遥の花 月の竹 眠るモノ 二話
遥の花 月の竹 眠るモノ 二話
朝まだき、空気がしんと静まり返っている。
男と黒は、朝の空気の中を梅林の奥深く、ゆっくりと歩いていた。男の片手には、新しいコピー用紙の束がある。
「黒、この辺でいいだろう」
男が立ち止まると、左手を上げ、手のひらを空に向ける。男の手の上に、水球が現れた、その水球はゆっくりと上昇しだし、弾けた。
「水の結界を張った。誰も近づけないようにね」
黒が驚いたように声を出した。
「先生も母さんも呪文唱えずにどうして出来るの」
「幸は説明してなかったかな」
黒が頷いた。
「呪文には二種類ある。幸が清めで詠う寿ぎ歌のように、特定の音の響きとリズム、それ自体が力を持つ呪文。もう一つは神とかのね、力を貸してくださいと依頼するための呪文だ」
「本家の術師達も普通に呪文を唱えていたよ」
「昔は本家にも呪文を唱えない術師がいたんだけどね」
男は地面にあぐらをかくと、紙の束を隣りに置いた。
「力を借りるのでもない、神に憑依されるのでもない、瞬間的に、自分が神様そのものになってしまえば、呪文を唱える必要がない。ただ、問題は人間の体には負担がかかりすぎるってことくらいだな」
「白が言ってた、先生は長く生きられないって言ってたって」
「若い頃、無茶し過ぎたのさ。さて」
男はコピー用紙を一枚取ると、右の手のひらに載せた。
「黒の頭の中には入っているはずだ」
男が黒に笑みを浮かべると同時に、その手のひらに載せた紙が半分に切れ、男の手のひらから落ちて行った。次に男は紙を頭に載せた。滑り落ちるように紙が二枚に別れ落ちて行った。
「呪術ではない、純粋に体術、体の微細な動かし方で、斬るという働きを生みだす。わかるだろう、誰もがこんなことできるようになったら大変だ、うっかり握手も出来ない」
男は笑うと、黒に紙を一枚手渡した。
黒は神妙に紙を受け取ると、そっと、手のひらに載せた。男は立ち上がると、その紙を上からのぞき込んだ。
「なかなかね、理屈はわかっていても難しいものだ」
「先生」
「ん・・・」
「先生、死なないでください。母さんが悲しみます、黒も悲しい、みんな、泣いてしまいます」
男がふっと笑みを浮かべた。
「ありがと。黒に泣かれたら大変だ、おじさん、頑張るよ」
幸は白を部屋の真ん中に立たせると、じっと見つめながら白の回りを廻る。三毛も隣りで不思議そうに幸を眺めていた。
「母さん、何ですか。急に」
あかねがふとそんな様子に気づき、部屋に入って来た。
「あぁ、ちょうどいいや。あかねちゃん、白は何年生に見える」
「え、白さんですか」
「うん、あかねちゃんと同じくらいかな」
「ですね。背丈、顔付き。白さんくらいの子、多いですよ」
「なら、中学二年生にしよう」
幸はぼぉっと眺めていた三毛に近寄ると、
「三毛は小学六年。なら、黒は中学三年ってことにするかな」
「どうしたんですか、幸さん」
あかねが不思議そうに尋ねた。
「武術も一通り教えたし、次は学校へ通わせようかってね、思ったんだ。それで、見た目の年齢に合わせて日本国籍を取らせようって思う、真っ当な方法じゃないけど」
幸はいたずらっぽく白に笑いかけた。
「白、大学の医学部に入って医者になってみるか」
「え・・・」
茫然とした表情で白は幸を見つめた。
「本当にいいの」
幸が柔らかく笑みを浮かべる。
「武術や呪術の練習は欠かしてはだめ、自分の身は自分で守れるようじゃないとね。その上で、勉強をして、生命を救う仕事をしたいというなら、それは有りだ」
幸は突っ立ったままの白の前で足を崩して座ると、顔を上げ、真っすぐに白を見つめた。
「武術や呪術を教えたのは、身を守るためだ。白や黒や三毛を、使って何かをしようなんてことは全く考えていない。家族だから、一緒に暮らしている、大切だから、こうして、一緒に生きているんだ。わかるかな、白」
白は言葉が出ず、ただただ、うなずいた。幸は笑みを浮かべると、今度は三毛を見つめた。
「三毛はどうする」
「そんなの、思いつかないよ、母さん」
「思いつかない、それも有りだよ」
幸は立ち上がると、梅林の方向に目を向ける。
「黒はどうするのかなぁ」
「先生、切れた、切れたよ」
黒が驚いた声で男に言った。
「なかなか優秀だな」
男は切れた紙の断面を睨んだ。
「少しざらついているけれど、でも、奇麗に切れている」
黒が嬉しそうに笑った。
次に男は小脇にコピー用紙の束を抱え、黒から三メートルほど離れた。
「紙を黒に向けて飛ばすからね、しっかり、切るように」
「はい」
黒が元気良く答えた。
男が紙を一枚取り出す、それをふわっと地面と平行に浮かせた。そして、とんと紙の後ろを指先で押す。すいっと紙が空を滑って行く。黒がそれに合わせて、右半身に構えた。右手で上段、左手で中段を守る。すっと紙が黒の右手の寸前で二つに切れ地面に落ちた。
「要領は飲み込めたようだね。なら、連続して攻撃するよ」
黒が頷くのを確認して、男は次々と、白い紙を繰り出す。そして、黒の寸前で、幾つもの裁断された紙が渦を成して行く。
黒に目に見える動きはない。しかし、黒の微細な動きに呼応して空気が小刻みに震える。
男は手元に残った紙が十枚、確認すると、まるで空中に書類棚があるかのように、すっすっと紙を上から下へと並べて行く。
「十枚同時に行くぞ」
「はいっ」
黒が鋭く答えた。
男が紙の後ろを手のひらで押した。
ぶわっと十枚の紙が黒の頭の上から、足元まで斬り込むように飛んで来る。黒がうっと声を漏らした。
紙が一枚、黒の目の前、一ミリにも満たない距離で停まっている。男が紙の後ろを摘まんで笑っていた。
男は紙を手に戻して言った。
「九割がた大丈夫。あとは移動しながらでも使えるようになれればいいな。もともと、多人数相手のものだからね」
「先生・・・」
黒が呟くように言った。
男がいたずらげに笑った。
「頭、斬られたら生きてないよな」
黒がそっと頷いた。
男は結界を解くと、涼しい風が流れ込んで来た。
「さてと」
男は呟くと、辺りに散らばった紙切れを拾い始めた。慌てて、黒も従う。
「あかねちゃんはね、真面目すぎるというか、潔癖症のところがあるからな。散らかっていたら叱られてしまうぞ」
「あかねちゃんが」
黒が男に聞き返した。
「あかねちゃんの気配が近づいているってことだよ」
男が笑った。
おおよそ、紙切れを二人がまとめ終わった頃、あかねが大きな紙袋を持ってやってきた。
「おじさん、黒さん。お昼ですよ」
あかねが男に紙袋を手渡した。
「幸お姉ちゃんからです」
「ありがとう」
男は紙袋を受け取ると、紙切れを仕舞い込んだ。
「当分、メモ用紙には不自由しないな」
あかねは笑みを浮かべると、黒に声をかけた。
「黒さん、強くなりましたか」
「え・・・」
黒は一瞬、質問の意図が掴めず、きょとんとしてしまった。
男は、腰を落とすと、あかねに話しかけた。
「黒に教えてくれないかな、含みと流し。おじさんでは身長が違いすぎて教えづらいんだ」
「いいですよ」
あかねはあっさりと答えると、黒の正面に立った。
「あかねちゃん、武術できるの」
黒が不思議そうに呟いた。あかねが楽しそうに、しかし、少し意地悪に笑みを浮かべた。
「黒さんたちには、鬼から助けていただいた恩があります。だから」
あかねが右足を数ミリ、前に送る。
「できるだけ手加減してあげます」
体中草だらけになる、息も絶え絶えとはこういうことを指すのか、黒は激しく息をし、ぎゅっとあかねを見つめた。
「黒さん、いい眼ですよ」
あかねはふらっと突っ立っているだけだ。
黒は一気に間合いをせまめると、一閃、あかねの左側頭部に右回し蹴りをいれた、最短距離を疾る突きのような蹴りだ。一瞬、黒はにっと笑うあかねの顔が視界一杯に見えた気がした。
青い空、あかねの右手のひらが柔らかく黒の顎を捉え、黒が背中から落ちた、後頭部を打たないよう、あかねの左手は黒の首筋を支えている。
「これが流しです。そして、さっきの黒さんの突きを溶かしたのが含みです」
あかねは黒の手を取ると、すっと立ち上がらせた。
「黒さんの筋肉、随分、参ってますね。これくらいにしましょう」
「ま、まだ、大丈夫」
男が後ろからすっと黒を抱え上げた。
「気持ちが折れてなければ良し。あさぎに遅いって叱られるぞ」
「で、でも」
「黒はあかねちゃんの動きをしっかり見ただろう、あとは、どうすれば同じ動きができるかしっかり自分で考えなさい。おじさんの教えた動きとあかねちゃんのを合わせれば、どんな動きになるかわかるか」
黒がごくっと息を呑んだ。
「わ、わかるよ。かあさんと同じ動きになる」
男が笑みを浮かべた。
あかねが黒の顔を覗き込んだ
「黒さん、しっかりね」
「う、うん。あかねさん」
あかねがくすぐったそうに笑った。
「ちゃんでいいですよ」?
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