売り子がいつも通り注ぐビールがひと夏の思い出としてのどごすみたいに

1年ぶりに野球観戦に行った。子どものころ親の帰りを祖父母の家で待っているときテレビの中継で見ていた、夏の時期にナイターゲームが始まるころの空がとても好きで、たまにどうしようもなくスタジアムに行きたくなる。それで去年もこの時期、5回裏に打ちあがる花火を出しに使って友達を誘った。職場では毎年、野球ファンの人が同じように花火を使って野球に興味のない同僚たちを誘ってほぼビアガーデンがわりに球場を使うイベントがあり、今年は誘われる側となって参加した。

私にとってたまにしか行かないイベントで、季節も相まって完全にお祭り気分で行くのだけれど、試合はほぼ毎日行われていて、選手にとってもスタッフにとってもこれが日常なのだなと、なぜか今年は余計なことに思い至ってしまった。去年は延長戦までもつれてそそくさと帰ったけれども、今年は残塁が少なく試合が早く終わり、そこから少しスタンドにとどまってホームチームの応援団が勝利を祝うのを見ていたら、出ていく頃にはグッズショップやビールの売り子が片づけをはじめていた。接客のともなわない、完全に祭りの後の「労働」をする姿を目の当たりにして、一気に日常に引き戻された。そうでなくても、試合中からたびたび登場するチアリーダーの方々の出自が気になってしまったし、応援団の人たちの昼間の様子とかも気になってしまう。大人になって自分で生計をたてるようになり、まだそれが当たり前として染みついていないからそんなことを思ってしまうのだろう。

球場に集まるのは、選手・スタッフや応援団のような”いつもいる人”と私のように祭りを楽しみ来た人との2種類だけではない。ファンについても、毎日観戦に来ている熱狂的な人から、忙しい合間を縫って行ける日はとことん球場で過ごす人、月に一回くらいは来る人、初めて見に来る人まで、その日球場にいることがさまざまな濃さの意味を持っている。周りを見渡さなくたって私の一団を見れば、主催者は職場の人を誘わず自分で応援しにくるぐらいのファンで、他は職場の催しのたびに毎年参加している人、数年ぶりに参加した人、初めてスタジアムに来た人のようにその日がいかに特別かは異それぞれだ。フィールドのなかの選手だって先発投手は数日に一回の出番なのに対して、スタメンの野手は毎日のように試合に出ている。そういえばヒーローインタビューを受けていた選手は、ケガからの復帰で久々の出場だったらしい。

球場は、そういう濃淡ある”ハレ”の空気がないまぜになっている場所として特別な場所である。毎日やってるわけではない音楽ライブやお芝居は、見に来る人も出る人もその日を特別な一日として待ち遠しくまたはなんとか乗り越えようと思うだろう。普通の飲食店は、常連にとっても初めて来た人にとっても食事という日常の一部をこなす場所であり、高級であればきっとみんな特別な時間になるだろう。高級料理店やテーマパークのような非日常の空間を日常的に利用する人もいるかもしれないが、かなり特殊でサービスを与える側もあまり想定していない客だろう。

野球に限らずリーグ戦を年中やっているスタジアムが特殊なのは、その始まりから終わりまでの数時間ひとつのボールに視線が集まり、終われば一斉に散り散りになるそのメリハリある時間が日常的に流れていることだ。試合時間中の熱狂ぐあいは、夏祭りに並ぶような屋台メシのにおいも手伝って財布のひもを緩めてしまう。一年のうちにひとときだけ祭りの日が訪れるハレとケの時間感覚を一日のうちに凝縮させてしまっているのがスタジアムという場所だ。

引っ越して家が近くなった私は、自転車で球場まで行った。駐輪場に並ぶたくさんの自転車は毎日のように通っている熱狂的なファンのものかもしれないし、私と同じように近くの祭りを見に来る感覚の人かもしれない。逆に、わざわざ遠くから毎日応援しに来ている人もいておかしくはない。どんな人であれ、プレイボールから最後の1アウトまで同じところを見ていたあの時間が夢のような祭りの時間だったことは変わらないはずだ。

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