【散文】 鳩も呻くから



 考えない時間を、つくろうと決めた。
 不眠に見舞われ、社会生活に支障をきたしたからだ。
 恥ずかしいほどにありふれた、つまらないきっかけだった。
 眠れない間、脳味噌は嘘のように熱くて、電源を奪われた扇風機のように、猛スピードで回り続けていて、とても怖かった。
 四肢は全く動かないのに、首から上だけが生きているみたいで。
 でも本当はそこだけが死んでいたんじゃないかと、全く理に適わない道のりで「脳死」という言葉を、初めてリアルに連想したりしていた。
 一連の苦節に満足してもいた。
 無理やりに底を引っ張り出されるような感覚が、心地よかった。
 その表現者めいた何かが、勲章のように思えていた。

 夜勤のバイトを無断欠勤したあの日。
 忙しいはずの上司が、メッセージを寄越した。
 彼はとても優しくて、僕の状態をただ、労わってくれた。
 「ごめんね」と、勝手に何かを謝ったりもしていた。
 クビになると思っていた。 クビになったら困ると思っていた。
 彼は優しかった。「また元気で来てください。待ってるよ」と、最後に残した。
 こんなにつまらない仕事をして生きてきて、人並みに愚痴を垂れて、
 おそらくそのまま死んでいく。
 いつも、そんな彼のあり方を、腹の底でバカにしていた。
 気持ちの置き所が、難しい夜だった。
 こういうことが、年に数回起こる。
 起こってしまう。
 自業自得だ。

 帰省の際、約束の電車に大きく乗り遅れた僕に、父が言った。
 「人は本来、夜眠って朝起きる、生き物だから」
 「きっと正樹が思うよりも、今の生活は、正樹の体に負担をかけていると思う」
 「辞めなくていい。ただ、分かったのなら、できることはあるんじゃないか」
 当たり前のことを説いた。ある部分を、一度繰り返した。
 怒らず、過剰に心配もせず、そっと手を添えるように。
 しっとりと、胸にこたえた。
 考えない時間を、つくろうと決めた。

 「やったこともやらないことも、自分にしか返ってこない」
 幼い頃、母によく言われた言葉だ。
 僕は母に、「勉強しなさい」と一度も言われたことがない。
 分かっている。
 世界の基準は変わらない。
 考えなかった時間が産み出した空白は、僕にしか返って来ない。
 間違いなくそれだけで、一文字も己は進まない。
 分かっている。こじつけなんかしない。
 思うよりも身体が弱かった。それを守る為に、僕は思考を止めるのだ。
 敗北だと分かっている。言い訳なんかしない。
 開き直りも、しない。

 ただ、勇気の要る作業だと直感した。
 だから、そこに向かうことを決めた。
 「捨てる」という行為は乱暴だけを意味しない。
 目を切って振るう断絶だけを、意味しない。
 立ち返ること、虚無に心を籠らせることも、 そうなり得るのだと。
 僕の積み上げてきた、社会には何の意味も果たさぬ空洞たちが、そう叫ぶのだと。
 言い訳もこじつけもしない代わりに、祈る。
 他人事のように。

 早朝、駅前の喫煙所にて目を瞑り、思考を投げだす。
 人気のない天丼屋の前で、鳩が呻いている。
 突如、閃いた野生に驚愕し、戸惑い、僕は振り返る。
 目が合うとやめた。何食わぬ顔でペタペタ歩き、啼いた。
 「ぽっぽー。」
 衝動めいていた。
 翻り、本物かどうかを疑い、手触りをさがす。
 まだ、うまくはできない。

 半分吸い残した煙草を押し込み、立ち上がる。
 ぼうっと、いつも聴かない唄を聴いて、時間を捨てることに慣れていく。
 慣れなきゃと思う。
 まだ、うまくはできない。
 いつかあなたと眠る。
 悲しいほどに柔い、雨雲をひとつ、命に添えて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?