弱く待つ
哲学者の鷲田清一は『「待つ」ということ』の中で、「待つ」ことの哲学的な意味について述べています。
待つことが難しい世の中になったとよく聞くし、よく言います。
LINEを送ればすぐにメッセージが返ってくる。
検索ワードを打ち込めば分からないこともすぐに分かる。
頼んだ商品はすぐ手元に届く。
自分が「やりたい」と思ったことが、即時に満たされる時代になりました。
欲求が満たされるまでの時差を、人は待つものでした。
しかし、サービスは即応的に、人々の果てしないフローを一瞬も遮ることなく、欲求を満たし続けます。
「じっとしていられない。何かをして時間を埋めないと、間がもたない。ただ待つだけという空白の時間が怖い。でも待つしかない。相手のいることだから。そこで想像力がその空白を埋めにかかる。というか、辛抱しきれないで蠢きだす。想像はどんどん膨らみ、そのたびごとに必死で抑えられ……ということが続く。ぱんぱんに張りつめたとき、その限界のところで、気がつけばひとはポストの前に、いや、もっと走って恋人の家の前に、佇んでいる。思いつめて、呆然と、立ち尽くしている。
待ちきれないというのは、そういうことだ。そういう濃い時間、煮えくりかえった時間が、携帯電話とともに消え失せる。待ちきれなくなる前に指が動くのだ。」(『「待つ」ということ (角川選書)』鷲田 清一著)
今やわが子の誕生ですらおそるおそる待つことはない、と鷲田は言います。
超音波をあてれば、生まれる前に性別が分かる。
ほのかに顔が分かる。
遺伝子が分かり、出生をじりじりと待つこともなく、いろいろ手を打てる。
教育にもその波は押し寄せています。
子どもが自分で試し、失敗し、落ち込み、気を取り直し、紆余曲折の果てに気づいたら成長していたというような時間のかかることはできなくなりました。
焦りがあるのでしょう。
人間をふくむ自然は、どこまでいっても意のままにならないものです。
偶然を待つ。
時が来るのを待つ。
流れを待つ。
そうした感性を失ってしまえば、人間の重要なことを見逃してしまう、と鷲田は言います。
では、なぜ待つことが難しいかといえば、待つことは辛いからです。
教育において待つことは、何もしないことを意味するのではありません。
流れを知り、子どもが目の前の壁を乗り越えることを信じて、ぐっと我慢する。
それは、来るかも分からない未来を信じて不安定な状態を過ごすことでもあり、辛いことです。
だから、多くの場合は「待ち切れ」ない。
子どもの身体の成長を「待ち切れ」ない。
子どもが自分で気付くのを「待ち切れ」ない。
子どもの失敗を「待ち切れ」ない。
では、「待ち切る」ためにはどうしたらいいのでしょうか。
不安な状態を吹き飛ばすくらいに子どもを深く信じ、「いつか必ず成長する」と強く強く信じ続ければいいのでしょうか。
そういう人もいるでしょう。
しかし、鷲田はそうではないと言います。
「いつか必ず成長する」という強い気持ちをもった瞬間に、こちらの心の枠組みが揺らぎ始めます。
そうすると、子どもの成長を「待ち構え」てしまいます。
「今かいまか」と待ち構える心は、力が入ってピンと張り詰めています。
緊張した心には、ほんのちょっとの予想外の出来事で、「本当にこれでいいのだろうか」という不安がスッと入り込んできます。
不安は大きくなり、「待ち」の姿勢は簡単に崩れる。
こうして、「待ち切れ」なくなって手を出してしまうのです。
ここに、待てば待つほど待てない、という逆説が生じます。
だから、待つときには待ち構えてはならない。
むしろ待つという意識もないくらいに、”弱く”待たなければならない。
鷲田のいう、「待つともなく待つ」という姿勢が生まれるのです。
「待たずに待つこと。待つじぶんを鎮め、待つことじたいを抑えること。待っていると意識することなくじっと待つということ。これは、ある断念と引き換えにかろうじて手に入れる〈待つ〉である。とりあえずいまはあきらめる、もう期待しない、じりじり心待ちにすることはしない、心の隅っこでまだ待っているらしいこともすっかり忘れる。ここでなおじたばたしたりしたら、事態はきっと余計に拗れるから。ひょっとしたら、「育児」というのはそういういとなみなのかもしれない。
ひたすら待たずに待つこと、待っているということも忘れて待つこと、いつかわかってくれるということも願わず待つこと、いつか待たれていたと気づかれることも期待せずに待つこと……。」
「手放すことによって手に入る」ということが、あるのでしょう。
しかし、教育におけるあらゆる介入を中止し、牧歌的な自然に戻れば良いのかというと、それも叶わない夢でしょう。
私たちにできるのは、「待つ」ことと「待たぬ」ことの無限のあわいの中で何ができるのかを考え、実践し続けることだけです。
「結局はバランスだ」なんて分かったようなことを言ってみるわけです。
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