閲覧席を時間内に立った人がまだそこに「居る」みたいに

暑さをしのぐため、日中は図書館に入り浸っている。机のついている閲覧席を予約し持っている本を読んだり、新聞を読むためのでかい机しか空いてなければそこで新聞を読んだり、そこも空いていなければ背もたれのないソファでその館で見繕った本を読んだりしている。飽き性なので家の近くにあるいろいろな図書館を周っている。

その日行ったところは日曜日だったので老若男女で賑わっていた。新聞・雑誌コーナーは高齢者が多く、手続きが必要な机付きの閲覧席は、夏休みの宿題をこなしに来ているらしい子どもが大半を占めていた。部屋に冷房がなくて来ている貧乏人に席を譲ってくれよと思わないでもないが、季節感を楽しむことにする。その日に読んでおきたい本があったので、「この席は図書館の資料を読むための席です」と書かれたエリアを避け、以前は相談コーナーが設置されていたらしき、パーテーションで仕切られたエリアに置かれた椅子に仕方なく腰を下ろした。カウンターからは見えるけれども、通路や奥のスペースには開かれていない「路地裏」みたいなところに身を置いてどこかやましい気持ちがわいてくるけれども、税金はしっかり(ふるさと納税などせずに)払っているから文句はないだろう。

予約制の閲覧席を求める親子がやってきた。その日私の耳になんども入ってきたように「満席ですが空席待ちの予約をすることもできる」旨をスタッフが説明する。一旦は受け入れた親だったが、奥の方にある閲覧席を見に行った後戻ってきて「空いてるところがあったんですけど」といちゃもんをつける。時間内に退席したのに手続きをしない人がいるとそういうことになると説明するスタッフ。そこから先どれくらい食い下がっていたのかはよく聞こえなかったが、先に予約してる人もいるだろうからその子がすぐに座れるようになるなんでことはもちろんなく、諦めてどこかへ去った。しょうがないとは思うが、親御さんのイライラも共感する。すべての席に、時間内に退席する場合は必ず手続きをするよう注意書きがされているのだから、それを無視して満席の閲覧席を後にするのはだらしがなくて思いやりがない。退席手続きがない以上戻ってくるかもしれないから館側で取り消すこともできないのがもどかしい。

その座席の奪いあいにまったく無関係な私でさえ、閲覧席を使いたいのに使えない親子と同じ憤りを感じていた。それはそこが図書館だったからに他ならない。図書館は、資本主義が進んだこの社会に残された数少ない"居るだけ"が許させる場所だ。森が拓かれ建物が出来て、住宅や店舗といった誰かの資産になった結果、そういう「ところ」は金と引き換えに分け与えられなければそれを得られない「もの」になってしまった。ショッピングセンターやスーパーのような買うための場所も一応居るだけのことができるけれども、居心地が悪い。そういう場所も昔はもっと座るところがあった気がするけれども、新しい商業施設ほどそういう場所は置かれなくなって、所狭しと店を置いている。

公共施設だって、公民館や市役所に憩いの場は置かれない。そのなかで図書館は、本を読む場所という名目はあるけれども、資料を持ち込んで勉強するための利用が許されているから、純粋に居ることが許されている。いちおう税金は払っているわけだけれども、それは暮らすためのさまざまなサービスのためのお金で、居ることと引き換えてはいない。なんなら、税金を払っていない自治体の図書館にだって居座ることはできる。

そういう誰でも平等に居られる図書館だからこそ、結果的に誰かを追いやっているその人のことが許せなくなる。退席手続きをしないで出ていった人は、体を2つもっている。本当に彼または彼女がいるところと、データだけ「居る」図書館と。誰にでも与えられたひとつの身体で頑張っているのに、ずるをしてそれを2つにして他人を押しのけることは、公共の理念に反する。"誰でも居ることができる"のは、みんながそれをひとつ分しか使えない公平さに保証されているからだ。ルールを守るべきこととは別に、自分と他人が生きている場所とのかかわり方を、無キャンセル退席をした人にもう一度考え直してほしい。

宿題を済ませに来た子どもたち、最新の世の中を知りたいご老人たち、赤ちゃんの名前辞典を開くお腹の大きい女性……。市井を生きる人であれば誰でも平等にそこに居られる場所であることを、日曜昼間の図書館は思い出させてくれる。誰とも繋がっていないけれども、確実にここが居場所だと思える場所。そういう図書館が残っていってほしい。

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