固い椅子の上で向き合ったみたいに

今日知り合いとお茶をしたお店の椅子が固かった。固いだけでなく、座面が浅くてすぐ後ろが壁だったから、ものすごく窮屈だった。そこがれっきとしたカフェではなく、イートインスペースもあるチーズケーキ屋だったからしょうがない。だがそこで結局2時間半も話してしまった。座り心地の悪さが気にならないほど溶け合うような時間だったわけではない。斜めを向いて深く座っているように感じられないか、足を広げて前を向いてはどうか、尻の下に手を敷いてはどうか…などずっといちばんいい座り方を模索していた。

あまり気を遣えなかったが相手も同じ材質の椅子に座っていたから、長く付き合わせて申し訳なかったなと思う。しかも相手の方には背もたれがなかったから、また別の辛さがあっただろうなと思う。

その人をお茶に誘ったのは、悩み相談というか、他の人にわかってもらえないだろう話をその人ならどこかわかってもらえるかなと思ったからだ。ぜんぜんソウルメイトというわけではなく、むしろ前回は自分と違う価値観をもっているであろうその人への興味から同じようにお茶に誘い、結局半分インタビューみたいな感じで解散した。でもその時、共感できる”生きづらさ”があって、ある映画をみてそれが言語化できたから、映画の話を口実に「あなたの味方ですよ」と言いたくて誘った。

「私たち生きづらいよね」と話し出すのもおかしいから、うまいこと映画の話からスライドしていくことができた。「映画の話をしよう」と集まっていきなり「あの映画さ」と話すのもぎこちないと思ったから、「昨日見た映画にもあの人出てたんだけどさ」と自然かはわからないがスマートに”合流”できたと自分では思っている。こちらから話したかったことを最後の最後になって話したら「気持ちはわかるけど、わたしならそうはしない」と言ってくれた。背中を押してもらったけど、期待していたよりはるかに弱い力だった。でもそのときもたれていた壁のおかげもあってか、また背筋を伸ばして歩いていける気がした。

彼女の生きづらさと自分の居心地の悪さ、違うけれども同じ椅子の上にいるからこそ抱えているものだなとわかった。手をつなぎはしないけれども、彼女と同じ世界のなかで歩いていくのだと。「あなたがいるから私もまだ戦っていこうと思う」と心理学を学んでいた彼女なりのリップサービスかとも思えるくらいうれしい言葉と、食べる場所でしゃべり続けてしまったお詫びをかねたケーキを持って帰った。

一番いい座り方は結局見つからなかった。彼女の目の前にずっと座っているのが決していちばん良い状態ではないのだ。座り心地が良くはないけど、またここに座りに来なければならないときがきっと来る。来たら呼ぶと約束して踏切の奥にその人を見送った。いや、見送らないですぐ振り返った。

恋人でも仲間でもない、「味方」と思ったけど探ってみるとどうやら少し違う二人の関係に名前をつけることができた。「同じ材質でできた違う辛さの椅子に座って話す仲」。大切な人がまた一人増えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?