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「受験用」勉強

受験のためだけに勉強する。これが批判されるのをよく見るが、自分はそれにあまりいい気がしない。
受験だけを目的とした勉強はそれほど害があるものなのか?

批判のよくある論理はこうである。
勉強は己の成長のために身につけるべきであって、そんな短絡的なものじゃない、といったものや、そんなやり方だと本来の学問の姿が見えない、などだ。

例えば、物理での微積の使用や数学におけるロピタルの定理などの高校範囲外の定理の利用など、これらを知って損というのだろうか?
むしろ受験用の勉強によって得た知識は本人の努力によって得られたもので、これは確かに本人の成長になっている(勿論、これは本来の目的、受験に受かる為の努力の中二次的に得られたものではある)。

そもそも、理数はともかく英語においては今も教科書を読むことのみでは触れられない難単語や英語圏の教養・考え方まで問われている。
これと同様の議論をすれば理数において所定範囲外の教養を使用することは認められるはずだ。
そのことを否定するのは筋が通っていない。

また、現状の大学入試は、学生が大学にて必要な学習能力を保持しているかを試験し、それだけに留まらず、定員を設けて選別の手段として用いている。
「本来の学問」の姿が歪曲されることはその時点で既に起こっている。
そうではないだろうか。

どういうことかというと、簡潔に言えば、学問の理解度と点数とは何ら関係がない一方で点数に評価をねじ込んでいる以上、「本来の学問」ではない何かで入試を行っている、ということだ。

こういう人もいるだろう。選別をしなければ教官や設備が足りないから仕方ない。
もしそうであるなら、学習に問題がないとされる一定ライン以上の学生に入学資格をくじ引きで分配すべきだろう。
その方がより平等であるし、目的とも合致している。

私が思うに、入試は一種の競技である。
点を取るための技術が優れているものが選別に勝利するような、くじ引きの代替手段である。
高校範囲内というルールの元、出題者の意図を汲み、点を稼いだものが勝ちである。
その点で受験勉強はスポーツ競技のようなものなので、点を取る技術は当然学ぶべきだろう。

こういう事を考えていると、受験用の勉強を批判する人々は過度な理想主義者、もしくは受験勉強に期待しすぎている者のように見えてしまう。

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