【随筆】 区民プールにて


 半年ぶりに訪れた区民プール。
 コンタクトをしてくるのを忘れたから、仕方なく裸眼で泳ぐことにした。「迷惑だけはかけないように」と数秒善人ぶり、帳尻を合わせた。せっかく来たのに、泳がずに帰るわけにはいかなかったからだ。
 プールサイドに出ると視界が拓けた。ぼやけた世界が思いのほか心地よく、エゴイズムが軽やかに移動する。高揚が大きい。
 変哲のない25メートルプール。 屈伸に伸脚、アキレス腱と肩回し、腕回し。入水。
 勢いよくクロールしたが、最初の息継ぎで、首に衝撃が走る。
 「があ」と水中で声が出た。大きな声だった。おかしくて、1人で笑った。そのせいで息が苦しくなったけど、なんとか泳ぎ切った。
 対岸に着くと、前を見つめている人がいる。泳ぐでも、となりの歩行コースに渡るでもなく、ぼんやりと立っている人がいる。恥じるように「お先にどうぞ」と言う人もあれば、何も言わないままの人もいる。
 こういうとき、区民プールは少し難しい。
 たいてい僕は先に泳いでしまう。後ろから泳いでくるその人が自分より速ければ「バカにしてるのか?」と思うし、遅ければ「そういうことか」と納得する。何の感情も湧かないこともあるし、湧かないことにしているときもある。
 どちらにしても、そのことで考えすぎて、身動きが取れなくなるほどの繊細さはない。「ない」と言い切ることで、何かを自分に言い聞かせようとしている。潔さの誇示もしたがっている。でも本当に「ない」のだろうとも、確かに思っている。
 こういうときは、いつも、繊細さに対する羨ましさよりも、少しだけ悔しさが勝つような気がする。繊細でない自分が悔しいのか、大雑把にも振り切れない半端な在り方が嫌なのか、どちらでもいいことが、案外こびりついたりする。もちろん、こびりつかないこともある。

 やろうとしてもできない人がいることを、言葉では知っている。
 でもおそらく、僕はやろうとすればできることもある人間だ。教科書レベルだがずっと計算は早かったし、町内の水泳大会を2連覇したこともある。最近では、ある人に対して「この人、頭悪いんだろうな」とも思った。人生で初めての経験だ。
 だからきっと、やろうとしてもできない人の気持ちはわからない。
 やろうとしてなんでもできる人の気持ちもわからない。
 やろうと決めてから何日か無駄にしてしまう人や、そもそもやろうとすら思えない人の気持ちなら分かるかもしれない。
 でも、それも結局、僕が知っている色でしかない。

 何も知らない、と言ってしまうのは、きっと楽だ。でも、知ったかぶりも楽だ。後者は少しのコツと勇気が要る。どちらも違う角度から見れば不誠実ではないかもしれないけれど、だからといって本当かと問われれば、それはわからない。
 結局、良い人だと思われたいし、良い人だと思われたくないし、悪い人だと思われたくないし、悪い人だと思われたいから、こんなことを考えるのだと思う。
 平凡な感情は、なぜか安定しない。

 やろうとしてもできない人は、よくテレビに出る。
 その不完全さを皆に愛され、居場所を見つける人がいる。
 誰にも理解されず、凄惨な末路を辿る人もいる。
 それらをテレビは、等しく映す。音を駆使し、テロップを練り上げ、正確無比に原稿を読み上げる。コメンテーターはSNSと信念の狭間で格闘しながらも、何とか芯の食ったことを言おうと顔をしかめている。
 関わった人間たちにインタビューすれば、きっと、それなりのプロ意識と犠牲のもとに完成したのだと分かる。駅前のたこ焼き屋さんに聞いても、きっと、違う角度で分かる。
 家は涼しいし、知り合いでもないから、どちらにも聞かない。

 あるときは、「このダメさが人間らしくていいな」と微笑んでいる。
 あるときは、「繊細ぶってんじゃねえよ」と電源を切る。
 あるときは、「本音だけが人間らしさだろうか」「嘘の中にも在ったであろう切実の処遇はどうなるのだろう」と数秒考える。
 そのまま1時間くらい寝転がるときもあれば、堅揚げポテトを買いに行くこともある。今日は柿ピーだった。酒は言わずもがなだ。 瓶の味付きメンマは高いから我慢する。高いけど食べたいから買う。
 平凡な生活は、なぜか安定しない。

 芯を食ったことを言おうとしていると思われないように、これを書いた。
 ああ、めんどくさい。
 自分大好き。自分大嫌い。ちょっと幻滅することもあるし、実はとてもかっこいいと思うときもある。楽しいときも、悲しいこともある。寂しいときもあるし、素面で意味不明のポエムを送ってしまうこともある。我ながら気持ちのいい返信が出来ることもあるし、頼むから一人になりたいときもある。
 めんどくさいから言えるだけ言っておこうとすると、こういうことになる。

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