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車窓を求めて旅をする⑤ 城下町と人工島の対比 ~南海加太線・神戸新交通~

城下町と人工島の対比 ~南海加太線・神戸新交通~

     南海加太線

 和歌山まで在来線だけで移動している。距離にして約600キロといったところだ。新幹線に乗れば東京から新大阪まで二時間半くらいで到達できるのに、普通列車と快速列車を乗り継いで十時間ほどかけて、八月の夕方の日差しに包まれた大阪駅までやってきた。
 東海道本線沿線の景色の概要は記憶にしっかりと刻み込まれているので、今更じっくりと眺めるまでもないが、何する訳でもなくぼんやりと窓外を眺めていた。
 東海道本線という都市間鉄道に面白い景色などあるのかと疑問に思われる方もいるだろうが、思わず見入ってしまう車窓は存在する。
 小田原~熱海の相模湾(さがみわん)を高台から見下ろす区間。富士市内の富士山を見上げる区間。浜名湖の上を長い鉄橋で駈ける区間(この区間は新幹線の方が橋が長くて見応えはあるが)。関ケ原と伊吹山(いぶきさん)の岐阜県滋賀県の境。
 意外と見所のある東海道本線だが、近年は東側区間の車両がロングシート化され、東京から豊橋までロングシートに座らせられるという状況が当たり前となってしまった。しかも、青春18きっぷの時期は在来線を使って長距離移動をする人が増える。必然的に車内は混雑する。編成の短い静岡県内はそれが顕著で、熱海や静岡や浜松といった乗り継ぎの駅では旅行客が血走った眼でドアに向かっていく光景が展開されている。のんびりと鉄道旅を楽しめる環境ではないのだった。
 朝の7時過ぎに地元の駅を出発した。乗り継ぎの際の気づまりな様相に少々の疲労をおぼえていた私だったが、米原から乗り込んでいた快速が大阪駅に着くと、ようやく旅気分が盛り上がってきた。大阪駅は多種多様な列車が発着する楽しいターミナルであり、それが異郷への扉のように感じられて気分が高揚するのだ。
 17時25分に大阪駅大阪環状線ホームを発車した八両編成の快速は関西空港行きと和歌山行きが四両ずつ組まれていた。
 快速だから大阪環状線内も主要駅のみ停車となる。東京でいうところの山手線に相当する路線に、転換クロスシートの快速が走っているというのが楽しくもあり、頼もしくもある。但し、日曜の夕方とあって、行楽帰りの人で車内は混雑している。なんとか窓際の席に座れた私は高架の上から、古びた雑居ビルが並ぶ大阪の下町を眺めている。
 八月に旅行をするのは本意ではなかった。学生の夏休みで交通機関は混雑する。旅先でも宿は混み、観光地は人で溢れて風情の減退だけでなく飲食店の混雑にも直面する。だが、仕事との兼ね合いで人混みに足を踏み入れている。2017年8月20日、天気は快晴である。
 天王寺から阪和(はんわ)線に入り、電車の速度が上がっていく。阪和線は元は阪和電気鉄道という私鉄で、天王寺と和歌山を高速で結ぶことを目的に建設された。天王寺と和歌山を45分で結ぶ超特急という、当時の日本の鉄道で最速を誇った列車も運行されていた。
 速達性重視で線路を敷いたから沿線はおのずと市街地から外れた場所となり、それが原因で乗客数は伸び悩んだ。大阪と和歌山を結ぶ鉄道は南海鉄道(現、南海電鉄)が既に存在し、南海は市街地を結んでいた。しかも、和歌山に於けるターミナルも南海の方が町の中心部に近いという立地面での不利もあった。
 そうして阪和電気鉄道は昭和十五年(1940)に南海鉄道に吸収され、その後は国鉄に買収されて国鉄阪和線となったのだった。
 堺市、三国ヶ丘、鳳(おおとり)、和泉府中(いずみふちゅう)、東岸和田、熊取と快速は停車していく。戦前は市街地の外れであった沿線も今は宅地化され、多くの乗客が行き交う都市鉄道の風景となっている。陽はだいぶ傾いてきた。熊取を出たあたりから窓外には緑も増え、高架駅の日根野で関西空港行きを切り離したあとは、車内もだいぶ空いてきた。
 県境が近づいてきた。勾配と共に線路は山間に入っていく。山中渓(やまなかだに)という文字通り山中の駅を過ぎ、和歌山県に入った快速は右にカーブしながら峠から平野に下りていくと、紀ノ川(きのかわ)に架かる大きな鉄橋を渡り和歌山市の市街地に入っていった。

 大阪を出て90分、18時55分に和歌山駅のホームに降りた。空は暗くなり始めている。駅ビルにはネオンが灯り、和歌山城方面に向かって延びる駅前通りには車のテールランプが赤く連なっている。
 住宅地にある、マンションのような造りの宿にチェックインしたあと、近くにある和歌山ラーメンの人気店の食堂に行き、再び和歌山駅前に向かった。
 駅のそばのアーケードはシャッター通りとなっていた。行き交う人は少ない。周辺の道路の道幅は広いが、商店街は肩身が狭そうに延びている。私はあてなく暗いアーケードを彷徨った。
 わずかながらの開いている店は飲食店ばかりだった。賑わいの声がする一角がある。近づいてみると、着物をまとった女性演歌歌手のポスターが貼られてある。演芸場のようだった。好奇心から観てみたい衝動に駆られたが、公演時間を確認すると既に始まっていて、残り時間も少なそうだった。
 翌朝、宿を出て和歌山市駅に向かった。和歌山駅から和歌山市駅は2・5キロほど離れていて、宿のある位置はその中間あたりである。途中にある和歌山城に立ち寄っていく。
 和歌山城は町中にそびえていた。徳川御三家のひとつ紀伊徳川家の城だけあって堀も石垣も見応えはあるが、圧倒されるほど大きいというほどでもない。太平の世に築かれたからか、徳川家の権力が万全なものであったからか。
 町並みは城を中心に道が縦横に整備され、かつての繁栄を偲ばせる景観である。明治時代は全国でも十番目前後の人口を誇った町だった。大きい町だったからこそ、大阪と和歌山を結ぶ鉄道路線が二本も建設されたのだろう。
 和歌山城から商店街に出て和歌山市駅に着いた。時刻は8時になる頃だ。通勤客で賑わう駅前は工事中だった。以前訪れた時は百貨店が駅に併設されていたが今はない。調べてみると、2014年に閉店となっていた。百貨店があった頃の和歌山市駅は駅前の商店街と合わせ、町の中心駅らしい構えに感じられたものだった。
 和歌山市駅は南海電鉄とJR西日本の和歌山線が乗り入れているが、JRは本線ではないから影が薄く、駅名看板は南海の駅のような造りで、行き交う人々も南海線のホームに向かっている。私もその一人である。
 大阪方面に向かう電車を横目に、二両編成の青とオレンジの帯をまとった電車が停車している。南海本線の電車が四扉であるのに対して、こちらの電車は二扉だ。これから乗る南海加太(かだ)線の電車である。
 8時13分、和歌山市を出た加太行き電車は、南海本線の線路上を大阪方面に向かって走り始めた。紀ノ川の鉄橋を渡ると紀ノ川駅となり、左カーブして本線から分かれていく。
 沿線は住宅地で、一戸建ての家が並ぶ。加太線に入り一駅めとなる東松江から駅間距離も短くなり市内電車の様相を呈してくるが、路線自体は単線でありワンマン運転と、ローカル線らしさに溢れている。
 八幡前(はちまんまえ)駅でピンク色の電車と行き違った。ドアの部分は赤で、ピンクの側面には鯛の顔と鱗が描かれている。加太線を走る観光列車「めでたいでんしゃ」という編成で、このピンクの電車は「めでたいでんしゃ さち」という。他には、赤の「めでたいでんしゃ なな」。青の「めでたいでんしゃ かい」がある。
 家が建て込む風景が続いていたが、加太線に入り五駅めとなる二里ヶ浜(にりがはま)を出ると海岸が迫ってきた。磯ノ浦という海水浴場で、同名の駅までの間、左窓に夏の浜が展開する。
 磯ノ浦を出ると岬の基部を抜け、緑の中を走る。低い山中を行くような景色に思われた頃、左窓に再び集落が現れ、終点の加太に8時36分に着いた。
 加太駅は明治四十五年(1912)に加太軽便鉄道の駅として開業した。開業当初からのものだという駅舎は小さな三角屋根を持つ白い洋風のもので、小ぶりだが風格を感じる。
 駅舎に面した細いホームから改札を抜けて駅前に出ると、鯛などの魚介類のイラストが描かれた記念撮影用看板が設置されていた。駅前には線路と並行した道路が市街地や港に向かって延びている。道路には商店が点在し、格子戸の古い家も建っている。
 電車から降りた人達は港に向かって歩いていく。港からは友ヶ島まで船が出ていて、20分で結ばれている。港の先には海水浴場もあるから、駅前には温泉や旅館の看板が立つ。
 島や浜に足を向けてみたい風景だ。だが、今日は乗る電車のスケジュールを決めて動いているので時間の余裕があまりない。加太で余裕時間を取っておけばよかったと思う。仕方がないので、のどかな町並みを20分ほど歩くことにした。
 駅から歩くにつれ、台地に挟まれた家並みの先は少しずつ眺望が広がり、海岸が近いことを連想させる平地となった。細い道路には海に行く車が時折通過していく。青空の下、小さな町が海と島に向かう人を呼んでいる。
 加太駅の利用者数は年々減少傾向にあるという。平成二年(1990)には二千人以上あった乗降客数も今や七百人ほどになってしまった。
 乗客減少に歯止めをかけるべく、加太線は「加太さかな線プロジェクト」と題して観光鉄道への転換を図っている。先ほど行き違った「めでたいでんしゃ」もその一環である。
 都会から少し時間をかけて訪問できるローカル線。それも、大手私鉄が運営しているのだ。いい終着駅だ。加太ののどかな風景に接して長居をしたくなる気持ちを抑えつつ、私は次の目的地に向かった。

     神戸新交通

 和歌山を10時13分に出発して、12時12分に東海道本線の住吉に着いた。ここは兵庫県神戸市である。
 橋上駅舎のJR駅の改札を出て構内通路を歩き、六甲(ろっこう)アイランド線の改札に向かう。神戸新交通という会社が運営する新交通システムの路線で、無人運転のタイヤ電車で運行されている。
 JR駅の更に上の高架ホームに上がると、白い小ぶりな四両編成の車両が停車していた。平日の昼下がりなので空いている。
 六甲アイランド線、通称六甲ライナーは12時24分に住吉を発車すると魚崎(うおざき)に停車し、阪神の魚崎駅からの乗り換え客を少しばかり乗せると、高い高架で阪神線を跨ぎ、倉庫の多い港湾地区に出た。前方は海で、その先の埋立地六甲アイランドに渡る。海が鮮やか過ぎるくらいに青い。
 埋立地というと工場や倉庫が立ち並んでいる印象があるが、窓外は住宅地が広がっている。線路の周りには学校や商業施設があり、埋立地にありがちな殺風景さは薄い。夏休みだからか、車内も子供連れの母親や学生風のグループが目立つ。
 全長4・5キロを12分かけて走り、終点のマリンパーク駅にやってきた。その先は車両基地となっている。
 マリンパーク駅のホームは高い位置にあり、エスカレーターで改札に向かい外に出ると、そこはニュータウンや学校などに向かって各方向に歩道が延びるペデストリアンデッキの広場となっていた。
 外が少し賑やかだ。西の方に視線を移すと、そこに屋外プールがあった。駅からプールが見下ろせる立地となっているのだ。園内は家族連れで賑わっているようだった。

 住吉から東海道本線の普通列車で8分で三ノ宮に着いた。三宮は神戸の中心街で駅を行き交う人も多い。阪急や阪神に地下鉄の駅もあるが、JRだけ「三ノ宮」と表記する。駅名の由来は近くにある三宮神社に因むもので、私鉄や地下鉄と違い、国鉄(現、JR)だけ駅名に「ノ」を加えた理由は、国鉄は長距離客の利用があり、遠方からやってきた人に「さんのみや」と読みやすくするためだという説がある。
 駅前広場に出てポートライナーの乗り場に向かう。これから乗るこの路線も、先ほど乗った六甲ライナーと同じ神戸新交通が運営している。三宮とポートアイランドを結ぶポートアイランド線が正式な路線名である。そのポートアイランド線に未乗区間が残っている。私鉄全線完乗のための再訪という訳だ。
 高架ホームに上がり、緑の帯をまとった六両編成の列車に乗り込む。小ぶりなクロスシートの車内は平日の昼にしては乗車率はよく、席の多くは塞がっている。
 13時20分、私を乗せた神戸空港行きが発車した。終点まで8・2キロ所要18分の小さな旅となる。
 三宮のビル街を抜け、貿易センター、ポートターミナルと停まっていく。高架下の埠頭に赤茶色のコンテナがたくさん積み上げられ、その向こうに神戸市の市街、その背景に大きく東西に広がる六甲山地が見え、遠ざかっていく。ポートライナーの車窓のハイライト区間だ。
 ポートアイランドに向かう橋にさしかかり、街と山のパノラマは大きく窓に広がっていく。ここを夜に通ったら、さぞかし夜景が綺麗だろうと思えるが、夜に乗ったことはない。
 ポートアイランドに渡った列車は、道幅の広い道路と、青々とした芝生と、整った形のビルを窓外に映し出しながら走っていく。沿線住民、観光客、そして鉄道ファンを乗せ、南に向かって走っていく。
 以前ポートライナーに乗った時は路線が「6」のような形をしていて、終点からの折り返し運転ではなく環状運転を実施していた。神戸空港の開業を受けて路線が「6」の左下から延びた。その区間に乗るためにやってきた。市民広場駅から先が初乗り区間となる。
 市民広場駅で乗客は結構降りて少し空いた車内は、京(けい)コンピュータ前駅を出ると再び橋で海を渡る。海岸線から離れたため、橋の周囲の海の眺めが広い。窓の下の波は穏やかで、色が一層濃い。列車の車窓というよりも船上の眺めに近い。
 神戸空港駅は空港ターミナルと通路で直結された駅だった。改札前からの通路の先にある自動ドアの向こうは、神戸空港の出発ロビーとなっていた。
 帰りは「6」の字の右側の曲線部分に相当する区間に乗ろうと思う。この区間は以前乗った時に通っている筈だが、乗車当時の記録が曖昧で確信が持てないため乗っておこうと思う。
 橋を渡ってポートアイランドに帰ってきた列車は、神戸空港から6分で市民広場駅に着いた。
 接続よく1分で支線経由の列車がやってきた。三宮からまっすぐ市民広場まで来て、ここから支線に入って南公園、中埠頭、北埠頭と停車し、中公園で本線に戻って三宮に向かうという一方方向の6の字運転をしている。支線区間が単線なので逆方向を設定できないためである。
 支線だから空いているかと思っていたが、地元客が続々と乗ってくる。公園とビルが混在し、更に集合住宅もある。やがて右窓に青く濃い海が現れ、列車は橋を渡り始めた。三宮の市街と、その向こうの六甲山地がだんだんと近づいてくる。夜景で見てみたいと改めて思う景色だし、日本全国の新交通システム路線で、もっとも車窓が美しい区間であるとも思う。

 加古川(かこがわ)駅は高架化されていた。神戸市営地下鉄の未乗区間を乗り終えた私は、地下鉄と山陽本線の乗り換え駅である新長田(しんながた)から普通と快速を乗り継いで加古川にやってきた。
 山陽本線から加古川線のホームに向かう間には中間改札機が設置されていた。ホームに上がるとエメラルドグリーンの電車が停まっている。国鉄時代の通勤電車103系だが、正面は幌付き貫通路が設けられているなど改造が施されている。
 接続よく山陽本線快速から6分の乗り換え時間で電車は発車した。二両編成の車内は高齢者と夏休みの学生でほぼ満席で、私は窓際に立って車窓を眺めている。
 加古川線は旅先としては地味な存在だが、じっくり車窓を見ているとそれなりに面白い。
 加古川を出ると北に向かって加古川の市街を走る。走り始めてほどなく左窓に加古川が現れる。「カコガワ」を連発してしまっているが、こちらは町ではなく川の方の加古川で、周辺は池の多い農村地帯となっていく。
 平地を走る車窓だから、このまま加古川は左窓にまっすぐ流れていくのかと思いきや、厄神(やくじん)を出ると鉄橋で川を越え、加古川は右窓に移る。厄神からはかつて第三セクター鉄道の三木鉄道が出ていたが、2008年に廃止されている。
 三木の町には神戸電鉄が今も走っているが、厄神から三駅めの粟生(あお)でその神戸電鉄と接続する。粟生からは北条鉄道という第三セクター鉄道も出ているから、ここで多くの下車があり車内は空いた。
 左窓は台地が続き、右窓は農地と住宅という景色が続く。都会と田舎のはざまのような所を往くが、そのどっちつかずな感触が線の印象を地味に思わせているのだと言えなくもない。車両も古いとはいえ通勤型だ。
 陽は傾き始め、加古川線と加古川を挟むように山並みが狭まり始めた頃に西脇市に入る。加古川を出て42分、電車は17時29分に西脇市駅に着いた。ここで乗り換えとなる。
 跨線橋を上がり、通路から線路の先を見る。なだらかな山地が広がり、ここから先は平地が狭くなりそうな眺めだ。
 隣のホームに加古川線の終点である谷川(たにかわ)行きの電車が一両で停車している。クモハ125という電車で、銀色の車体にエメラルドグリーンの帯をまとう。車内には二人掛け座席もあり、私はそこに腰を下ろした。西脇市で電車を降りた乗客の多くはそのまま下車したようで、谷川行きは空いていた。
 陽が落ち始めた空は曇りとなり、薄暗く地面を照らす。西脇市を17時38分に出た電車はすぐに加古川を渡り、川は再び左窓となった。
 加古川が作り出した平地に沿うように鉄道と道路と耕地と家が並んでいる。川のそばの平地が集落となり、そこに街道が通る。古代から中世にかけて日本の至る所に築かれた村と道の法則がここにも息づいている。僅かな乗客を乗せ、電車は川の蛇行の如く左右にカーブしていきながら終点に向かう。終点の谷川も山に囲まれた地で、ここで福知山(ふくちやま)線と接する。
 18時08分、谷川駅のホームに降り、駅前広場に出てみた。ひっそりとした駅前に、それなりの広さのロータリーがあり、タクシーが二台停まっている。瓦屋根の駅舎の向こうに小山がそびえていた。もう里は夜が近い。
 谷川からのルートを思案する。今夜の宿は京都市内の安宿だった。福知山に出て山陰本線というルートが旅情溢れていそうだが、福知山線の大阪方面行きで尼崎に出て、そこから東海道本線の新快速に乗り換えることにした。この方が速いと思われるが、旅情は薄いだろう。どのみち、もう外は夜の風景になり始めていた。もう少しだけローカル線気分に浸っていたくて、駅前散歩を切り上げた私は駅のホームでぼんやりと山を眺めている。

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