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【小説】君のカケラ①(全四話)

あらすじ

コールセンターで働く道夫、研修生のもとこ。
いい大人なのに不器用で、驚くほどに不器用な二人。
似た者同士の2人は互いに惹かれ合い、止まっていた時間が少しずつ進んでいく。
少し滑稽な大人たちの成長物語。

第一話

真っ白な壁、煌々と光る蛍光灯に照らされて鳴り止まない電話をとる。
明るいはずなのに暗くて人がたくさんいるのに独りぼっち。
ここはそんな場所だ。

対応が終わるとすぐに次の電話が鳴る。
まるでベルトコンベアーに乗せられてお見合いをしているようだ。
次はどんな出会いがあるのだろう、なんて思っていたのは随分昔の話で僕はただひたすらに次から次へと電話を取る。

「安田くん。悪いんだけどさ、これシュレッダーしてきてくれる?」

長い対応が終わりペットボトルの水を飲もうとした瞬間に声をかけられたので思わず溢しそうになってしまった。

「あっ…はい」

飲むタイミングを失った僕はペットボトルの蓋を元通りに固く閉めて立ち上がりズッシリと重い段ボール箱を受け取る。

「飲んでからでもいいのよ」

そう言われても、もう両手は塞がっているし今更飲むのもなんだか気が引けるので後ろ髪をひかれながらもシュレッダーに向かった。

紙が機械に吸い込まれて刻まれる音が周りの人たちの声をかき消していく。
何度も何度もまるでロボットのように紙を流し込んでいくこの作業が僕は好きだ。

オフィスの片隅にあるこの場所から、表情を変えずに会話をしているたくさんの人たちが見える。

茹だるような暑い日でもいつだってひんやりとしているこの場所で僕は15年勤めている。

後から入ってくる人たちの大半がすぐに辞めていき、残った人たちはあっという間に僕の上司となり、そして辞めていった。

僕に任されるのは雑用ぐらいだ。

それでも、名前を呼ばれる事に、自分を選んでくれた事にほんの少し喜びを感じる。
誰とも話さず、誰とも笑い合わず、あと何年こんな時間を過ごすのだろう。
一歩踏み出す勇気もなく、死なんて大それた事を選択するほどの事でもない。
ただ毎日を無難に過ごす事になんの疑問も感じなくなっていた。
あの日までは。

「あのー」

開放感のある大きな窓から温かい日差しが差し込む休憩室のカウンターテーブルの端っこが僕の指定席だ。

確かにあったはずの麺がどうしても見つからなくてカップの底を必死に箸で探っていた僕は、その声が自分に向けられている事に気づかなかった。
ここで僕に話しかけてくる人なんて誰一人としていなかったから。

「あの…あら?えっと…まさか私のこと見えてない?」

顔をあげると見覚えのある女性が僕の近くに立っていて僕の顔を覗き込むようにして不安そうにこちらを見ている。

身体が熱くなり今にも逃げ出したいような気持ちになったが、僕は彼女にそれを気づかれないように返事をした。

「はい?」

想像以上に素っ気のない声が出てしまい焦ったが、彼女はそんなこと気にも留めていない様子で口を開く。

「良かったー。私、透明人間になったのかと思った。ほら、私よく自分は誰からも見えてないのかな?って思うことあって。言霊っていうの?とうとう消えちゃったのかと…」

清楚な形姿とは裏腹に早口で落ち着きなく話す彼女の顔が少しずつ紅潮していく。

僕もよく自分は透明人間なんじゃないかと思う時がある。
消えてしまいたいと思った事も…そんな馬鹿げた事を考えている人が他にいる事にびっくりした。

ラーメンのカップを持ったまま彼女はじっと僕を見て立ちすくんでいる。
用があったんじゃないんだろうか、無いなら早く行ってくれればいいのに、沈黙に耐えかねた僕は緊張で震えそうになる喉にぐっと力を入れた。

「あの…何か?」

「あっそうだ。あの…カップラーメンの汁って、何処に捨てるんですか?」

こんなにも沢山の人がいるのに、この人は何でわざわざ僕にこんな事を聞くのだろう、ラーメンを食べている人なんて他にもいるのに。

僕はゆっくりと箸を置き、彼女に気づかれないように大きく息を吸い込んだ。

「えっと、あの曲がって…あっ曲がる前に出口から出て、曲がって…えっと…」

じっとりと汗がわいてきて、頭が真っ白になっていく。

「右に曲がって…えっと…」

震えそうな身体を必死に止めようとすると今度は息がうまく出来なくなる。

「大丈夫ですか?気分でも悪い?」

頭では分かっているのに、言葉にできなくて、相手に伝わっていないのが分かると余計に焦って話せなくなる。

昔から僕は話すのが苦手だ。

「ごめんなさい。大丈夫です。おやすみの時間に邪魔してすみませんでした」

なんだかとても傷ついたような顔をして、深く頭を下げて僕に背を向けてしまった彼女を何とか引き止めたかった。

「あの!!」

想像以上に大きな声が出てしまって自分でもビックリした。
周りの人たちが一斉にこっちを見る。

「僕も捨てるんで…」

早くこの場を立ち去りたくて足早に出口へむかう。
まだ心臓がドクドクと波打っていて、じっとりとした汗が背中に張り付いているのがわかる。

「歩くの早いんですね」

息を切らして必死について来る彼女を見てようやく我に返った。

「あっごめんなさい…」

小走りで僕に追いついた彼女は、僕を下から徐々に見上げるようにして眺めた後また早口で話し出す。

「思ったより大きいんだね。いつも背中丸めて座ってるからこんなに大きいと思わなかったなぁ。ほらいつも1人でいるから比較対象がないっていうか、友達とかいないの?ずっとここで働いてるんだよね」

こんな時、どんな言葉を返したらいいんだろう…困惑している僕に気づいた彼女は

「ごめんなさい。私、昔から一言多くて、空気が読めないっていうか、それでよく人を傷つけちゃって…あなたの事たまに見てたから。いつも一人でいるところ…」

そう言うと肩を落として俯いてしまった。

「あの…行きませんか?」

全く動かなくなってしまった彼女の顔を覗こうとした瞬間に急に顔をあげるから、あやうくぶつかりそうになってしまう。

「ごめんなさい。私ふたつの事を一気にするのが苦手で、反省してたら歩くの忘れちゃって。よし、反省終わり、歩こう」

そう言ってスタスタと歩き出した。 

表情がくるくる変わる不思議な人だ。
彼女の勢いに押され呆然としていた僕は、別の方向に曲がる彼女を呼び止めて給湯室に向かった。

給湯室につきラーメンの汁を捨てると彼女はすごく清々しい顔をしていた。

「ありがとうございました。私、この会社に入って1か月なんですけど、ずっと汁の捨て方が分からなくて…仕方がないから全部飲んでて…ほら、私汁飲むとお腹が痛くなるタイプで。それでいつも午後はお腹が痛くて…そうなるともう、お腹のことしか考えられなくなって…お客様との会話に集中出来なくて…怒られて…でもお陰で今日からは仕事に集中出来そうです。本当にありがとうございます」

深いお辞儀をしたあとの笑顔があまりにも真っ直ぐで、眩しくてつい目を逸らせてしまう。

時計をみると12時50分になっていた。

「いえ…あっ休憩時間終わるので僕は…」

「あっヤバイ。私トイレに行ってから戻りますね。」

彼女はそう言ってオフィスとは別の方向に走って行ってしまった。

「あの、そっちじゃ…」

僕の声は彼女には届かない。

まるで嵐のようだった。
水泳の授業の後のようなものすごい疲れが押し寄せるなか、僕は急いで仕事場へ戻った。

窓際の研修席では研修担当の高野さんが時計を見つめて明らかにソワソワしている。まだ彼女は戻っていないようだ。

しばらくすると慌てた様子で彼女が戻ってきた。

「もう!どこ行ってたの?休憩時間15分も超えてるわよ」

「あの…すみません。えっと…あの…迷っちゃって」

「迷った?あなた何ヶ月ここにいるの?体調でも悪い?」

「いえ…すみません」

「さっきお客さんに言われた事、気にしてるとか?」

「いえ…」

「大丈夫なの?ちょっと休む?」

「いえ…」

「さっきの気にして逃げ出したのかと思って心配したんだからね…まぁ…よかった…本当によかった」

2人の会話がうっすらと聞こえてくる。あの場所は15年前、僕の指定席だった。

10人いた同期の三分の一は独り立ちを待たずに辞めて行き、僕を除く他のメンバーは軽々と独り立ちし、そして夢を見つけたなどと言って辞めていった。

うまく話せず、言葉が出てこない。
そんな僕に高野さんは根気強く付き合ってくれて、僕のせいで何度もお客様に謝ってくれた。

一度だけ、会社から逃げ出した事がある。

「普通の人に変わってよ」

金切り声でまくしたてる女性から言われた言葉だ。

何も言えずただ聞く事しかできない僕から高野さんは電話機を奪った。

僕は僕の代わりに謝ってくれる高野さんの姿をずっと隣で見ていた。

僕は昔から何も変わっていない、ずっと何も…

一人っ子だった僕は幼少のころから1人で過ごす事が多かった。
開業医の父は家にいることはほとんどなく、父が僕に笑顔を見せるのは街で患者さんに声をかけられる時ぐらいだ。

進学校に通っていた僕を会話の糸口にして自慢めいた事を話している父の事を僕は好きでは無かった。

父の病院で看護師として働いていた母もどこかいつも不機嫌で何かあるとヒステリックに怒る人だった。

いつも両親の顔色をうかがい、感情を飲み込んで生きてきたせいか僕は自分の気持ちを相手に伝える事が苦手だ。

上手く話ができない僕には友達なんて1人もいなくて、そんな僕を気にかけて声をかけてくれていたのは陽子ちゃんという女の子だけだった。

陽子ちゃんだけは僕の目をちゃんと見てくれて、いつだって優しかった。
彼女の誕生日に僕は公園で陽子ちゃんと待ち合わせをした。
緊張してしまってなかなか話を切り出せないでいる僕の隣で陽子ちゃんはいつものように本を読んでいる。

誰もいなかった公園に少しずつ人が集まってきた。
もうすぐ高学年がやってくる時間だ。
僕は大きく深呼吸してプレゼントの箱を渡した。
渡す時に何か言った気もするが何も覚えていない。

「覚えててくれたんだ。ありがとう。」

目を細めて嬉しそうにしていた陽子ちゃんの顔だけは鮮明に僕の記憶に残っている。

緩やかなカーブを描くクセのある髪は太陽の下では少し茶色く見えて、透き通るような白い肌に吸い込まれそうな茶色の瞳をした彼女はどこかの国の人形のように美しかった。

陽子ちゃんは僕が渡したプレゼントを大切そうに両手で抱えながらゆっくりと息を吐き

「道夫君…私じつはね…」

と言ったあと少し寂しそうな顔をして僕を見た。

陽子ちゃんが伝えようとしている言葉はきっといい事ではないんだろう、そんな予感がした。

彼女の口がゆっくりと開き何かを言いかけた瞬間に、隣から陽子ちゃんを呼ぶ声が聞こえてくる。

同じクラスの女子が2人冷やかすような目をしてこちらに近づいてきて、そのまま彼女を連れて行ってしまった。

何度かこちらを振り返る陽子ちゃんは遠くから僕に何か伝えようとしていたけれど、蝉の鳴き声にかき消され聞こえない。

ミンミンと騒がしく鳴き叫ぶ蝉の声とジリジリと照り返すコンクリートからの熱気を身体中で浴びながら僕はそこに立ち尽くしていた。

しばらくするとさっきの女子が戻ってきた。
怒ったような顔をした2人は

「なんでこんなもの渡すのよ」

と僕が陽子ちゃんにあげたプレゼントを地面に叩きつけた。
コンクリートの上にぼとりと落ちた箱を僕は呆然と見つめていた。

2人が歩いていったその先に陽子ちゃんの姿が見えたけれどここから表情を見る事はできなくて、寂しそうな少し丸まった背中、それが僕が見た最後の姿だった。

あんなにうるさく騒いでいた蝉の鳴き声はピタリと止んで、突然降ってきた大粒の雨がプレゼントの箱を濡らしていく。

次の日陽子ちゃんは学校に来なかった。

放課後、教室を出て廊下に出ると同じクラスの男子3人が近寄ってきた。

道夫おまえ陽子に虫の死体を渡したんだってな。
陽子お前のせいで今日休んだんじゃないか?
そんな事を言いながらニヤニヤと笑った。

そうじゃないって言いたいのに言葉が出てこなくて、息苦しくて頭が真っ白になっていく。

周りにいる生徒たちがこっちを見ているのがわかる。
誰とも目を合わせないように下を向いて歩こうとした時、目の前に昨日の女子2人が道を塞ぐように立っていた。
まるで汚いものでも見るようにこちらを睨んでいる。

踵を返した僕の目の前にさっきの3人が近づいてくる。
そこからの事はよく覚えていない。
気づいたら一人の男子が床にうずくまっていて、にぎやかだった廊下は一瞬静まり返り、先生たちが慌てた様子で走ってきた。

職員室の片隅にあるソファーはこういう時のためにある事を知った。
部屋に入ってくる生徒たちが好奇の目でこちらを見ているのがわかる。
僕はうつむいて一定のリズムで揺れる扇風機の影をひたすらに眺めていた。

職員室に入ってきたお母さんは「本当に申し訳ありませんでした」そう言って頭を下げた。

僕が友達に蝶々の死体を渡した事、友達を突き飛ばして怪我をさせた事、先生からの説明を聞きながら何度も謝るお母さんの姿を僕はずっと見ていた。
結局お母さんは僕の顔を一度も見る事はなかった。

「何があったか知らないけど、お願いだから普通にしてよ。お父さんを困らせないで。普通にしてたら、人を不快にさせることなんてないのよ。こんなことにならないで済むの」

呆れたように言い放って、もう一度仕事に戻ると僕に500円を渡して行ってしまった。

あの蝶々は僕の宝物だったんだ。
色とりどりの羽の色がとても綺麗で、陽子ちゃんもきっと喜んでくれると思っていた。
僕はただ、陽子ちゃんの笑顔が見たかっただけなのに…
地面に叩きつけられたプレゼントと悲しそうな陽子ちゃんの背中が代わる代わるに頭に浮かび目頭が熱くなった。

前から手を繋いで歩いてくる幸せそうな親子に気づかれないように、僕は必死に歯を食いしばり涙を堪えた。

あのあと陽子ちゃんは引っ越してしまって、僕は謝ることさえできなくて、それから学校で僕に話しかけてくれる人は誰もいなくなった。

成績も落ち、受験にも失敗した僕への関心を失ったのか「頑張りなさい」が次第に「普通にしなさい」になり、父の笑顔を見ることもなくなった。

「普通…普通」

僕を守るために言ってくれている言葉だというのは痛いほど分かっていたけれど、この言葉を聞くたびに、母の言う事を守るたびに自分自身が消えていくようで、多くの人が正しいと思っていることがなんなのかを考えるのも面倒になっていった。

高野さんは僕の隣で何度も何度もお客さんに頭を下げている。
高野さんとお母さんの姿が重なって見えた。

何処に行っても、何をしても、歳をとっても、僕は何も変わらない。
情けなくて、なんだか途方もない悲しみが押し寄せてきて、僕は昼休みに会社から逃げ出した。

ベンチに座り何本もの電車を見送る。
忘れようとしていた色んな出来事がふつふつと蘇ろうとするのを駅のホームの雑踏がかき消してくれるような気がして僕はそこから動くことができなかった。

ポケットの中で規則正しく振動する携帯電話のバイブ音が誰からの電話かはわかっていた。

「もしもし、高野です。今何処ですか?無事かだけでも教えて下さい」

「安田君?お願いだから電話に出て。お説教なんてしないから…」

「安田君?辛いなら辞めていいんだよ。だけどね、向いていないって決めつけているなら、それは間違いだから。ゆっくりだけど成長してる。人それぞれペースがあるの。とにかく明日来て話そう。辞めるのか続けるのか…聞かせて。何を言っても責めないから…ね…お願いだから」

留守番電話から聞こえる高野さんの声はか細くて今にも泣き出しそうで、自分の事を思ってくれているのが痛いほど伝わってくる。

僕の話を聞こうとしてくれる人がいる。
目を逸らす事なく僕をしっかり見てくれる人がいることが嬉しかった。

もう少し頑張ってみようか…僕はようやく電車に乗ることが出来た。

次の日、研修席に行くと高野さんは僕の顔をみるなり「ごめんなさい」と頭を下げてきた。

「安田君は前に辞めたいって言ってたのに私が無理やり引き止めて、傷つかせてしまって…本当にごめんなさい。もう頑張らなくていいから…安田君の好きにしていいから」

今日からまた頑張ろうと思っていたのに言い出しづらい空気になってしまった、これは向いてないからやめろという事なのか…いまさら続けたいとか言ったら迷惑なんだろうか…

困惑する僕の顔を高野さんが不思議そうに見ている。

「あの…僕、迷惑ばかりかけるけど…やっぱり頑張りたいなって…」

「続けてくれるの?」

「まだここに居てもいいんですか?」

「当たり前でしょ。せっかくここまでやって来たんだもん。もうちょっと一緒に頑張ろうよ」

僕の肩に乗せられた高野さんの手はものすごく温かかった。
今の僕がいるのは高野さんのお陰だ。
高野さんの喜ぶ顔を見るのが嬉しくていつか成長して感謝の思いを伝えたい。そう思って、今もここにいる。

無事独り立ちできた日に、高野さんは僕に言った。

「ありがとうね。不器用だけど少しずつ確実に成長していくあなたを見て、勇気もらえた。あぁ私にもまだ出来る事あるんだなぁって…頑張ったねー。よく鬼のしごきについてきたよ」

悪戯っぽく笑った後「諦めないでくれて、本当にありがとう」
そう言って僕に頭を下げた。

お礼を言わないといけないのは僕の方なのに、口に出したら泣きそうで、ボロボロになりそうで僕は頭を下げることしかできなかった。

高野さんはあれからもずっとここにいて、僕たちを見守ってくれている。
そして今はあの子の先生だ。ラーメンのあの子。
同期は随分と前に独り立ちしていったのに彼女だけはずっとそこにいる。
まるで昔の僕のようで、僕はよく二人の事をみていた。

だけど次の日も、その次の日もあの子は会社に来なかった。
辞めてしまったのだろうか。
沢山の人が入ってきて、沢山の人が辞めていく、ここはそういう場所だ。
だから彼女の事を気にする人なんて誰もいなかった。

1週間後、珍しく遅番シフトに組まれていた僕が休憩室に立ち寄るといつもの僕の席に彼女が座っていた。
こちらに気がついた彼女はラーメンを食べる手を止めてこちらを見る。

真っ直ぐに僕を見つめる彼女は少し痩せたようで、触れると消えてしまう泡のように白くて美しかった。

「ひ…あの…久しぶり」

ドキドキして声が裏返ってしまう。

「うん…久しぶり」

「辞めたのかと思った」

「だよねー。しぶとくも、戻ってきちゃった。ほら、あの日、ラーメンの汁を飲まないですんだから、仕事に集中出来るはずだったのにさ、夕方ぐらいになったらお腹が痛くなってきて…あぁもう、これはお腹が痛くなる習慣がついたんだ。人間って凄いなぁ。慣れってすごいなぁ。とか考えてたんだ」

相変わらず早口で表情が豊かで話すと印象が変わる。

「会社から出てから、どんどん痛くなってきて、気づいたら病院にいたの。急性腹膜炎だって、先生にラーメンのせいかと思ったって話したら、物凄く呆れられたよ…」

「もう大丈夫なの?」

「大丈夫。でもさ、少しだけ仕事に慣れてきたかと思ってたのに、また逆戻り。会社に迷惑かけちゃった。今日だってお客さん怒らせて高野さんに迷惑かけちゃうし」

「辞めたいと思わないの?」

ずっと疑問だった。
若くて明るくてきっとどこに行っても可愛がってもらえそうな彼女が、同期に置いていかれても怒られても続ける理由はなんなんだろう。

彼女はしばらく考えたあと僕をまっすぐに見つめて、ゆっくり言葉を手繰るようにして話しだした。

「思うよ。辞めたほうが良いんだろうな。向いてないって。でもさ…今やめたら、自分は駄目人間だって決定打?になっちゃう気がしてさ。迷惑だよね。本当自分勝手」

そんな事ない、僕も同じだったって伝えたかったけど、やっぱり言葉が出てこなかった。


その日から彼女は休憩室で僕を見つけると隣に座るようになった。

何も話さずにぼんやりと外を見ている日もあれば、とりとめもない彼女の話をずっと聞いている日もあったけれど、僕は彼女の話を聞くのが好きだった。顔を真っ赤にして、一生懸命話す彼女を見ているのが好きだったんだ。

長い雨の季節がすぎ、本格的な夏がやってくる。
バーベキューや野外イベント、なんだか街中が活気だつこの季節は僕は苦手だ。
雨がしとしとと降り続きみんなが憂鬱そうな顔をしている梅雨時期の方がよっぽど好きな僕はひねくれ者なんだろう。

ぼんやりと外を眺めていると水野さんがいつものようにそばに座った。

「熱いね」

「うん、熱いね」

ようやく独り立ちが出来た水野さんは慣れない業務に苦戦しているようで最近はお昼時間にはすっかり疲れ果てている。
先輩としてのアドバイスとかが出来たら良いんだろうけど、そんな事出来るはずもなく、隣でぼんやりと座ることしかできない自分が無力だった。

テーブルの上に顔を突っ伏していた水野さんが急にガバッと起き上がった。

「忘れてた!グッズ販売12:00からだった」

何やら真剣な表情でスマートフォンを眺めた後「もう売り切れてる」と項垂れてまた机に突っ伏してしまった。

彼女の好きなキャラクターについては随分前に嫌というほど聞かされていたのできっとそのグッズの事だろう。
あれほどまでの熱量で好きを語れるのはなかなかの才能だと思う。

どんな声をかけようか…しばらく考えていると、何事もなかったような顔をして

「みっちゃんの好きな花って何?」

などとまた唐突な質問を投げかけてくる。 
これほどまでに気分をころころ変えられるのもある意味才能だと思う。

「好きな花?」 

生まれてから今まで花を好きだと思った事があっただろうか。
花の事など考えたことも無かったけど何か一つぐらいは答えておいた方が良いだろうと一生懸命考えても頭に浮かぶ花の名前がわからない。

「私はね、この花が好きなの」

僕の答えなんて待っていなかったような間で、彼女が翳したスマホの画面には鮮やかなピンク色の花が一面に広がっていた。

「なんの花だっけ?」

「ブーゲンビリアの木の下で…って歌あったでしょ」

「あ、なんか知ってる」

曲名は分からなかったけど懐かしい曲だった。

「なんかさ、歌詞とか全然意味わからなんだけどさ、昔からずっとこの歌が好きなんだ。よく分からないのに好きってすごくない?」

言っている意味が僕にはよく分からなかったけど「そうだね」と差し障りのない返事をした。

「私、いつか沖縄に行ってブーゲンビリアの木の下で月を見たいなって思ってるの。それが私の夢なんだ」

「ブーゲンビリア、確か僕の家の近くに咲いてたよ。……今度一緒に行く?」

勇気を振り絞って誘ってみたのに

「だめなの!沖縄じゃないと、沖縄でみたいの。私のカケラ探したいのよ」

すぐに否定されてしまった。
あまりにも大きな声だったので周りの人たちが眉を顰めてこちらを見ている。

「カケラってなんですか?」

「分からないけど、とにかく、私にはなにかが欠けてると思うの。パズルのピースみたいにピタッとハマる何かを見つけたら、色々上手くいきそうでしょ?」

やっぱり言ってる意味はよくわからなかったけれど、なんだか上手く説明出来たような顔をして満足しているようだったので僕はそれ以上は聞かなかった。

窓の向こうには青い空が広がっている。
眩しそうに目を細めて空を見上げている彼女の長くて黒い睫毛が上下する

「行けるといいな。一緒にいこうよ」

胸がドキドキして、僕はその緊張がバレないように「うん」とだけ答えた。

第二話に続く

note創作大賞にエントリーしています。
スキいただけると嬉しいです。

#創作大賞2023
#恋愛小説部門















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