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メンバー自己紹介① 吉冨 生楽 part1.

はじめまして!

まずは簡単なプロフィールを紹介させていただきます。

  • 名前:吉冨 生楽(ヨシトミ オウラ)

  • 年齢:20歳(現在大学生)

  • 出身:兵庫県宝塚市

  • 家族構成:母,父,姉3人,猫,蛇

  • 血液型:A型

  • 趣味:音楽,読書,コーヒー,

詳しいことは幼少期の頃の話や,Alquestに加入するに至った経緯などと合わせてお話できたらなと思います。

・~保育園(7歳くらい)


三歳。珍しく満面の笑みです。

僕は兵庫県の宝塚市で生まれ育ち,小学生の頃まで三人の姉と父方の祖母の六人で暮らしていました。また父とは小さい頃に別居していたため,我が家は完全な女社会でした(ペットの猫までもメス)。

僕が保育園に通っていた頃,母は朝と夕方にすべての家事を終わらして,昼も夜も働きに出ていました。
ただでさえ子供が四人なのに加え,次女は女性では珍しい重度の自閉症,さらに祖母は左半身不随の要介護状態だったため今思うと想像できないくらい大変だったと思います。
ちなみに,母が仕事に出ている間は長女が下三人の面倒を見てくれていたので,今でも長女は半分お母さんのような存在で,話すときはちょっと緊張します笑

そんな生活が始まり四年がたった頃,僕と母の体調に異変が起き始めました。まだ小さかった僕は,毎晩母が仕事に出ていくストレスに耐え切れず,
夢遊病やチック症の症状が出てきたそうです。母が仕事でいない夜は,母を探しに家中を歩き回っていたそうで姉も正直怖かったと言っていました。

僕は昔から今自分がしんどいのかが限界が来るまで分からなくて,急に体調を崩してしまうことがたまにあります。
小学生の頃に「よし!今日は仮病をつかって休もう!」と思い立った日も,すぐ病院に連れられてしまって「やべぇばれる」と焦っていたんですが,なんと本当に熱があってインフルエンザにかかっていたということもありました笑

夢遊病やチック症もそうですが,自分は意識がない状態なので全く覚えていませんし,そこまでストレスがかかっていたことも気付いていなかったんじゃないかなと思います。
ただ,小さいながら母の迷惑にならないようにしないとという気持ちがあり,必要以上に人に気を遣う癖がついてしまったのはこの時期なのかなと思います。(どうしても抱っこして欲しいという気持ちが我慢できず,枕もとで泣いていたこともあったみたいです笑)

そしてこの時母は既に躁鬱状態となってしまっていたようで,とうに限界を超えていた状態でした。日常の記憶が断片的に飛んでしまうような状態だったらしく,この時期に友達の結婚式に参加していたことを,つい最近写真で見て知ったそうでとても驚いていました。
本人は超がつくほどポジティブなので,「人間限界が来たら記憶も消せるなんててすごいな…!!」なんて言っていましたが全然笑えません笑

それからはしばらく母と僕の二人で心療内科にカウンセリングを受けに行っていました。

これくらいの時期から母はいったい自分は何のために仕事をしているのか、そして何をするべきなのかをもう一度自分に問い直したそうです。

そして生活は苦しくなるけれど,仕事を半分減らし家族と一緒にいる時間を増やすという選択をしてくれました。

夢遊病やチックの症状も母の体調も少しずつ落ち着いてきました。


・小学校時代

入学式。今とあんまり変わってないですね笑


小学校は1学年30人しかいない小さな小学校に通っていたのですが,男子は8人しかいなかったため喧嘩をすればいとも簡単に8人が分裂し,終まいには1対多の「ただのいじめじゃねーか笑」みたいな今考えると笑ってしまうような光景が日常茶飯事でした。
当時正義感が強かった僕はそういった現場に助けに入ったり,仲間外れにされている子がいればその子と過ごしたりしていました。しかし誰かを助けて喧嘩が起きた時は大抵,助けた人はみんなの前では息をひそめてしまって,気づけば1側だったが多かったです。

そんなことが何回か起こった小学三年生の頃。
当時僕は,そろばん,習字,ピアノ,空手,体操,テニス,などありがたすぎることに,山のように習い事をさせてもらっていたので学校で習うようなことは大抵一番を取ることが出来ました。
なので勉強面でも人間関係でも,なぜ学校に行かなくてはだめなのか,友達とは何なのかという疑問がどんどんと膨らんでいきました。
そしてついに「学校ちょっとの間休ませてくれない?」と上記のように母を説得してみました。
母は「休んでもいいけど多分学校行くほうが楽やで?」と,大量の宿題(1週間でドリル1冊×全教科 +α)をこなすという激やば条件付きで許してくれました。そして僕はその条件を飲み学校に行くことをやめました。期間は確か二か月くらいだったと思います。
今思えば母は普通の人と違うことをすることの大変さを教えたかったんだろうなと思います。
母は「しんどいからやめる」は絶対に許さないけれど,理由さえ納得出来れば認めて責任を取ってくれる人です。

その二か月間は水族館に行って一日中一匹の魚の絵を描いたり,眠くなるまで好きなゲームをしたり,一日中将来どんなことがしたいのか母と語り尽くしたり…
興味の赴くままたっぷり時間を使いました。
この期間を境に人とのトラブルは極端に少なくなりました。
自分だけと向き合うことで,気を遣いすぎるあまり他人に干渉しすぎていたことに気が付くことができたため,対人関係においてのライン引きみたいなものが少し出来るようになったのかなと思います。
良くも悪くも人に対してドライになるという選択が出来るようになりました。

小学生の頃に描いた絵。色弱なのもあって白黒で書くことがほとんどでした。

・中学時代 ~「音楽」との出会い~ 


進学した中学は吹奏楽の全国常連校として有名で,ピアノをやっていた僕は割と軽い気持ちで流れるように入部しました。
案の定,初めの一週間を終えた頃には後悔していましたね笑
肺活量を鍛えるための腹筋や腹式呼吸を学び,そして何時間も顧問に監視されながらリコーダーを吹かされる。そんな毎日が数か月続いた末に決まった僕の楽器は
「コントラバス」という弦楽器でした。
「何の時間やってん!!!」と盛大なツッコミを大先生にかませるわけもなく,僕はコントラバス奏者になりました。
中学校の吹奏楽全国大会は全国の7000弱の出場校からわずか30校しか出ることが出来ない倍率200倍越えの狭き門です。普通の練習をしていてはそのような大会には出られるはずもなく…効率がよく,さらに密度の濃い練習を求められます。
そのような活動の中で僕が辛かったのが「音楽を我慢しなければならない」事と「厳しすぎる上下関係」でした。
一つ目に関しては一日中音楽を練習しているのに?と意外に思うかもしれませんが吹奏楽コンクールはあくまでも「団体戦」なので,一個人が関係のない曲を弾いていて真似する生徒が出てきては部としての効率は悪くなり全国大会への出場は厳しくなります。少し大げさに思うかもしれませんが集団で音楽性を合わせるというのはそれだけ大変なことなのです。

「厳しすぎる上下関係」なんですがこれは吹奏楽部あるある?かも知れないですね笑。うちの学校は目上の人が視界に入った瞬間どれだけ遠くても特大の挨拶をかまさなければだめだったり,さらに前や後ろを通る時には「失礼します!!」と大声で一礼してから通らなければいけませんでした。確かにこのように徹底した上下関係があれば規律正しく,コンマ何秒のずれもなく指示通り演奏できるかもしれませんが,緊張からか先輩や後輩とのコミュニケーションもままならないことも実際にありました。
「部としてどうあるべきか」ではなくてそれぞれの音楽観だったりについて語り合う時間が好きだったので,個人的に中々辛い仕組みではありました。

仲間のおかげで全国大会に出場させていただくことはできましたが,僕の奏でる音楽の魅力は乏しかったなと思います。確かに技術や知識はこれ以上ないくらいの環境で学ばせていただいたので本当に貴重な経験だったなと感じてますが,今思うと中学の三年間は「音楽」をしているとは言えなかったなと思います。
ただこの期間に培ったものが後々「音楽」をしている実感を感じるためには必要不可欠なものでした。。。

二年生の全国大会。



今回はここまでにしたいと思います!
次回part2は僕の高校時代,浪人期,そしてAlquest加入のきっかけについて話していこうと思いますので是非ご覧ください!

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