毎週月曜と木曜の可燃ごみの日が待ち遠しいみたいに

「可燃ごみの日の朝は、早起きをしなければいけないのでうっとうしい」気持ちにごみ箱が空になる快感が勝って、毎週二回苦しむことなく早起きができている。以前何度かごみの日を逃して虫がわいてしまったときのあの光景を二度と見たくなくて習慣づいたけれども、いざやってみると捨てて部屋にごみがなくなったときの快感にしびれた。髪を切ったときのような、身の回りに起きる劇的な変化のまぶしさ。またごみを溜めていける余白ができた未来の見通しの良さ。いろんな種類の”まっさら”さが数日に一回訪れるのがうれしい。

日々生きていくなかで感じているどんな快感も、こんなふうに”まっさら”になることからきているのかもしれない。食べたくなったものを食べておいしかったと感じることは、口の中に食べものを取り入れなかった気持ちが生まれることのようで、「食べたいけどまだ食べられていないままならなさ」を、ねがいを成就させることで「捨てて」いるのかもしれない。誰かに会うことだって、その人との時間を得るというより「会えなかった時間を終わらせる」ことにも思えてくる。わずらわしさからまっさらになったことが気持ちよくて、何度も繰り返すのかもしれない。

いや、そういう「捨てたいもの」(=欲求)は、(ストレスみたいに”捌け口”を探すべきと感じていないものでも)持ちたくて手に入れたものではない。食べたいと思うのは、テレビでその食べものを見たりそれが話題にあがったり、受動的な心の動きである。誰かに会いたい気持ちも、その人に用事ができたり話したい出来事が起こったりしてのことだ。欲しくて手に入れたわけではないけれど、どうしても手元にやってきてしまうものだ。ただ真っすぐ命をつづけていくだけで、必要なものについてくる袋や包み紙が残っていく。

これを書いている途中で「大きいほう」を催して、それも”仕方なく持っていていつかは捨てていくもの”だと思ったけれど、いつでも消化できる目先の欲望の話ではないから、決まった曜日までとどめておかなければいけないごみの話をやっぱりしていると思う。さらに、結果的に排泄されるものでも私たちは必要なものとして取り入れている。わたしたちが捨てている「ごみ」はそういう”必要だと思ったもの”でもない。純粋な食欲・睡眠欲・性欲についてくる、”何を”や”誰と”、”誰に”みたいな要素ははっきり言って生きていくのに必要はない。そういう「包装」としての欲求でもわたしたちはやはり一度持って帰らなければいけなくて、そしていつか捨てていかなくてはいけない。

会いたい人に会う予定がある。前からしてみたかったことをできる日が決まっている。今週の木曜日にまた私は可燃ごみを捨てる。そして少しずつ溜まっていく不燃ごみもいつか捨てに行かなければいけない。面倒だけれど必要な、いろとりどりのいくつものことでわたしの未来はパンパンだ。


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