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(こころをちぎる)

(休日の朝、イヤホンでお気に入りの講演を聴きながら、庭の雑草をひく。)


小林秀雄氏が、志ん生のような高調な語り口で語っている。こころがどこに存在するか という問いには意味がない、と聴衆に説いている。
脳で起こる化学物質の移動と、精神活動がイコールであるはずはないのだという。

(チガヤは指を切らないよう気をつけて茎をつかむ。引っ張ると、ぷちぷちと小気味よい振動とともに地面から抜ける。)


たとえばマッチに火をつけるという物的なエネルギーの移動が起こったとき、それに随伴して壁に輪光があらわれるだろう。
同様に、物的に測定しうる事実と、精神運動が連動しているとする。


(シロツメクサは可愛らしいけれど厄介者だ。地下茎を張り巡らせていて、はじまりもおわりも見つからない。)


それは、まったく同じものがふたつあるということと同義である。まったく同じものがふたつあることは無駄にほかならず、自然界はそのような無駄を許容するほど甘くはない。

(ヨモギを引くといいにおいがする。似たかたちなのにいいにおいのしないのは、ブタクサだろうか。)


だから、精神活動を物理的に解釈することはできない。こころは、どこかの空間に存在するとはいえないのだ、という。


(カラスノエンドウの根元に、てんとう虫がじっとしている。冬はもうすこし続きそうだよ、とだれか教えてやらなかったのか。)


こころはからだ全体にあるし、からだの外にも存在する。たとえば手のひらの細胞のひとつすらなにかを覚えていて、すこしでもそれらが今と違っていたら、今の意識と全くおなじ意識は存在しないのだ。


(裏が白いのはチチコグサだったか、ハハコグサだったか。ロゼットが綺麗なまま根が抜けると、うれしい。)


指先の神経に集中する。こころはどこにもないが、少なくともここにはなにか、こころに限りなく近いものが存在している。


(手袋越しに、空気の冷たさと草木の棘がするどく伝わってくる。いつのまにか無意識に、手先が雑草の種類をおぼえていて、それに合わせてじょうずに動くようになっている。指先の神経に、集中する。)


ぎゅっ。ぷちぷち。ひんやり。

(ぎゅっ。ぷちぷち。ひんやり。)


酷使した指にじーん、ちぎれるような痛みが走る。


(じーん。ちぎれるような痛みが走る。こころはどこにもないが、少なくともここにはなにか、こころに限りなく近いものが存在している。)

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