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花のお江戸の新喜劇【23/03東京旅行記①】


夜通し働いた寝ぼけまなこで旅の支度をして、電車に乗りこんでから、ポケットにイヤホンがないことに気づいた。

取りに戻るか無しで過ごすか逡巡した結果、ヨドバシ梅田に立ち寄って新品のワイヤレスイヤホンを購入。音にこだわりなんてないから安いもので良かったのに、案外お値段するのね。
手痛い出費やなあ、と新大阪に移動しながらペアリングを済ませ、新幹線のなかで製品保証書を放り込もうとキャリーバッグを開いたら、家でお留守番しているはずのイヤホンがぽろりと出てきた。

い、いいもん。どうせ家用にもうひとつ欲しかったとこやし。
コンビニコーヒーで悔しさを飲み下し、使い慣れない新入りのほうを耳にねじ込んだ。意地っ張りなわたしの鼓膜を、アート・ブレイキーの裏拍が心地よく揺らす。


首都で過ごす3泊4日、なにをするかどこへ行くか決めていないけど、きっと面白いことに出会えるという根拠のない予感がしていた。


東京駅に着いたのはちょうど退勤ラッシュの時間だった。すし詰め電車に怯えてタイミングを逃し、2便見送る。むかし自分が、大縄跳びに入るのが苦手な子どもだったことを思い出す。


どこでも寝られる図太い神経の持ち主かつブッキング不精なので、ひとり旅の宿はドミトリーか大手ホテルチェーンで済ませることが多い。今回は前者で、錦糸町にあるかつて町工場だったというゲストハウスを、検索の一番上に出てきたというだけの理由で選んでいた。


チェックインを済ませて荷物を置いたら、遅がけながら、少し離れた繁華街で知人が経営するお店に遊びに行くつもりでいた。軽く腹ごしらえをして出発だ、とゲストハウスの階下にあるレストランバーの扉を開ける。とたんに店の奥にいた、60代の美輪明宏を全身真っ赤に染め上げたみたいなお客さんと視線が交わってしまった。ああ、どう見ても『目が合ったが最後』のタイプだな、よりにもよってわたし今日赤い服着てるし、とあわてて目を泳がせるが時すでに遅し、バチッ、と響くホールド完了音。

「あらようこそ、あなたこっちいらっしゃいよ」

あれよあれよという間にお隣に席がしつらえられ、その時点でわたしは知人の店に行くことを諦めた。

赤いソバージュ、赤いブラウスに赤いスカート、赤いパンプスといういでたちのその人は、赤い紅さす唇で「さっちゃんはね、」とわらべうたの歌い出しみたいにおしゃべりを始める。

さっちゃんはね、IT関係のお仕事してるのよ、見えないでしょう。関西に住んでたこともあるけど、今はこの近所で働いてる。みんな驚くけど、自転車で15分くらいかけてこっちに通勤してるのよ。さっちゃん、アクティブだからさ。モトクロスをやっていたらからだがぼろぼろになっちゃって、お医者様にもうやめなさいっていわれたんだけど、じゃあジェットスキーならいーい?って聞いたの、そしたら、舐めてんのかって言われちゃった、おかしいでしょ。あのね、さっちゃんはね、ワインに目がないの、ワインは飲んだくれちゃうのよ。

聞くまでもないな、と思いながら一応、赤ですかそれとも白?と尋ねる。答えはもちろん赤。うらぎらないなあ、と大喜びしていたら、気をよくしたさっちゃんが「ねえマスター、ボトルワインを頂戴よ!」と声高らかにオーダーした。

さっちゃんがお手洗いに立ったタイミングでこっそり、マスターが「引き寄せ体質だねえ」とわたしをつついてくる。最近よく言われるんです、それ。


1杯目が空いたころ、今度はくたびれたサラリーマンらしいお兄さんが店に入ってきた。グレーのスーツに黒縁メガネ、なんだか落ち着く彩度だ。あらヤマちゃんお疲れ様、とさっちゃんが呼びかける。ヤマちゃんは静かにわたしたちのテーブルに合流して、かっちりしめたネクタイを緩め、タバコをふかしはじめる。

さっちゃんがすかさずグラスをもうひとつ調達してきて、ヤマちゃんの前になみなみと赤を注ぐ。
「ヤマちゃん決めたの?名前」
「まだ。なんかしっくりこなくてさあ。女の子ってむずかしいんだよな」
「あら。もう期限ぎりぎりなんじゃなあい?」

聞けば1週間と4日前、ちょうどひな祭りの日に、ヤマちゃんのおうちには第二子が誕生したのだという。

「あんまり遊んでないでさ、ちゃんとおうちにいなさいね。さっちゃんもね、いつも嫁に叱られるんだから」なんと、さっちゃんにはお嫁さんがいるらしい。

それからヤマちゃんの、あんな名前やこんな名前、の悩みごとがこぼれはじめる。音や響きや画数はどうか、上の子と似た感じにしようか呼び分けやすいほうがいいか、女の子は結婚するから苗字との相性も気になるし、親の名前からひと文字取るのはどうだろう。いろんな漢字が俎上に載っては消える。まるきり部外者のわたしたちも、顔も知らない赤ん坊の未来を想像しながら、あれこれ無責任な口出しをする。

(名前というのは、親から子どもに贈る最初の手紙で、ある種の呪いだと思う。どんな人生を歩んでほしいか、何を忘れないでほしいか、親がいなくなった後も毎日、子ども自身や他人の口で繰り返し唱えられ、問いかけられる。)

2週間足らずの時間だけど、ヤマちゃんの愛娘の人生は、題名をもたないまま進行している。そして、ついに人生いちどきりの名前をお披露目と相成るわけだ。しばらく物語が進んでから、タイトルがスクリーンにあらわれる映画みたいだ。

いやあー、どうしよっかなあ。頭を抱えるヤマちゃんと、もう顔まで赤くなってきたさっちゃんと、3人揃っていただきます、とマスターいちおしのキーマカレーを食べる。



夜も深くなり、お客さんが増えていくにつれさらに会話の輪は広がる。
さっちゃんとわたしだけだった店内は、ひとり増えふたり増え、いつの間にやら宴会のようになっていた。生粋の江戸っ子のおいちゃんたちに、金色や銀色の髪をした大学生集団(法学部だそうで、これから司法試験を受けるといっていた、法曹界の未来はすくなくとも物理的には明るくなりそうだ)、誰かが連れてきたフィリピン人のお姉さんまで。もうなにがなんだかわからない、墨田区で突発的に発生するよしもと新喜劇。


おすすめの銭湯ありますか、なんて質問ひとつ投げ込めば、みんなパンくずに集まる池の鯉みたいにあれだこれだと大騒ぎする。ついにはおいちゃんのひとりがミリオネアよろしく、実家が銭湯の後輩にテレホン、なんてことにもなってしまった。夜中に変な電話がかかってきたどこかのどなたか、ごめんなさい。

時計の針がてっぺんで重なって、マスターの奥さんが伝票を神経衰弱みたいに並べたのを合図に、その晩はお開きになった。


江戸っ子たちに教わった近所の銭湯は午前2時まで営業していて、ありがたくお風呂をいただきながら、ようやくほっと一息つく。

こうしてわたしの小旅行は幕を開けたのだった。



最初の半日でこんな怒涛の情報量だもんなあ、タイトルにナンバリングはしてみたが、残りのことは、まあ、そのうちに。

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