遥の花 漣一話

「しょうがないな、出るか」
深夜、幸は呟くと椅子から立ち上がった。
夕食の後、鬼紙家から遣わされた車に鬼紙老と津崎かなめを載せ、あかねはどうしようかと少し迷ったようだが、万が一のため、一緒に乗り込み送っていくこと にした。
三人が帰った後、片づけを手伝い、幸は男の部屋で時間を過ごす。

襖を開ける、廊下を渡り、幸が寝間を覗き込む。啓子が大いびきをかいて眠っていた。
「あやつは蓄膿症の気味があるようじゃのう。小夜野も早めに寝てよかった、奴よりも後に寝ようとすれば、到底、眠れそうにないわ」
背後から、なよが気楽に笑った。
「なよ姉さんは寝そびれたわけだ」
振り返ると幸は少し幸せそうに笑った。
「あさぎ姉さんも遅くまで起きていたようだけど」
「あさぎは帳面に中華の分析を書いておったからの。しかし、驚いた、味と見た目から、材料に調味料、料理の仕方、加熱時間まで推理しおった」
「凄い特技だ。あさぎ姉さん、頑張ったんだろうな」
「出来た妹のおかげで、美味いのが食える、ありがたいのぉ」
なよが笑うのを、幸は嬉しそうに笑みを浮かべ、よしっと気合を入れた。
「行くのか」
「このままだとゆっくり眠れないから、仕事、済ませてくる」
「わしも行こうか」
「本家絡みの気がするから、幸だけで良いよ。そうだ、凍えているだろうから、お風呂、沸かしなおしてください」
「わかった」
なよは頷くと風呂場に向かった。

家の扉を開け、後ろ手に閉める。
闇の中、玲瓏、突き刺す白月がアスファルトを穿つ。道路を挟んで見えるは漆黒の闇。光すら飲み込み、その正体が知れない。
「用件を聞こう」
幸が闇に向かって呟く。
重低音の振動が微かにずれる、そんな唸りのような音が響いた。音、いや、意味のある音、声だ。
娘に術を授けてもらいたい
闇が少し薄れる。巨大な足、足首から膝までの高さで幸のゆうに二倍はある。その足にしがみつき、身をひそめる少女。
微かに顔をしかめ、幸が呟いた。
「何者だ」
人は我らを鍾馗と呼ぶ
幸は頷くと、しっかりと声を掛けた。
「わかった、教えてやる。一ヵ月後の今夜、この時間に来い。だが、身につけることができるかどうかはその娘次第だ。いいな」
ありがたい、感謝する
幸はその言葉に返事はせず、ぎゅっと少女を睨んだ。
「来い」
少女は意を決したように、一歩前に出ると、空を、自分の父親のだろう、顔を見つめ、しかし、すぐに向き直ると幸の元へとやってきた。幸の持つ気配にだろ う、震えている。
幸は氷のように冷え切った少女の手をぎゅっと握ると空に向かって言った。
「鍾馗の長よ。必ず、生きてお前の娘を迎えに来い。これは餞別だ」
幸の握った手が月と同じ白に輝く。それは光の球になり、少女の体を抜け、闇へと駆ける。そして、その闇の中に吸い込まれた。
「仙術系なら、月の光も役に立つさ。去ね」
やがて闇が薄まり、道路、向かいの家が浮かび上がる。
「行ったか」

幸が少女の手を握り、家に戻ると、白が嬉しそうに待ち構えていた。
「幸母さん、これは白のお役目ですよ」
新しい下着と、白の服だろう、そうだ、少女の背は白と同じだ。
「お風呂はなよ姉さんが沸かしなおしてくださいました」
幸は白に幾つかの指示を伝えようとしたが考え直した。
「白、この子は1ヶ月の間、うちで修行をする。これから風呂に入れるつもりだけれど、たださ、随分やつれている、栄養状態が悪い。どうすれば良いかな」
白は頷くとしばらく考えていたが、目を輝かして答えた。
「肌の状態や唇の乾き具合から判断して、水分補給。ジュースを作ります」
「そうだな。なら、白。彼女を台所へ連れて行ってくれ。椅子に座らせて栄養のあるジュースを作ってくれるかな」
「はい」
白は頷くと少女の手を握り、台所へと連れて行った。
幸が廊下を一歩歩いたとき、ふっと、なよが幸の隣りに現れた。
「なよ姉さんの天敵だ」
幸がくすぐったそうに笑った。なよが少し困り顔に笑う。
「刺激があるのも面白い。練習相手になってやるとしよう」
ふぃっとなよの姿が消えた。啓子のいびきが収まる周期になったようだ。なよが小夜野の隣りに寝るのを感じた。
幸が台所に入ると、少女はテーブルに着き、白が山羊の牛乳に火をかけていた。
「人肌まで暖めて、バナナジュースを作ります」
「美味しそうだな」
幸は答えると、少女の隣りに座った。
「私は幸。この娘の母親だ。みんな寝ているからさ、紹介は明日の朝にするよ。で、お前の名前は」
少女は幸の問いかけに困ったように俯いた。
幸はたいして気にするふうもなく、軽く吐息をもらすと、白に声をかけた。
「白。この娘に呼び名をつけてくれ」
「名前ですか」
「いいや、呼び名だ。呼ぶのに不便だからさ」
白は少し考えていたが、ふっと笑みを浮かべた。
「漣(れん)、さんずい偏のさざなみという漢字です」
「いいな、それ」
幸は頷くと、俯いたままの少女に言った。
「お前のことを漣と呼ぶ。漣という声が聞こえたら、自分のことだと認識してくれ、いいな」
少女は驚いたように幸を見つめていたが、やがて、そっと頷いた。
「できましたよ」
白はマグカップ三個に温かなミルクを注ぎ、テーブルに置いた。
「一緒に飲みましょう」
白は漣の真向かいに座り、ジュースを少し飲む、そして、漣に笑みを浮かべた。ほっとしたように微かな、ほんの小さな笑みを漣は浮かべると、一口、ジュース を飲む。
三日間、一切の食事も水分も摂っていなかった、だからだろう、人肌に温められたジュースが喉を通っていくのがわかる。なんだか、緊張が解けて寝てしまいそ うだ。
「寝るのは風呂に入って体を洗ってからにしてくれ」
幸が穏やかに言うと、くすぐったそうに笑った。
「白、漣と一緒に風呂に入ってくれるかな。汗や土埃に、涙、流してやらないとな」
「わかりました」
「漣の服は洗っておく。ん、こういう服もいいな、一つ、作るかな」
闇にまぎれる濃い茶色の服、緩めのチャイナドレス、下は幸のカンフーズボンに似ている。改めて、漣を見る、肩より二センチ上で切りそろえた後ろ髪、澄んだ 瞳に鼻筋が通っている。
「元々が中国だからかな」
白はふと幸に尋ねた。
「漣さんは中国の人」
「ん、微妙だな。広い意味では人だ。ただ、話が長くなる、それを話し出すと。とにかく、風呂に入って、一晩、ぐっすり寝て、それからの話だよ」
幸は微かに哀しげな笑みを浮かべると、残りのジュースを飲み干した。

白が漣を風呂に入れている間、幸が風呂の洗い場で漣の服を手洗いする。洗濯機もあるのだが、長く使っていない。たらいに洗濯板を斜めに入れ、それで洗う。 たらいの下にかさ上げのための台があるので、腰に負担がかかりにくくなっている。
白は右肩で漣を支えるようにして、風呂につかっていた。
「幸母さん、手伝いましょうか」
「いいよ、もうすぐ終わる」

「おおい、幸ちゃん」
脱衣場の向こうで啓子の声がした。
「お風呂場だよ、啓子さん」
幸の返事に啓子が服を着たまま、風呂場の扉を少し開け、中を覗き込む。
「どうしたの」
「なよちゃんにたたき起こされたよぉ。幸ちゃんになんとかして貰ってこいって」
幸が愉快に笑った。
「啓子さん、いいから、こっちにおいで」
少し涙目になった啓子はそのまま、幸の元にやってくると、しゃがむ、幸は左手をタオルで拭うと、啓子の鼻から額に向かって手を動かす、すっと、指先が啓子 の鼻と額の間に溶け込んだ。
「これだな」
ふっと幸は指先を動かし、手を啓子の額から抜いた。
「以前に顔面に強打を受けた後遺症だ、膿が溜まりやすくなっているんだよ」
「なんだか、息がしやすい。すっきりした」
幸は笑うと、ふと思いつき言った。
「啓子さん。悪いけど、寝る前に、お父さんの部屋に布団を三組敷いてくれないかな」
「いいよ。幸ちゃんの頼みは断れないからさ」
啓子も新しい住人に気づいたが、それには触れず、風呂場を出て、男の部屋に向かった。
「面白い人だ、啓子さんは」

「あの、幸母さん」
白が思いつめたように言った。
「どうした、漣は、うん、大丈夫みたいだな。そろそろあがるかな」
「あのね」
「ん」
「白も幸母さんみたいに出来るようになるのかな、練習すれば」
「あぁ、啓子さんの顔に手を入れたりってこと」
「う、うん」
「モノの虚実が理解できればそれほど難しくはない。ただ、絶対的な自信がないと大変なことになるから、誰にも教えていない。白、身につけたいのか」
「はい」
「それなら、漣の修行が終わったら特訓してあげるよ」
「がんばります」
「あぁ、かなりがんばってくれ」
幸が楽しそうに笑った。

漣は夢を見ていた。目の前の見慣れたはずの屋敷が紅蓮に燃えている、自分の体まで燃えてしまいそうだ。沢山の黒い消し炭が横たわっている、あの一つに母さんがいるのだ、私を逃がしてくれた母さんなのだ。
うわぁぁ・・・、どうしてこんなことに。
やだ、嫌だ、どうして。

「よう、目を覚ましたか」
なよが、目を覚ました漣を見て、にたぁっと凄みのある笑みを浮かべた。
「う、うわっ」
漣が唇を震わせ、後ろ手に布団を握り締めた。
「かぐやのなよたけの姫」
食いしばる歯の隙間から漣が呻き声を出した。
「ほぉ、わしを知っておるか。ほれほれ、固まっておっては逃げられんぞ」
嬉しくてたまらないとなよが笑った。
漣がよろよろと後ずさりをする、息が荒い。ぼろぼろと涙がこぼれる。
「なんじゃ。そんなことでは戻っても鬼の餌になるだけじゃのう」
じわりと、なよが漣に向かって手を伸ばす。

「なにやっているんですか、なよ母様」
二人の間に割って入った小夜乃がぎゅっとなよを睨んだ。
白い割烹着を身に纏い、仁王立ちする小夜乃には威厳すらあった。
「いや。まぁな、怯えるのが面白ろうてな」
「なよ母様は遊びでも、漣さんにとっては心の傷になるんです」
「すまんすまん、怒るな。謝る」
小夜野の怒る姿すら楽しいと、なよが素直に頭を下げた。
「本当にもう、なよ母様は子供なのですから」
小夜野は大袈裟に溜息をつくと、漣に向き直り、腰をおろして正座した。
「幸姉さまから修行に来られたと伺っております。母 かぐやのなよたけの姫が失礼致しました。私は娘の小夜野と申します」
「なよたけ姫の娘・・・」
漣が腰を抜かしたまま、呟いた。

「種族はそれぞれ違うけれど、それでも家族なんだ」
幸が連の着替えを抱え、ふわりと小夜野の横に座ると、気楽に笑った。
「おはよう、漣。顔を洗って着替えてこい。朝ご飯を食ったら、修行だ」

あたふたと漣が着替えを済まし、広間に戻ると、幸たちが組み立て式の食卓を整え、料理を運んでいた。
「漣。向こうの扉を開けたら、椅子がある、運んでくれ。啓子さん、お願いします」
「ほーい」
啓子は抱えていたおひつを食卓の上に置くと、漣に笑いかけた。
「漣ちゃん、おいで」
啓子の声にあたふた頷き、漣が啓子に走り寄った。啓子の後ろを歩く、背の高い綺麗な人だ。
扉を開け、啓子が折りたたみ椅子を出す、漣がそれを浮けとる。
ふっと漣が啓子を見つめた。
「どうしたの。なんか顔に付いているのかな」
「あ、あの。いいえ・・・」

にかっと啓子が笑った。
「ここの連中は個性が強すぎて当てられるかもしれないけど、すぐに慣れるよ。いい人ばかりだからさ」
「あ、ありがとうございます」
背伸びをするように漣が答えた。

漣は昨日までの逃避行が本当にあったことなのか、頭の中で混乱していた。鍾馗の一軍が鬼との戦いに破れ、散り散りに逃れた。異様なほどの鬼の強さに男達は怯えていた。
本来、鍾馗は鬼を制する立場にあるはずなのに、一族一の偉丈夫な父でさえ苦戦し、私をここに預けたのだ、私は役立たずで邪魔になるだけだ。
「漣。しっかりしろよ」
幸が声を掛けた。テーブルにつき、朝ご飯の前で連は惚けたように俯いていた。
「はいっ」
漣が顔を上げると、幸が正面でにっと笑っていた。
「しっかり食っておけよ。藤四郎が一ヶ月で名人になるって言うんだ、修行は厳しいぞ」
「はいっ、頑張ります」
漣が思いっきりご飯を書き込んだ。咽ていないはずなのにぼろぼろと涙が流れる。
幸は呆れたように笑うと、連に話し掛けた。
「親父や一族の心配はするな。幸が漣を預かったのを本家が確認した、本家は勝つ側につくからな、いま、本家当主が鍾馗に接触している。幸の娘達も情報収集に走っている、勢力図が変わって、鬼との戦いは膠着するだろうし、一ヶ月くらいは時間稼ぎできるさ。漣はその間に強くなればいいし、強くしてやるよ」
「幸さん、話がよく見えないんだけど」
ふっと、啓子が口をはさむ。ドンブリ鉢に山盛りのご飯、片手に。
「太るよ、啓子さん。啓子さんも漣ちゃんの練習に付き合ってみる、しっかり痩せるよ」
幸は少し笑うと、微かに俯いた。
「まっ、漣のことは、本人から聞いてくれ。ただ、幸がすることは、連を一ヶ月であかねちゃんや黒並みの強さに育てる」
おおっと啓子が唸った。
「つまりは、鬼の大群を一人で粉砕できるようにするってことか・・・」
「黒はどうかな。技術はあるけど優しいからな」
ふと、幸は呟いたが、顔を上げると、皿にある卵焼きを食べる。
「あさぎ姉さん、卵焼き美味しいよ。ちょっと中華風かな」
あさぎは照れたように笑うと頷いた。
「お父さんが帰ってくるまでに中華をしっかり覚えようと思ってね」
うふふっ、と幸がくすぐったそうに笑った。
「お父さん、喜ぶよ、きっと」
「そうじゃな。あさぎの料理はうまいからのう。あぁ、今度はラーメンが食いたいのぉ、あの時のラーメンは絶品じゃった」
啓子が食べるのをやめ、なよを見た。
「なよちゃん、それって、商店街の中華屋さんのこと」
「あぁ、あの時は世話になったな。しかし、こんな生意気な口をきくのなら、啓子の耳たぶの一つも食っておけばよかったな。まさか、ちゃんづけで呼ばれるとは思わなんだわ」
「なよちゃんてさ。知らずに見れば可愛い女の子だよ」
「まじめな顔をして、そのようなことを申すではないわ」
なよが少し顔を赤らめる。
幸が笑った。
「そういうとこが可愛いんだよ、なよ姉さん」
「お前達とおると調子が狂うてかなわん。さて、佳奈ところへアルバイトへ行ってくる、昨日の今日で客が来るかどうかわからんがな」
「それなら」
あさぎが声を掛けた。
「なよ姉さん、買い物いいかな」
「いいぞ、何を買ってくる」
「蛸とたこ焼き器なんだけど、幸もいいかな」
あさぎが幸を見る。料理に関しては、全てあさぎに任せてある。
「いいと思うよ、幸もたこ焼き好きだし」
にっと幸が笑った。
「ひょっとして、あさぎ姉さん,黒に頼まれたの」
「買い物に付き合ってくれて、帰り道、屋台のタコ焼き屋さん、なんだか幸せそうに眺めているから、買ってかえろうかって言ったら、いらない、いらないって慌てたようにね、言うから」
ふと啓子が思いついたように答えた。
「黒は気を使っているんじゃないかな。学校に通っていると、細々と必要なものもあるし、負担かけているってさ」
「お父さんも仕事辞めたものね」
幸は呟くと天井をぼぉっと眺める。
「テレビもエアコンもない家だけど、それは必要がないからで、それなりに、お金の面でも裕福なつもりなんだけどなぁ」
「ねぇ、幸」
あさぎが何か思いついたように顔を上げた。
「幸と二人で、毎晩の家計簿。黒にも手伝ってもらおうか」
なよが面白そうに笑った。
「なるほど。知らないことが不安なら知れば良いだけのこと、幸、そうしたらどうじゃ」
幸も頷くとほっとした顔をした。
「黒には今晩、話をするよ」
幸はれんが食べ終えたのを見届け、立ち上がった。
「思い出したけど、お父さんと屋台でたこ焼きを焼きながら旅をしていたんだ、その時の道具が車屋さんの倉庫にまだ残っているかもしれない」

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