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真夜中の消しゴム


年末年始の忙しない一日にすっかりくたびれた深夜、早く床に就けばいいのにヘッドホンで音楽を聴きながらこたつでうとうとしていて、ふと目が覚めたら細野晴臣のPLEOCENEが流れていた。

寝ぼけ眼に映る夢と現の境界がゆるんでほどけてにじんでいって、大きな暗くてあたたかい海に浮かんでいるような心持ちで、ばかみたいに気持ちよくて、思わずひとりで笑ってしまった。

それは小さなできごとだったけれど、わたしのなかにある薄っぺらな芸術の概念を変えるには十分だった。



疾疫のころ『エッセンシャルワーカー』などというぞっとしない名前で呼ばれた職業に就いていて、『不必要』への飢餓感から美術館やアートイベントを渡り歩くようになった。人がなぜ『不必要』を求めるのか、答えがあるなら教えてほしかった。経験に対しては吝嗇にならず、恐れず、食わず嫌いしないようにした。

そうしてなんだかよく分からないままに、アートというものは外部刺激によって自分の枠組みを知るためにあるのだ、と暫定的な結論らしいところに腰を据えることにした。感覚刺激が強いほど、交感神経が活発化するほど、心や感覚器官が傷つくほどに自己とそれ以外の境界は明確化される。芸術にふれることはまさに、その確認行為なのだと考えていた。現実に、当時のわたしにとっては少なからずそうであったのだと思う。乳幼児がなんでも触って舐めて覚えるのと同じように、心を病んだ人が自傷行為によって自己の存在を確かめるように、他にふれることで自の輪郭を知らなければならなかった。


あの夜のPLEOCENEが教えてくれたのは、感覚入力の刺激は魅力的で中毒性を孕んでいるが、しかしそれがアートの『不必要の必要性』の全てではない、ということだった。たとえば聴覚的な情報は、レイヤーが曖昧で鼓膜に優しいものほうが心を動かすことがあるし、嗅覚は既知の情報に好感を抱きやすい。皮膚に長くふれるものは、なめらかでやわらかく、体温に近い温度であるほうが良い。身体を緊張から解放し、環境と融合し、思考を鈍化するはたらきかけが、意図的に不特定の他者に対して行われる方法があるとしたら、それもまた『アート』とよばれて然るべきだ。


そうだ、アドレナリンがオフされていく心地良さなんてずっと知っているはずだった。わたしたちはきっと太古の昔から求めていた、母の腕の36.5℃や、西の水平線にさす陽光、愛猫のやわらかな毛並み、恋人の優しい声を。そういうもののはかない美を、繊細で鋭敏なアーティストたちが見逃すはずはないのだ。


脳神経の興奮をよぶものは、その力強いメッセージ性のゆえにコンテンツとして伝播しやすい。分かりやすく、色鮮やかで刺激的な情報に目を奪われてしまうわたしたちは、一方でそれらによって少しずつ体力を奪われているのかもしれない。

あたたかくて清潔でいい匂いのする場所で、目を閉じて、自分をぼかして、忘れて、沈みこんでゆく。存在を消すための道具は、線を描いて証明する力の陰に容易に隠れてしまうけれど、間違いなくひとつの美しさをもっているのだ。

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