返ってこなくてもいいから渡せる手紙みたいに

今度お世話になった目上の人に手紙を書くことにした。その練習という名目で親しい人に書いたものを今日渡した。書きたかった気持ちが先か、その名目が先かはもう忘れてしまったが、渡した事実だけがこちらの手元に残っている。

「やらなかった後悔よりやった後悔」を信じてやってみたものの、やった後悔って意外と重い。引かれないように言い訳がましい文章になってしまったし、書き終えてみたら何を伝えたいかわからないものになってしまった。向こうもそれを持ち帰って開いているであろう今音沙汰がないのだが、その人が「手紙ありがとー」などどよこしてくる無粋な人間でないことに安心しつつ、中身を読んでドン引きしてしまったのではないかという心配でいっぱいいっぱいである。読み方によってはラブレターととられてしまいそうなことも書いたような気がするが、受け取りたいように受け取って反応したいように反応してほしい。もしあそこにしたためた気持ちがラブだと解釈してくれるのなら、此方があげたいものと彼方がもらいたいものが一致しているわけでハッピーなことではないか。いや、むしろ次会うころには忘れてしまってくれるくらいがありがたいかもしれない。何か二人の関係に変化をもたらしたいとか気持ちを教えてほしいとかそういう言葉は直接はまったく書いていない、”無視しやすい”手紙がうまく書けたと思う。じゃあいよいよなんのために書いたんだというところに結局帰ってくる。

考えれば考えるほど恥ずかしいことをしているような気がしてきた。このメッセージのやりとりを知っているのが自分と相手しかいないであろうことがまだ救いで、その証人が手紙現物以外にないことは安心できる。むしろその渡す渡されたの関係構築が、現代における手紙というメディアの本質なのではないか。

少なくとも手紙をあげたことのない人からあげたことのある人になったことで、これまでよりこうして「メディア」について偉そうに考え語る資格を得たのでよしとする。


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