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直島ひとり旅、ぐるりをなぞる

「オレンジピッキング、グレープピッキング、あとはアスパラパッキング。」


閉店間際に滑り込んだ小さなレストランのカウンター越しに、彼女は指折り数えてみせる。おまじないみたいな語感が楽しくて、わたしもつい声を出して、口の中でことばを転がす。

オレンジピッキング、グレープピッキング、アスパラパッキング。

「そうそう。とりあえず動けたらいいんですよね、最初は」

彼女が頷くと、ハイライトカラーの入った髪が、陽の光に透けてきらきらひかる。エプロンの紐をほどくと、らくがきみたいな花柄のセーターが顔をのぞかせた。


瀬戸内海の離島で暮らす彼女は、大学を卒業してから海外を転々として、つい昨年末までオーストラリアの農園にいたのだという。仲間たちと、そのおまじないのような労働をして、20代が終わったのをきっかけに、次の移住の資金調達をすべく英語を使って働けるこの島にやってきたそうだ。

だってじっとしてらんないですよ、と彼女は屈託なく笑う。
じっとしてらんない。
それだけじゃないのかもしれないけれど、それがすべてでもいいな、と漠然と思った。







フルマラソンを走ろうとしていたら、きっかり3週間前に、足首に全治3週間のけがをした。

急性外傷の基本的な処置はRest(安静)、Icing(冷却)、Compression(圧迫)、Elevation(挙上)の頭文字をとってRICEが合言葉、と学生のころの講義で習った覚えがある。しかし、勤め人にRもIもCもEもまともにできるはずはなく、日常生活に支障がないまでの回復は遂げたものの、およそ2万円の出走権は放棄せざるを得なかった。

ふと思い立って、ぽっかり空いた3日間のスケジュールに、「芸術の島」香川県は直島の宿泊予約を入れた。


初日は島に到着したのが日の昏れる頃だったので、早々にチェックインをすませる。そのまま、同じゲストハウスに泊まっていた女性と約束をして、一緒に夕食をとった。

福岡に住まいがあるというその女性は、離婚届を提出するために夫のいる京都に向かう道中、ひとり旅をしていてここに流れ着いたのだという。海の上の小さな陸地で、それぞれの物語が交差している。


翌朝、立ち寄ったコーヒースタンドの店主に勧められて、ある美術館に向かった。

無人のレンタサイクルショップで、千円札を小屋の木箱に放り込んで借りてきた、ぼろぼろの自転車を漕ぎ出す。汗ばむくらいの陽気で、2月なのに空も海も風も青い。猫たちが茂みから出てきて、我が物顔で道路に転がってひなたぼっこをしている。
海を望む山道を登っていって息が切れたころに、安藤忠雄建築らしいモノトーンの建造物が姿を現した。冷たくなめらかなコンクリートの肌に、こちらの体温を奪わんと誘うような引力を感じる。


チケットを買ってそのかたい灰色の中に入る。作品をゆっくりと眺めながら回り、ひとつの部屋に足を踏み入れた。

ただ何もない空間に、ただ何でもない金属の大きな板と岩が、ぽつりと置いてあった。外にはたくさん外国人観光客がいたのに、気づけばわたしの他には誰もいなくて、本当に静かだった。その瞬間、呼吸をする有機物が自分自身しか存在しないのだ。咳をしても一人、と残した尾崎放哉なら何と詠むだろうか。

ぼんやりと見ているだけのつもりだったのに、なぜだか涙がこぼれかけて驚いた。音も色もほとんど閉め出されたその場所には、ひとを自分の輪郭と向き合わせる強制力があった。


毎日いろんなものやひとに触れて、わりあい楽しく笑って過ごしていると自負している。健康な肉体に恵まれ、生育環境に恵まれ、友人にも恵まれた。でも無意識下では自分の輪郭線のうえで、いろんな違和感と闘っている。

肌に合わない服の微かな着心地の悪さや、怒りっぽい先輩と組む明日の仕事、生えかけの親知らず、期限の迫った水道代の振込用紙、利き手の薬指のささくれ。
ひとつひとつのデータ容量は大きくないのに、そいつらはどうにも図々しく思考のメモリを圧迫する。

情報過多な生活のさなかで目まぐるしい毎日を過ごしていると、そういう小さなノイズに気がつかないまま、いつの間にか消耗している。あるいは自分から、些細な不純物の存在を意識の外に追いやってしまいたくて、より強く情報量の多い刺激を求めてしまう。


突然与えられた静謐な空間で、心がざわついて仕方がなかった。知らんぷりしていた違和感に、脳細胞たちが一斉にシュプレヒコールを始める。


排除せよ。排除せよ。わたしに快適をもたらさないものはすべて、わたしの生活から排除されなければならない。







その夜、脳をくたくたにしてふらりと入ったレストランで、「じっとしてらんない」彼女に出会ったのだった。
きっとひとつの場所で停滞していることが、彼女にとっては生活から取り除くべき違和感であったのだろう。将来の安定がどうとか周りに何を思われるかとか、そんな価値のために、自分を消耗する不協和音を看過などしない。理由はいつだってシンプルだ。からだが動くことを求めているから、そうしている。

何もかも我慢しないで生きるのはきっとむずかしい。だけどせめて、世界のなかで自分の輪郭をくっきりさせておけば、いまそのラインを侵そうとしているもの、テンションをかけているもの、削りとろうとしているものの存在に気づくことができる。

毎日ずっと何か感覚入力のある環境に身を置いて、自と他の境界線のところを濃い色で塗りつぶして、表面の細かな摩擦にむりやり鈍感になっている。

どうしようもなく自分の輪郭がぼやけてしまった時には、何もない空間でただ自分の呼吸音だけを聞くことが、強制的なリセットボタンになるのかもしれない。







この旅のあいだはひとりぼっちを甘受するつもりでいたのに結局、いろんなひとと出会い、行動を共にした。島という土地の狭さがそうさせるのか、わたしが捨てられた子犬みたいな目をしていたのか、はたまた神のお導きかはわからない。


わたしはなんにも持っていないけどご縁のめぐりだけには自信があるんですよ、と最後に袖振り合った旅人と酒を酌み交わしながらこぼしたら、それって何にも優る才能だよ、と返ってきた。その言葉を聞いて、わたしはやっぱりご縁に恵まれているな、と思った。


肌をぴりぴりさせるいやな刺激ばかりじゃない。
わたしのふちどりの周りには、愛しいひとや優しい言葉、心地よい時間、わたしの大好きなものだってたくさんあふれている。感覚受容器をおさぼりにしても安全な場所がある。


ねえ、甘えてもいいですか?たまには輪郭線をゆるめてにじませて、曖昧に溶けあっていたいのです。

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