大人ってすごいと思っていました

子どものころ大人はすごい存在だと思っていました。すごいっていうのは何でも知っていて、何事にも毅然として対応できるような人です。幼少期は両親、親戚、お医者さん、看護師さん、教師など、関わる大人みんながみんな立派な人に見えていました。運よく、変な大人に会わなかっただけかもしれませんが、これが私が思っていた見方です。

ですが、年齢を重ね自分が大人と呼ばれる頃になっても、自分自身が子どもの頃に思っていた大人像になれていません。むしろ、大きな隔たりがあります。社会に出ても、知らないことは日々増えていき、その時その時に調べていかないと雪だるま方式に知らないことが膨らんでいきます。それに、学校で習ったことも忘れてきているので勉強の観点から考えても高校3年の受験生の方が賢いのではないでしょうか。

同時に周りの大人に対しても、子どものときにすごいと思っていた人でも考えてみると何がすごかったのかがわからないことがある。小さいとにすごいと思っていた両親に対しても、今でも尊敬するところもあるが、おかしいなと思うこともある。街を歩いていても些細なことで怒鳴っているおバカな大人もいらっしゃる。

想像していたよりもみんな子どもの時と変わっていないのである。子どもから大人になるにあたって、どこかしらのタイミングで急激に成長する「技術的特異点」みたいなものを想像していたが、そんなものはないんだなと薄々と気付いて自分も大人になりました。

年齢は大人だが、中身は幼少期からほとんど変わっていない人・年齢の割に中身が大人びている人など見た目だけじゃわからない・実際に交流を持つまで目の前の人物が本当の意味で大人か判断できません。人を見た目で判断してはいけないとはこういうところからきているのではないでしょうか。

このように考えると子どもの頃に見ていた両親は、弱みを見せずに理想の大人像を見せていてくれたのかもしれませんね。

大人が自分よりすごいと思わなくなった瞬間に自分も大人と呼ばれる段階に達したのでないでしょうか。でも、外側から見られる姿が大人というだけで、ここから中身を外面に近づけていく過程が始まるのです。

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