図書館より公園のほうが語学の勉強がはかどるみたいに

映画を観に出かけるついでに、外で語学の勉強をしようと思い立つ。図書館にたどりついたが席が空いておらず、出てすぐにある公園のベンチに落ち着いた。陽射しも弱まったころで、気温もちょうど良く、心地よい場所を見つけることができた。いざ始めてみると、屋内ではできなかった発音の練習がここではできることに気づく。人通りもまばらの公園でひとりで外国語をつぶやきながらテキストとにらめっこ。もっともひらけた空間にいるのに、まるでプライベートな場所にいるような気がしていた。

どうしてそんなにリラックスできているのかと身体にきいてみると、”壁が無いから”だという。壁があると、自分の声も他人の視線も全方向から反射して私を差す気がする。他人の視界に自分が入ることも、通りすがる人たちの声がこちらにの耳に入ることもあるが、それぞれ図書館にいた場合に刺さるそれとはぜんぜん違ってやわらかい。壁によって区切られた空間にいると、そこにひとつのコミュニティができる。名前もどこからきたのかもまったく知らずとも、そこにその人がいる感じを常に目の前にしている感覚から離れることができない。たいして外にいるときは、そこに居ることと「出ていく」ことのあいまいさ故に、身体が半分だけそこにあるようである。うすくそこにいる他人のうすくそこにいる自分へのうすい視線にしかさらされないから、パブリックな場所でありながら他者を気にせずリラックスできる。

そして風が吹いているということ。なにか音を発してもそれがどこかへ流されていくようである。そもそもその風や他の音に自分の音が紛れるからでもあろう。だが音の話だけではない。風にさらされていることで、そこにいる人の存在じたいがゆらめいているかんじ。壁に囲まれた空間にしっかり身体を据えることがなんだか急にだるく窮屈に思えてきた。

途中、ランニングをしてきた女性がとなりのスペースで休憩をしていた。密室ではないのでふたりきりというわけでもなく、かといって互いを同じ場所にとどまる存在としてどこかで意識しあう(むこうの意識はわからないが)ようで妙な感覚だった。風に吹かれてにじみ出たそれぞれの香りにもならない空気がほんのり混ざり合うようだった。

壁のない空間にいる場所にいるとき私たちは、無限に広がる空気にのせて、自分の身体を遍在させているのではないか。まちを歩いているとき、空の下では他人と他人が無関心でひとりぼっちである。その理由を今は、そこがたいてい知らない人どうしがすれ違う場所であるからとは決めつけきれない。

そこを去る前に、図書館に寄ってみた。そこに居る人たちの目的の強さからくる無関心さと圧倒的な静けさはやはり身体と脳に集中を強いる環境としてすばらしいものだとよくわかった。あと本がたくさんあるのも良い。でも壁に囲まれているというだけで、他のひとの存在や視線やそこにあるその他もろもろが色濃くてもはや息苦しい。過ごしやすいこの天気が続くうちに、またお外でテキストを進めていかなければ。

公園や河川敷にとどまって何かをすることが好きな理由が、声を出してみることでわかった。活用形はまたすぐに忘れてしまうだろうけど、この感覚はずっと携えていくだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?