もらって二週間以上開かれなかった手紙に書いてあった言葉みたいに

二週間以上ほど前にもらった人からの手紙をずっと開けられずにいた。それはその人との関係が揺らぐようなことを知ったこととは別に、単にビビッていたからと思う。返事をくれた以上悪いことは書かれていないだろうし、相手にとって自分はとるに足らない人間だとわかったから、逆にドキッとするようなことも書かれてはいないだろうことはわかっていた。でもふわふわと描いていたものがはっきり形になって目の前に現れてしまう怖さは、それが両掌におさまるほどの封筒から放たれるパワーではなかった。”封を開ける”能動的な行為にこんなにカロリーがいるとは、普段どれだけ自分が受動的に生きているかを思い知らされる。開けることはもはや渡すのと同じくらいの負担に感じた。

「開けるぞ!」と意気込んではドキドキしてどうにかなってしまいそうなので、机の上を片付けるついでに、①封筒を留めているテープを剥がす、②中身を取り出す、③山折りを開くを少しずつ段階的にしていった。

こちらが思ってほしいことを思ってくれていて嬉しいなぁとか、自分はそういう風に映っているのかとか、もしかしたらそもそもこの人はそれほど私に興味がなかったのかもしれないとか、目で見る言葉は音で聞くよりずっと多くのことを想像させる。内容うんぬんを抜きにして、この体験が楽しかったから、渡してしまったことへの後悔が薄まった。

いつ読んでも内容は変わらないので次会う前に読んでおけばいいかと思っていたが、追伸に書かれていたおすすめの映画が今週中までだったので、今開けてよかった。感想を聞きたいと言われたのに「観に行ってない」は不義理だし、読んだのが上映が終わってからだとバレてビビりを露呈するのも嫌だった。思いの言葉はむしろ熟成させて読んだ方が味わいあるのではくらいに思っていたが、情報には賞味期限があるのだと勉強になった。

渡してよかったし、開けてよかった。次も用意してしまおうかと考え始めている。総じて緊張と後悔みたいな強いネガティブな感情があったのに、今こう思っているということは、けっこうこれはジャンキーな戯れなのかもしれない。


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