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ルイス・フロイス(再)

以前投稿した記事ですが、備前鑑定の古陶磁鑑定美術館さんがルイス・フロイスに関する逸話も含めて興味深い記事を投稿されていましたので合わせてご紹介したいと思います。

「フランシスコ・ザビエル」はキリスト教を初めて日本に伝えた宣教師として歴史の授業で習い、あの両手を胸の前で交差している写真は誰もが教科書で見ているのではないかと思います。

けれども同じポルトガル人のイエズス会司祭である「ルイス・フロイス」のことはあまり詳しく知らされていなかったような気がします。
私が単に忘れていたのかもしれませんが、イエズス会創設者のザビエルを師と仰ぐフロイスは、インドのゴアでザビエルと日本人ヤジロウに会い、その後34年間日本で過ごし長崎で亡くなっています。

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フロイスがイエズス会から課せられたことは布教活動の他に日本における布教史である「日本史」の執筆でした。

来日当初は足利義輝、織田信長などの最高権力者と接触し布教許可と援助を得ることを目的としていました。

フロイスは文筆の才能が認められてイエズス会本部への報告者や書簡の執筆をしており、日本語にも堪能で通訳なども務めていました。
その後「日本史」の執筆も命じられ死去するまで主要な職務としていました。
残念なのは出版される前に亡くなってしまったことです。

「日本史」は16世紀の日本を記す史料としてとても興味深いものでした。
フロイスは織田信長より2歳上で豊臣秀吉より5歳上、そして秀吉より1年早く亡くなっているというほぼ同時代を生きた人物です。

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信長や秀吉の記述も詳しく、当時の日本でも側近しか知り得ない高度な情報も収集されています。
また、信長がキリスト教に寛容な態度を示していたため比較的信長の人物像を好意的に書いていますが、対照的にキリスト教を弾圧した秀吉に関しては非常に厳しく描かれています。

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フロイスは最高権力者ばかりと接触していたわけでなく、当時の日本社会を構成する様々な人々と接触し日本社会を観察していました。
書法、書物、紙、インク、書状、かな文字、縦書きで右から左へ書く、筆を使って墨を擦ってインクにする、50種くらいの紙がある、ほとんど手写本であることなど細かなことまで書かれています。
このようなヨーロッパとの違いを詳細に記述できたのは、日本の習慣や文化の細部まで優れた観察と理解がなければできなかったことと言われています。

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「日本史」の原稿はマカオのサン・パウロ教会の書庫で長く眠り続けた後、1835年の火災で焼失してしまうのですが、複数の写本が作成されていたことで当時の形は留めていないとはいえ分蔵されています。

「日本史」はフロイスが亡くなってから400年もの時を経て二人の日本人研究者によって蘇りました。(歴史学者 松田毅一、言語学者 川崎桃太)
編年史部分についてはほぼ全ての写本を見つけ出して翻訳して、日本語の訳注本として刊行されました。

フロイスの功績は素晴らしいものでむしろザビエルよりも詳しく歴史の時間に勉強したかったと思うほどでした。

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他の著書でも
「ヨーロッパでは言葉の明瞭であることを求め、曖昧な言葉は避ける。
日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉で、もっとも重んぜられている」
などと書かれており、これも日本を熟知していることの一つだと思います。

また、ザビエルに日本の布教活動を思い起こさせた日本人ヤジロウのこともあまり歴史の授業では触れられなかったような気がします。
この人がいなければもしかしたら当時日本の存在を確信できなかったのではないかと思います。
ヤジロウ(アンジロウ)は罪を犯しポルトガル船に乗ってマラッカに逃れたと言われています。
元は海賊であったとも言われていますし最初のキリシタンとも言われています。
またそのポルトガル船の船長がザビエルを紹介したそうなのでそれも大きな偶然です。

出生やどんな生涯を送ったのか不明なのですが、ザビエルに人柄を認められて日本の布教活動を決心させたようなので、ザビエルやフロイスを連れてきたと言っても過言ではないのではないでしょうか。
どちらにしても歴史を変えた人物であったことは確かなことだと思いました。




#日本史がすき


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