祝福だなって思った。それから今後も、できればみんなに愛されてほしい。これは私のエゴだけどね」

 ああ、だか、うん、だかとにかく返事のような音を発するので精一杯だった。脳裏に、自分を育ててくれた恩人がニコニコ笑顔で現れて、こちらに手を振ってくるのがわかる。首を振って追い払ったところで、嬉しそうに笑う局長と目が合った。

 「そういえば君の名前もすごく素敵だったよね、ベネディクトさん。祝福と恵みをもたらす音だ。きっと素敵な人にもらったんだろうね」
 「全部知ってる癖して、わざとらしいんだよ君は」

 普段はベンと呼ぶくせに、と苛立ちを隠しもせずに歯噛みして見せる。局長は笑顔のまま、静かにこちらを見据えて声を落とした。

 「……ベハティのこと、頼んだよ」

 「言われなくても頼まれるさ、まったく」

 資料を手渡された瞬間に、局長に吐いたのと全く同じ言葉が溢れた。ベハティと会うのは30分後の予定だ。何度も読み込んだ資料を丁寧に閉じると、ベンは局長との待ち合わせ場所に向かった。そこに彼女も来ているはずだ。今日から私の同僚になる、ベハティという名の呪術師が。

―――

 ベハティがベンに抱いた第一印象たるや、それはもうひどいものだった。

 まず信じられないほど愛想がない。局長――エディに保護されてからこっち、長いこと人懐こいエディとばかり接していたせいかとも思ったが、廊下ですれ違う人間の誰もこうまで冷たい目をしてはいなかった。

 当時のベハティは知る由もないが、後に彼自身の口から「あのときは緊張していた」と聞いたときには心底呆れたものだ。彼は切羽詰まるほど表情も口数も乏しくなるとベハティが知るのは、この最悪の初邂逅から数ヶ月後の話になる。

 「ベネディクト・ガードナーだ。ベンで良い。よろしく」

 腹の底に響くほど低い声が、かなり上の方から聞こえてきた。背が高すぎる。見上げても顔がハッキリ見えない。さらに悪いことに、無駄に彫りの深い顔立ちのせいで目元に暗い陰がかかっていてますます印象が最悪だった。エディは苦笑しながら、言葉を失ったベハティの肩に優しく手を添える。

 「ほらベハティ、自己紹介の練習台が来たよ」
 「……。」
 
 黙りこくったままエディの方を見ると、エディが腰をかがめ、ベハティの耳元に顔を近づけた。彼が小さな声で囁いた音をそのまま口に出して繰り返す。

 「ベハティ・ディアルーナ。よろしく」
 「よろしく、ベハティ。オフィスの案内はまだだね? 職場はこの上だ。来なさい」

 言うが早いか、自分を待たずに歩いていくベンの背中を恨めし気に見つめて後を追う。隣を歩くエディを見上げると、彼はおどけた呻き声を上げて「う~怖ッ! こりゃひどいなァ」と楽しそうに笑ってみせた。

 抗議の声をあげようとしたベハティをなだめるように苦笑したエディは「彼、緊張してるんだよ。私と会った時も最初あんな感じだったなあ。治せって言ったのにね」と肩をすくめた。

 ベハティは半信半疑、というより八割疑念の気持ちでベンの背中を睨みつけていた。緊張しているだけであんなに冷たい目つきでこちらを見る人間がいるか。現に廊下ですれ違う同僚らしき人々には人当たりの良さそうな笑顔で挨拶しているじゃないか。

 その後、案内や諸々の手続き、各所への挨拶・登録が完了し正式に配属となって数週間が過ぎても、ベハティはとことんまでベネディクト・ガードナーという男が苦手だった。彼の態度が冷淡だったからではない。そんな態度の割に、なぜか自分を放っておいてくれないところが苦手だったのだ。

 「わしのこと嫌いなら放っておいてくれたらええのに」

 ベハティはうず高く積まれた書籍の山をひとりで書庫まで運びながら、ついつい愚痴をこぼしてしまっていた。それほどまでに、最近彼からの干渉がしつこいのだ。本の山を書庫の床に下ろし、時計を見上げる。交代の職員が来るまであと2時間。とりあえず、いま運んできた返却本の山を書棚に戻さなければならない。ベハティが腕まくりして本の前に立った時、背後から低い声がした。

 「君、昼食は摂ったのか?」

 来た。振り返らずともわかる。彼――ベネディクト・ガードナー特有の、低くよく響く声だった。ベハティは仮面の下で苦虫を噛み潰し、本の整理で忙しいフリをしながら振り返りもせずに返事をした。

 「何。」
 「昼休憩も終わりかけなのにまだ作業をしてるようだったから。昼、食べたのかなって思って」 
 「終わったら食べる。」
 「そうかよかった。実は腹の減った勢いで買いすぎたから手伝ってくれると嬉しい」

 いらない、言いかけた言葉が彼に思い切り遮られた。もう一度断りを入れようとしたところで、なにやらガサガサいう音と、背後から漂うにおいに気を引かれた。背後を振り返る。彼は入口の柱に背中を預けて立っていた。手には匂いの出どころらしき紙袋を掲げている。見覚えがあると思った。組織に居た頃、何度か投げて寄こされたものとよく似ていたから、中身には心当たりがある。
 
 「チーズ入ってるのとベーコン入ってるの、どっちが良い?」

 目の前の男はそう言って少しだけ笑った。笑顔を見たのはこの日が初めてだった。

―――

 休憩室の机に、ハンバーガーやジュースのカップがずらっと並べられる。目の前の椅子に座るベンが粛々と広げたものだが、どう考えても間違って買いすぎたとは思えない量だった。どこからどう見ても3〜4人分はある。

 「好きなのどうぞ」

 声の調子がいつもより穏やかだ。訝しんでいる雰囲気を察したのか、彼はやや決まりが悪そうに「とある方面から指摘を受けてね」と苦笑いした。聞けば局長に指摘されて、自らの態度を改めることにしたらしい。

 「先日、君に靴を履けと迫った時もそうだが……態度が悪すぎた。同僚に対してあまりにも高圧的だし強引だったよ。今後は改める」

  彼はそう話すと、大きな口を開けてハンバーガーに食らいついた。ふっくらとしたつやのあるバンズに挟まれたパティとトマト、元気よくはみ出したレタスが彼の歯に圧迫され、ぎゅっと押し潰されては咀嚼されていく。
 彼の謝罪で、三日ほど前のことを思い出した。ベハティはその日、靴を履いていなかった。珍しいことではなかった。職場に配属されてから、彼女はたびたび靴を履かずに歩き回っていた。森では靴を履いてはいなかったし、何より足の裏の触覚から魔法の気配や敵の位置、場所の情報を感じ取っており、わざわざ靴を履くメリットもなかったからだ。

 周囲の大人たちは「そういう文化の子だし」「無理に履かせるのもよくない」と囁きあい、善意から彼女の行動を許容していたのだが、この男は違った。

 「君はなぜ靴を履かない? 靴が無いのか?」

 彼と廊下ですれ違いそうになった、次の瞬間にはこれだった。突然ベハティの方に進路変更して正面から近づいたかと思えば、真顔でこう尋ねてくるのだから恐れ入る。その後も靴を履かない理由をあれこれと聞かれた挙句、最終的には彼の買ってきた靴を彼の手で履かされてしまった。

 「君も知っていると思うが、押収した魔道具やら試作段階の薬品がそこらじゅうを行き交ってる。もちろん皆注意を払っているが、それらが急に足元にぶちまけられることだってある。いくら君の足裏が丈夫でも強アルカリの薬品を被って平気なわけじゃないだろう」
 「魔法でプロテクトしてるから平気。」
 「それでも周囲は気を遣う。足を踏まないように動くしね」
 「周りが迷惑してると言えば従うと思った?」 

 ここまで言っても、彼は態度を変えなかった。眉を少しだけ上げて、首を傾げるだけ。廊下の真ん中じゃ話しづらいとか何とか言ってベハティをベンチに誘導した挙句、ところで、と思い出したように口に出すと、手に持っていた箱をベハティに差し出した。箱の中には小さな革靴が一組収まっている。

 「下の服飾部。局長の行きつけだから、知ってるだろ。君の資料から得た基礎情報を伝えて、取り急ぎ作ってもらった。慣れた術式には敵わんだろうが、おそらく触覚補助機能は申し分ないだろう」

 そんなことを喋りながら、彼はベンチに座らせたベハティの前に跪き、「失礼、足に触るよ」と呟いた。有無を言わせない所作だった。どこからか取り出した暖かい濡れタオルでベハティの足裏を拭いてから靴を取り出し、ベハティの足と見比べる。

 「…………サイズ、大丈夫そうだな」
 「持ち歩いてたの。」
 「まあね。前から狙ってたから」

 彼は特に表情を変えることもなく、そう返事をした。彼の骨張った大きな手のひらが、ベハティの足を慈しむように包み込む。それを黙って見つめている時、不意に誰かの声が記憶の中で響いた。

 「もうこんなに足のひらが大きい。お前は大きな翼のカラスになるよ」

 遠い昔に、自分の足を慈しんでいた母達の声だった。愛おしげに、とても大事そうに、ベハティの足を両の手のひらで包み込んでいた。森にいた時にすら忘れていたことだ。不意に思い出して、そして、それから何も言えなくなった。彼から解放されても、誰も周りにいなくても、彼の暖かい手で履かされた靴を脱ぐことなどできなかった。

 「何故靴を履かない?」なんて、聞いてきたのは彼だけだった。

 まわりの皆は履いていて、自分は履いてない。それを「持っていない」ことに、周りは触れもしなかった。「何故?」と聞かれもしなかった。だから彼の問いに面食らって、ほんの少しだけ言葉に詰まって、接触を許してしまった。小さく柔らかな革靴は、まるで母たちや彼の手のひらから役目を引き継いだかのように、いまも優しくベハティの足を包んでいる。

 愛されていたことを思い出したのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

 前に思い出させてくれた人は、いまはもういない。ベハティの目の前で殺されたからだ。ルールを破って彼女に接触し、幾度も優しく接した。ただそれだけの理由で。だからこそ、ベハティはベンのことが苦手だった。放っておいてほしかった。ベハティが無意識のうちに感じていたことだが、彼女はもう、優しい人間が自分に関わって死ぬのを二度と見たくはなかったのだ。

 目の前の男はそれに気付いているのかいないのか、やけにのんびりした調子でハンバーガーを食べ進めている。

 「……君は食べないのか?」
 「食べるよ。」

 調子が狂う。ベハティがハンバーガーの包みをひとつ手に取ってかじりつくのを確認すると、彼はいつのまにか食べ終えていたハンバーガーの包装紙をグシャグシャのまま机の端に寄せ、ふたつめのバーガーに手を伸ばしていた。

 ベハティはチーズのたっぷり入ったハンバーガーを小さな口でついばむように少しずつ齧りながら、ベンのことを考えていた。ただのお節介な男なのか、それともエディあたりからそうするように指示されたのかは知らないが、こんな風に接触されてあれこれ言われるのは、やはり自分が信用されていないからなのだろうか。一人前に任務をこなせる存在だと認められていないのだろうか。

 ぐるぐると考える。仮にそうだとしたら残念だが、仕方のないことだ。それがいまの自分への評価であれば受け入れるしかない。そう結論付けて顔をあげたベハティが、何かに気付いて動きを止めた。目の前のベンの顔をじっと見つめている。

 「どうした?」
 「…………付いてる。口。」
 
 柔和な微笑みを湛えた彼の口元に、ケチャップがくっついていた。彼は言葉の意味を理解すると、柔和な表情から少しだけ焦ったような顔になり、無言のまま右の手の甲で口元を拭った。恥ずかしそうに目を細め、手の甲についたケチャップを紙ナプキンで拭いている。最初から紙で拭けばいいものを、焦って先に手で拭ったせいでこうなっているのだと理解した瞬間、ベハティは思わず吹き出してしまった。あはは、と続けて笑い声が口から飛び出す。彼はやや決まりが悪そうに視線を上の方で泳がせてから、肩を揺らして小さく笑った。

―――

 「見かけた裸足の人間に靴を履かせて回るのが仕事なの? 家でおちおちリラックスもできんね」

 ベハティと同僚として接するようになり、冗談も言える仲になってしばらくしてから、彼女にそう尋ねられたことがある。ちょうど、彼女に初めて渡した靴が任務中に摩耗したので、服飾部に修繕を頼もうと話をしていた時だった。

 「……靴を履け、って私が君に押し付けたときのことだね?」
 「わしは他人を理由に使うのは好かん。皆は関係なくて、本当のところはベンに理由があったんでしょ」
 「私に?」
 「それともわしに常識を説きたかったの? 寝返りは右からしなさいとか、喋る時は口を開けなさいとか、他にもわしの知らん意味の分からない常識をつきっきりで教えるなんてないよね。……もしそうだったら窮屈だな。この足みたいにさ!」

 彼女はとても嬉しそうに、窮屈、という言葉を口にした。彼女が私の見ていない場所でも靴を脱がずに履いていて、靴好きで有名な職員を捕まえて色々と尋ねてはこまめに手入れをしていることも、私は知っていた。

 しかし「私が彼女に靴を履かせた理由」の方については、考え始めてすぐに声が詰まってしまった。喉の奥でいくつもの言葉がうまく形を成せずに消えていくのがわかる。

 「……理由、……なんでだろう、わからないんだ」

 正直に答えようとして、口から出たのはそんな言葉だった。たっぷり5分考え込んでも答えにたどり着かなかったから、その日は回答を保留にしてもらったのだ。それがいま、……出向という形で彼女と共にエオルゼアを歩いているいまになって、ようやく答えがわかった気がした。

 裸足の彼女を見ているのがつらかった。靴を履けずに震えていた弟や妹を思い出すから。何より、靴を履いていない子供は、私にとって「弔い」を想起させる要素のひとつだった。直接の関連はないとわかっていても、恐らく無意識の中で、彼女の姿と「死」という要素が結びついてしまったのだろう。

 だからあんなにも強く、靴を履くよう促した。私のエゴ以外の何物でもなかった。私の中で見つけた答えを、失くさないよう何度も反芻した。

 「弔い」という言葉が、なぜか私の意識の中で足を止めてこちらを見た。理由はわからない。だがこういう時、私は私と目が合った言葉の意味を深く考えることにしている。ひとつひとつ丁寧に記憶を辿ると、その言葉の意味を私に教えた男のことを思い出した。

 彼は教会で牧師をしていた。私の育て親であり、「ベネディクト」という名の贈り主でもあった。

 「祝福と恵みをもたらす子。つまり、君のこと」

 意味を尋ねた私に笑いかけた彼の表情を、私は今でも鮮明に覚えている。名前だけではない。彼は私に、彼と同じ姓を、生きるための場所を分け与えてくれた。彼と出会った日に聞いた、雨の降る音が鼓膜の奥で響いた。今聞こえたということは、今の私に必要なのだろう。

 カッパーベル銅山の埃っぽい坑道を、ベハティとふたり連れ立って歩きながら、私はあの日の雨の音に、黙って耳を傾けた。
 
―――

 小さい頃、よく靴を拾っていた。靴を拾う日、というのは決まって妹か弟か、とにかく誰かが死んだ日で、冷たくなった彼らの足から靴を脱がせるのが私の役目だった。命令された訳ではない。ただ、私が望んで担った役割だった。

 熱を失って動かなくなった彼らを、森に運んで帰ってくる日が週に幾度かあった。行きに背負っていった彼らの代わりに、帰りには子供用の服と靴を持って帰った。まだ生きて歩いている弟と妹に渡したかったからだ。私には兄弟が多かった。他の家には20も30も兄弟はいないものだ、と知るのはもう少し後の話になる。

 森へ行くことは、誰に頼まれたわけでも、ましてや彼らに乞われてしていたわけでもない。動かなくなった彼らがどんな風に処理されるのかを知ってから、なんとなくやり始めたことだった。

 いつだったか、いつもの道が雨で崩れていて、通る道を変えたことがあった。視界が悪く、寒さで判断力が鈍っていたせいかもしれない。遠くに見慣れた色の屋根を見つけて近付くと、そこは見知らぬ教会だった。まるで見当違いな方向から森を抜けてしまったと気付いて引き返そうとしたところで、背後から声をかけられた。教会の牧師だと名乗った男は、ずぶ濡れで森に向かおうとする私をあの手この手で引き止め、教会の中へ入るように促した。

 その雨の日にどんな話をしたのか、正直なところ覚えていない。強く記憶にこびりついているのは、さして重要とも思えないようなことばかりだ。雨漏りを受け止めてぽつぽつと鳴る鉄のバケツと、古びた床の木のにおい、それから薄い野菜スープの香りがした。柱の陰から、こちらを見ているたくさんの子供たちと目が合った。聞けば牧師と血の繋がった子はひとりもいないという。彼は子供たちを「愛しい子たち」と呼んでいた。

 「私の血を引く子はいない。それでも彼らは私にとって『私の可愛い子供たち』だよ」

 彼の言葉の意味を、当時の私はまるで理解できなかった。

 私は教会が気に入ったのか、それから何度か足を運んだようだった。これもひどく雨の降る日だったが、彼に尋ねたことがある。何故こんなことを聞いたのだったか。彼なら答えてくれると思ったのかもしれない。当時の私にしては珍しい判断だった。

 「弔い、ってなんのためにあるんですか。葬式……とか、墓参りとか、俺には意味があるとは思えません。なぜですか」

 「残された人の為だよ」

 即答だった。少ない薪で弱々しく燃える暖炉の火が、彼の横顔を照らしている。私が言葉の意味を理解できずにいると、彼は柔らかく微笑んで言葉を続けた。

 「人が亡くなると、残された人の時間は止まってしまうんだ。悲しみや苦しみや後悔で、誰かが死んだその日から動けなくなることがある。幽霊になってしまうんだ、生きながらにしてね」

 「……幽霊」

 「そ、幽霊。逝ってしまった人の居た過去の中に沈んで、いまに戻ってこられなくなる。……前に進むことだけが正解というわけではないけれど、それでも、なるべくなら感じる幸福の量は多い方がいい、と私は思うわけだ。前に歩いていれば、そりゃあたまに痛い思いもするけど、いいものを拾える時もあるからね。止まっていたら何も起こらない。傷つかない代わりに、何かに出会うこともない」

 ここまで話すと、彼は私の方を見た。何も言わずに彼を見つめ返していると、彼はゆっくりと両腕を広げ、まだ雨に濡れて乾ききっていない私を静かに抱き寄せた。私は驚いたが、抵抗することはなかった。彼の大きな手が、ぽんぽん、と私の背中を優しく叩くのがわかった。

 「前に進むにはね。悲しいときに悲しみきることが大切なんだよ。つまり、弔いをするんだ。誰かを失った悲しみを別の誰かと共有したり、励ましあったり、時には一人でその人を想ったりして、誰かが死んだことを一度受け止めなければならないんだ。弔いはそのために必要な儀式なんだと、私はそう思っているよ」

 「……俺は誰かが死んで悲しいと思ったことはありません」

 「そうか、そうか。私は君が悲しい思いをしていないなら、それが一番うれしいよ」

 やっぱりよくわからなかった。ただ雨宿りをしているだけの私が悲しんでいないということが、何故そんなにも彼を喜ばせるのか皆目見当がつかない。私は面食らってそんなことばかり考えていたように思う。彼は私の困惑を感じ取ったのか少しだけ可笑そうにクスクス笑うと、話を続けた。

 「でもね。ボタンが取れたとき、その場で困ってしまうより、前もってボタンを付ける方法を知っておいた方がいいだろう? 君のボタンがいつとれるのか誰にもわからないように、君の心だっていつ傷付くかわからないんだ。……もしかしたら、怪我に気づいていないだけかもしれないしね」

 「……そうですか。」

 「私は思うんだよ。大人はね、愛しい子たちに、とっておきの道具を持たせておきたいのさ。はさみや、マッチや、ランタンなんかをね。今の君には使い方がわからないかもしれない。明るい道を歩くときに、ランタンはいらないからね。 でも夜になったらそうはいかない。これから暗くなる道を歩く子に、ランタンを持たせてやりたいのは大人のわがままだ」

 暖炉の中で、薪の表面が爆ぜる音がする。真っ黒になった薪が割れ、かろん、と転がった。

 「だから今はほら、とりあえず受け取っておきなさい。手がふさがって重いならそっと置いていけばいいし、やっぱり欲しいと思ったなら、その時はまた拾えばいいから」

 彼はそう言うと、口許を柔らかく緩めて微笑んだ。それを見た時、当時の私はどうしてか、暖炉で揺れる火の色を思い出した。今ならわかる。きっと彼が私に与えた言葉と微笑みは、雨に濡れた子供にとって暖かいものだったのだ。

 私はいま、彼と同じように笑えているだろうか。

 「……ああ」

 思わず小さな声が漏れた。彼が幼い私に手渡した「夜道のためのランタン」を使う時が来た、そう思ったからだ。

 弔いは、残された人のためにある。いま生きている人が、前に進むために必要なこと。ならば私と彼女がこれから為そうとしていることは、私にとっては弔いだ。暗闇に沈んだ坑道が、心なしか先ほどよりも少しだけ明るく見えたような気がした。

―――あとがき

 ベンさんの背後霊です。回想は1話にまとめようと思って頑張ったらこんな長さになってもう何なんだよ私は。今はただ、なんとかカッパーベルに戻ってこられてよかったなという気持ちで胸がいっぱいです。

 この話はもう、ほぼ完全に「エオルゼアと関係ないじゃん」になるのですが、私は好きです。実はベハティちゃんからのベンさんの第一印象は最悪だったよという話です。ベハティちゃん視点で見せて貰ってよくわかったのですが(ベハティ側の描写は彼女の背後霊氏に描写をお願いしています)、私が彼女の立場でもまったく同じ感想を抱くと思いました。新しい職場の上司が怖いしなんか距離感狂ってんだけど? って思います。ベハティちゃんはよくこんな男と仲良く出来るな。すごい!

 ヘカトンケイレスの兜を投げたときもそうなのですが、基本的に小説で描かれる二人の行動は「状況」に対する反応をそれぞれ勝手に行って、あとでそれを小説にまとめる形式をとっていることが多いです。
 今回で言うと「ベハティは配属当初、たまに靴を履かずに歩いていることがありました」という状況に対し「何故靴を履かないか直球で聞いて、靴買ってきて履かせます」と回答を出すわけです。そこについてベハティが感じたことや思ったことは当然わたし(ベンさん&背後霊)にはわかりません、小説書いてるときに「その時どう思ってた?」を聞くわけです。

 今回初めて「靴を履かせた」ときにベハティがどう思ってたかを聞きまして、あまりのことに私はその時点で若干涙を禁じ得ませんでした。あとバーガー喰ってるベンさんにソースついてた事件、製作段階でべはさんから「どうした?(大人の笑み、BBQソースを添えて)」ってコメント付きの指示が来て私は爆笑しました。添えるな。

 それから意外かもしれませんが、元来ベハティは警戒心が強いです。いまの彼女が初対面の人にもある程度友好的に接するのは、彼女が呑気だからではなく、自分と接する相手には笑顔になってほしいから、という優しい気遣いに加え、社会生活上の利便性と、自分の任務のためにもそうすべきだと理解しているからです。

 魔法局に保護されたばかりのベハティちゃんは、まだ言葉に慣れていないのと、周囲の人間を信用してよいものか測りかねているためかなりぶっきらぼうな喋り方をしていました。私はその頃の彼女を詳しく知らないので、台詞と喋り方はベハティ背後霊氏に教えてもらっています。

 最初期の彼女のセリフだけ、文末にしつこく句点をつけているのは私のこだわりです。本来ならカッコつきの文に句点はなくてもいいのですが、彼女の言葉の「定型文みたい」な感じというか、ひとまず文章としての形をなんとか作っている、結果気付くか気付かないか微妙なラインでちょっとだけ不自然に聞こえる、……っていう部分の表現です。

 余談ですがベンさんの育て親である牧師さんは「神父」ではないので、実は結婚できるのですがまだ独身です。ベンさんはおそらくこの出向任務から帰還したらそろそろ本腰入れて教会のこどもたちの養育環境を安定させて、牧師さんを幸せにする算段を考えるんだろうなと思います。


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