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手が喋りかけてくる【23/03東京旅行記②】


何の気なしに東京で過ごすことにした4日間。2日目は散歩がてら、行きたいと思っていた展示をめぐる。

新国立美術館の『ルーヴル美術館展 愛を描く』にはじまり、21_21 DESIGN SIGHT『The Original』、森美術館『六本木クロッシング2022展:往来オーライ!』に東京都立美術館『エゴン・シーレ展』とハシゴ。


ルーヴル展はいずれ京都に来ると知っていて我慢できなかった。わたしは常々デートに美術館はいただけないと思っているが、今回の展示に関しては上質な恋愛映画に近い内容なので、恋仲を深めるには御誂え向きかもしれない。意中のあいつのハートを射止めたい紳士淑女各位はご参考にどうぞ。わたしもひとりで遠征して見に行きましたなんて寂しいことはひた隠しにして、ステキな殿方からのお誘いを待っちゃおうかしら。


21_21はQOLを直接アップさせる多種多様なデザインが面白かったし、森美では、異文化の交差点をアクシデントなく進んでいくための信号について考えさせられた。細かい話はわたしみたいなズブの素人が講釈をたれても仕方がないので割愛する。



さてもさても、エゴン・シーレ展である。

夭折した天才画家エゴン・シーレの足跡を辿りながら、その魅力に迫るわけだが、とりわけ目が止まったのは“手”であった。数多く残された自画像、自己が被写体となった写真、聖母子像や裸婦像にいたるまで、彼の作品には手に多くを語らせているという特徴がある。愛情、抵抗、官能、祈り、ナルシシズム。関節の角度や位置、指の太さや手のひらの厚み、肌の質感が、さまざまな情報をはらんでいる。


ちょうど展示を訪れる前日、東京行きの新幹線のなかで、手について考えていた。きっかけはある文章を書いていて、何気なくつくった一文にたまたま『手』という単語を使った慣用句がふたつ入ってしまったことだった。あ、被ってんな、とすぐに校正するが、どうにもうまくいかない。描写したいのは感情やからだ全体が動いたできごとであったのに、一番しっくりくるのは『手』を使った表現だったのだ。


考えてみれば、『手』を使った慣用表現は日本語にたくさん認められる。
手を貸す、手をこまねく、大手を振る。あんまり並べるとゲシュタルト崩壊しそうだが、思いつくだけでもとても両手では数えきれない。二番手、若手、運転手、なんて言葉においては人物そのものさえ示している。

目は口ほどにものを言う、とはいわれるが、手の語り部としての機能はもしかするとそれ以上かもしれない。少なくとも、可動性は目をはるかに上回る。筋肉量が多く、細かな骨格があり、なめらかな関節と鋭い神経は高い巧緻性を支える。触覚、圧覚、痛覚、温度覚も発達していて、感覚器官としても大きなはたらきをもつ。


エゴン・シーレの手の表情は豊かだ。肉体の一部を精神と切り離す、彼の観察眼がそれを可能にしたのだろう。早世の天才の筆遣いを想像しながら鑑賞すると、ひとつひとつの作品の厚みが増すのだった。



美術館を出たあとは、最近できた友達と落ち合わせる。
たくさん話して、たくさん笑って、うれしい夜に手を振った。


楽しさに上気した帰り道、息がもう白くないことに気づく。
通行人の少ない通りに差し掛かったところで、両手をポケットから出してみる。ぐーぱー、ぐーぱー。なんだか別の生き物みたいに感じる。
どちらかというと自分の手は好きじゃなかったけれど、なんだかんだと一緒に生きてきた。右手と左手、愛しいふたごの相棒ができたような気がした。

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