スタンフォード・ブリッジの遭難者

 20200308 チェルシー4エヴァートン0

 酷い試合だった。

 ピッチ上のあらゆるエリアでチェルシーの選手が躍動し、エヴァートンの選手は後手に回り続けた。タックルを恐れ、飛び込まずにただ棒立ちでリアクションするだけの442ラインディフェンスは、早い縦パス交換やスピードあるサイドからのえぐり、ジルーの気の利いたポストになす術もなかった。

 点差は内容を悉く反映したものだった。いや、それ以上の点差に値したかもしれない。さらに、このスタンフォード・ブリッジでの目を覆うしかない惨状の最中、エヴァートンから一人の遭難者が出た。

 ギルフィ・シグルズソン

 プレミアリーグ屈指のオフェンシブ・ミッドフィルダーであり、アイスランドをW杯出場に導いた国民的英雄の所在は、チェルシー戦開始直後に途絶えた。この日試合開始1時間前に発表されたチームシートには、写真とともに彼が右サイドで先発すると確認されている。彼は確かに試合に出ていたはずなのだ。

 ところが、不思議なことに、ピッチ上でシグルズソンの躍動する姿を目撃したエヴァトニアンはいなかった。そのような証言は、ツイッター上のあらゆるつぶやきからも見つからなかった。マウントの見事なターンからのゴール、ウィリアンの素晴らしいミドルにうなだれている間、シグルズソンはスタンフォードブリッジにてエヴァートンのファンの前から忽然とその姿を消したのだ。

 だがこの日、テクノロジーの力によって、ピッチ上に遭難者の微かな痕跡が記録されていた。シグルズソンがピッチ上でプレイしていたことを示すスタッツが残されていたのである。


 ファンは上記のスタッツを見て、そっと目を閉じるだろう。ピッチ上でのシグルズソンの雄姿を憶い出そうと…いや違う、「こんなスタッツだったらいないのと同じじゃねえか」という絶望とともに。

 実に上記のスタッツは、この日のチームの出来を率先して象徴してる。実際シグルズソンは、右ウィングとして先発発表されたが、実際にプレイしたのは左ウィングだったらしい。本来、エヴァートンの左ウィングはベルナールかイウォビの主戦場である。しかしアンチェロッティは「アウェイや強豪戦では(守備重視のため)バランスをとる必要があり、(フィジカル的に軽い)ベルナールには簡単でなくなる」という発言をしている。裏を返せば、チェルシーの右サイドの攻撃力を封じるためによりフィジカルに優れ運動量もあり、攻守にバランスの取れたポジションの取れる選手として、シグルズソンを左に置いた。明確なアンチェロッティの意図がそこにはあった。

 さてその結果はどうであったか。もう一度先ほどのスタッツに目を向けよう。


パス本数 27
ファイナルサードへのパス 2
チャンスクリエイト数 0
タックル成功数 0
インターセプト 0


 攻守に渡る、見事な遭難っぷりである。ウィングとしてサイドでボールを動かすバイパスの役目も、期待された守備貢献も、まるで果たせてない。しかも、更には次のようなスタッツまでが見つかっている。


「スプリント数 4。チームで最も少ない」

 スタッツにおける「スプリント」とはピッチ上のある一定距離を全力疾走に近いスピードで走った回数を示すものであり、ウィングやサイドバックは、そのポジション性質上自然とこの回数が多くなる。

 しかしシグルズソンは走らなかった。いつもの指差し指示に忙しくはしても、70分ほどウィングとしてプレイして、そのサイドをダッシュで駆け上がったり下りたりしたのは、わずか4回だった。

「運べない、守れない、走らない」。

 シグルズソンの存在を示すほんの微かな痕跡は、そんな新たなウィング像を提示していた

 実は試合前、シグルズソンの先発を知って不平不満を漏らすツイッター上のエヴァートンファンのアカウントが無数にあった。これは、今から考えると、彼の遭難を既に予見した警告であったのかもしれない。

 それほどまでに遭難が危惧されたシグルズソンを、名将アンチェロッティはなぜ先発させたのか。現地の戦術分析派は次のようなツイートで説明している。

「つまるところシグルズソンが起用される理由はセットプレイと守備力の2点にある。同意しようがしまいが、それは理にはかなっている。我々はセットプレイから多くのチャンスを作っている以上、それを助ける選手が起用される」

 セットプレイのキッカーを務めるために、シグルズソンは遭難の危険性があってなお、ピッチに送り出されたのだと。

 また上記ツイートを証明するようにアンチェロッティ以降のエヴァートンがセットプレイに如何に依っているがを示すスタッツもある。

画像1

 上記データは、本来アンチェロッティ就任以降のエヴァートンの攻撃スタッツとそのリーグランクであり、アンチェロッティがチームにもたらした優れた改善を指し示すものである。

 セットプレイに関するデータを見てみよう。

CK数 219回(リーグ2位)
クロス/CK成功数 59本(リーグ2位)
セットプレイからのゴール 7得点(リーグ1位)

 アンチェロッティ以降、エヴァートンはセットプレイ数とそこからのゴール数において、文字通りリーグトップの数字を残している。セットプレイはアンチェロッティの目下の攻撃戦術に置いて、とても大きな比重を占めていると言ってよいだろう。

 そして、リーグランク1位であるセットプレイの機会を得て、それをリーグ1位の得点につなげている大きな要因に、優れたキッカーの存在がある。シグルズソンが、たとえ多くのサポーターから遭難を危惧されようとも、チーム1のプレースキッカーとしてアンチェロッティの信頼を得ている限り、彼は先発し続けるのだ。

 シグルズソンは昨季チームの柱と言って差し支えない活躍を見せた。
だが、その一方で、彼のタレントの特殊性を指摘するブログや記事も現地では多く見られた。それらの指摘をざっくりまとめると、

 「シグルズソンはプレス戦術を取るチームにおけるセカンドストライカーだ」

 というものである。昨季、彼はほぼ常に「トップ下(10番)」として出場していた。しかし中盤~ファイナルサードにかけて、チームに効果的なビルドアップを手助けすることは稀で、キーパスやオープンプレイにおけるチャンスクリエイト数も少なかったように記憶している。どちらかと言えばフリーロール的なムーブにおける運動量の多さと唐突なシュート力が最もファンの印象に残るところだろう。

 しかしアンチェロッティはフォーメーションを442に固定し、「トップ下」そのものが無くなった。最も得意なポジションがないシグルズソンの主戦場は、CHか左ウィングになった。

 さらに言えば、アンチェロッティ以前のシウヴァ期においても、今夏イウォビの加入により、彼のトップ下は安泰ではなくなっていた。シウヴァはイウォビを4231の2列目の各ポジションで起用し、トップ下が適任であるという答えをほぼ出しかけていた(解任前の数試合イウォビが負傷離脱したため実現はしなかったが)。

 つまり、シウヴァが解任されてもされなくても、アンチェロッティが来ても来なくても、今季シグルズソンの「定位置」は「遭難」していた可能性が高かったとも考えられるのだ。エヴァートンは、ビルドアップを助け前線にシュートチャンスを供給してくれる、チームプレイヤーとしての普遍的な「10番」をずっと求めていたのだ。

 そのイウォビがトップ下で活躍したウエストハム戦において、現地観戦していたファンサイト主幹リンドン・ロイド氏による、次のような証言がある。


「仮にシグルズソンがチーム残留を許されてるとして、(私としては、シグルズソンはウエストハム戦で交代出場する前、タッチラインでシウヴァの指示を横柄に無視した、あの瞬間に終わっているのだが)、残りの契約を消化することで彼はさらに2000万ポンドをクラブから吸い上げるだろう。明日にでも売っちまえ。中国はどうかい?」

 ここからは私の個人的な感情と推測になる。

 上記ツイートがされたのはシグルズソンの不調が続いた年末年始だが、ホームでのウエストハム戦があったのは、昨年の10月19日だった。

 試合展開を思い出してみよう。

 ちょうどシウヴァの去就が取り沙汰され始めた10月中旬、イウォビのトップ下起用でチャンス量産し、ベルナールのエリア内クイックフェイント2連発からのゴールで1点リードの展開。
 

 その日の立役者の交代選手としてピッチに送り出されたシグルズソンは、証言を信じるなら、シウヴァの指示を無視してプレイを続けた。何のために?おそらくは、自分が先発でなかったことの不満を表すために。そして終盤、意地の一発とばかりに勝利を決定づけるミドルシュートを決めた。

 まさに監督の指示という「制約」を拒否して、自らフリーにプレイすることで得点したわけである。そして今季シグルズソンがプレミアリーグで決めたゴールは、このウエストハムの得点のみである。

 ロイド氏がツイート内で書いたように、私自身もまた、このツイートを見てからシグルズソンへの信頼のようなものが消えてしまった。少なくとも「チームプレイヤー」としての信は、すっかり薄れてしまった。

 つまりはこの試合を最後に、スコアラーとしても私の気持ちからも、
シグルズソンは「遭難」してしまったのだ。


 

 この文章を書いている時点で、シグルズソンはまだ発見されていない。今後、どこかのピッチ上で、シグルズソンは再び発見されるのだろうか。それともこのまま「遭難者」として扱われ、エヴァートンのチームシートから名前を見なくなるのだろうか。

 今はただどこかのピッチ上で、「シグルズソン無事発見」の報を待ちたい。

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