桃が「腐る」のを待って食べるみたいに

ごみの収集日を逃してしまって溜まっていたところに、さらに次の収集日も祖父の葬式で家を空けなければならず、一週間以上もごみ箱の底に生ごみを放置する始末に。臭いを案じていたけれども、ごみ箱を開けてまず刺激されたのは視覚のほうだった。私が一日半触らないだけで、そこにひとつの「家」ができていた。その光景をみたのは初めてだったのだが、その光景を言い表した言葉には心当たりがあった。捨てたごみが”死んでいく”のを想像していたけれども、そこにたまに新しい命が”生まれていく”とまでは思い及ばなかった。自分が居なくても部屋のなかには時間が流れているのに情緒を感じたかったところだけれども、その光景を見てまっさきに口から出た「最悪...…」が本音といったところだ。虫たちは”いい香り”だからここに集まって、待望の家族を築くことができたところ申し訳ないけれども、ここは私の家だ。心待ちにしていた次の収集日に袋は捨て、家となってた箱も思い出ごとシャワーでさっぱりさせてもらった。

その週末八百屋に行ったら、桃が並んでいたので買って帰った。ひとつ剥いて食べるとまだ甘さが足りない。そうだ実家でも桃は買ってから少し置いて食べていた。じゃがいもと玉ねぎと同じ袋に入れて熟すのを待つ。放っておけばごみ箱に虫がわくくらいの環境だから、桃も同じくらいしっかり「腐る」ことができるだろう。

熟すも腐るも、”生き物のなかに流れる時間が進む”ことに変わりはない。それを言葉を使う側が決めたピークで区切って使い分けているだけに過ぎないと、腐ると熟すが同時に進んでいる部屋で思う。私たちが腐ったと思っている生ごみが、ちょうどよく熟したと感じたコバエたちがそのユートピアに集まっている。私はぐじゅぐじゅになった桃が好きだからわざわざ時間をおくけれども、固いのが好きですぐに食べてしまう人もいる。

そういう時間が止まるところを目の当たりにしたばかりだからそう思う。人が死んでもまだ時間は止まらない。命が終わっても体の色はまだ変わっていく。焼かれた灰を見たとき、モノクロの写真に焼き付けられたみたいに時間が止まったのを感じた。その葬式で会ったまだ生きている人たちの体はまだ時計が進んでいて、どんどんうまく機能しなくなっていく話をきいて、より人の身体を流れる時間を意識させられた。私が昔食べられなかった野菜を食べられるようになってきたのも、成長ではなくて味覚が鈍って苦手な味を感じなくなっていくかららしい。そしてそういった腐敗のさきに、体にメスを入れたり内臓をいじったりする必要が出てくるとおもうとこわくなる。でも野菜を食べられるみたいに、できることも増えていくかもしれない。そういうことも心や頭が何かを感じなくなっていくからなのだとしたら。私が熟すのはいつだろうか、それとももう腐り始めているのだろうか。どうせ捨ても食べもしないから、放っておくことにする。


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