平成旅情列車⑧ 雨の多い町尾鷲の師走の夜
雨の多い町尾鷲の師走の夜
※写真は三重県を走るJR線気動車(名松線)
大垣夜行と紀勢本線
年末の旅というものが好きである。師走の慌ただしさに包まれていた町が、少しずつ落ち着きを見せて静けさに包まれていき、年始の準備を始める。そんな雰囲気の中を、ガイドブックに大きく取り上げられない、或いは、まったく取り上げられないような町を旅するのが好きである。
そういった町の冬の夜は人通りも少なく、浮ついた空気もなく、町が人と共にしみじみと一年を振り返っているような趣きが感じられて良い。いつもなら人の少ない町の夜など、寂しく侘しく思えるものだが、年末は静かであることが渋みのようにさえ感じられるのだ。一人旅向きなコースかもしれない。
平成六年(1994)の年末、紀伊半島二泊三日の旅をした。青春18きっぷを握っての鈍行列車の旅なのだが、紀伊半島はとても大きく、海岸線は長い。名古屋から大阪までを紀伊半島の海岸線に沿って紀勢(きせい)本線の鈍行を乗り継いでいくと、二日がかりの旅となる。途中でどこかに泊まることになる長さだ。名阪間の移動は新幹線なら一時間ほど、近鉄特急で二時間ほどだから、いかに紀伊半島は大きいかがわかる。
ちなみに、名古屋から関西本線と紀勢本線と阪和線を使って大阪のミナミのターミナル駅である天王寺まで向かうと、その距離はなんと502・1キロ。東京駅から東海道本線で西に向かっていった場合、京都の少し手前にある滋賀県大津市の膳所(ぜぜ)で501・9キロであるから、その距離の長さと紀伊半島のスケールに驚かされる。
東海道本線には当時夜行の快速が走っていた。通称「大垣夜行」という。東京と岐阜県の大垣を結んで走っていた。紀伊半島の横断よりも短い距離だが、大垣夜行に使用されている車両は急行用電車で、それなりの速さを持っている。内装はクロスシートで、要するに向かい合わせの座席であるから、混んでいると向かいの人と膝を突き合わせて座ることとなる。
大垣夜行は青春18きっぷのシーズンは混雑した。駅のホームには発車数時間前から乗車列ができるくらいに混んでいた。なので、JRは臨時便も設定した。この時に乗車したのはその臨時の方で、定期便よりも短い六両編成でありながら割と空いていた。
早朝6時09分に名古屋に着いた大垣夜行を降り、午前は三重県内のローカル線である近鉄北勢(ほくせい)線、三岐(さんぎ)鉄道に乗り、三重県でもっとも人口の多い町である四日市から第三セクターの伊勢鉄道にも乗った。本線から山の方に向かって走るローカル私鉄線よりも、四日市と津という大きな町を結んで走っている伊勢鉄道の方が乗客は少なく、四日市を発車した時点では乗客は私だけだった。
三重県の県庁所在地である津で昼食としたあと、津14時03分発の紀勢本線の鈍行に乗った。一両のワンマン運転で、本線の風格は感じられない鈍行だが、名古屋から三重県の伊勢湾沿いはJR線よりも本数が多くて速い近鉄線が圧倒的な利用者数を誇り、紀勢本線はローカル線の様相を呈している。
津から田園地帯を三十六分走ってきて列車は多気(たき)に着いた。ここで乗り換えであり、ここから紀勢本線は近鉄線の営業圏から離れて、沿線は更にローカル度を増していく。
多気は参宮線との乗り換え駅で、参宮線はその名が示すとおりに「神宮」に参拝する路線、つまり伊勢神宮参拝客輸送を目的に建設された路線である。線路は伊勢神宮の最寄り駅のひとつである伊勢市駅を経由して鳥羽(とば)に至る。だが、伊勢市も鳥羽にも近鉄の駅があり、ここでもJRは近鉄の後塵を拝している。
そういった状況だからだろうか、多気は人の動きの少ない駅で、駅の裏は草むした空き地、駅前は小さなロータリーとわずかながらの店が点在する細い駅前通りがあるだけの少し淋しい駅だった。
私は駅前に立つなんでも屋に入った。店内には国鉄時代の鉄道写真が何枚も飾られている。乗り換え駅の駅前にふさわしい演出だ。ここでチョコレートを買って、紀勢本線の鈍行で更に西進するためにホームに向かった。待っていた鈍行列車は、クリーム色と朱色に塗られた古びた急行用気動車の二両編成だった。その内装はいわゆる国鉄急行の標準仕様ともいうべきもので、昨夜から早朝まで乗っていた大垣夜行の車両とも似ている。ドア部にはデッキがあり、車内扉を開けて中に入る。そこにずらりと端まで四人掛け座席が並んでいる。
16時19分、列車は閑散とした車内で多気を発車した。私は靴を脱いで前の座席に足を置いて車窓を眺め始めた。十二月の空は暗くなり始めている。畑が広がる窓外は、多気までよりも更に家が少なくなってきた。
静まり返った車内に気動車のディーゼルエンジンの音が響く。エンジンは上り勾配になると低く唸り始め、そのくぐもった響きは薄暮れの農村の眺めと妙に調和している。どこかの駅で部活帰りらしい生徒と先生のグループが乗り込んできて、車内は少し賑やかになってきた。窓外は立派な杉の木々が並ぶ山間に入っていった。
紀勢本線は紀伊長島から沿岸部に出る。線路は海岸に沿いながら南西の方向に延びていく。
尾鷲
17時11分、尾鷲(おわせ)という駅に着いた。今日の宿泊予定地はここにしている。尾鷲は日本有数の雨の多い町で、駅からすぐの所に漁港がある港町である。バスが三台くらい停まったら窮屈になりそうな駅前から延びる通りを歩き、私は港に向かった。途中に現れた細い商店街を抜けていくうちに日はすっかり沈み、港に着いた頃は夜が始まっていた。誰も歩いていない港を少し眺めてそこを離れた。
小さな町であるのか、駅から港までの市街地を眺めたかぎりでは、あまり飲食店がない。とりあえずは、駅前にあった二階建ての真新しい旅館に電話を入れて無事部屋を確保してからチェックインをして、夜の尾鷲を散歩する。
紀伊半島は冬でも割と暖かく、ゆっくりと湯船に浸かりたいという気分でもないが、町の銭湯に行ってみる。場所は出発前に予め調べておいた。紀勢本線の線路脇にあるその小さな銭湯は、辿り着いてみると住宅地の中にあるので付近は真っ暗だった。偶然に見つけられるような立地ではなく、場所を知っていても見つけるまでに少し迷った。
湯上がりにいい気分で駅の方角へ歩いていると、寿司屋を思わせる木造りの玄関の居酒屋があったので、その店に入ってみることにした。
店の中は木製のカウンターとテーブルが並び、内装も寿司屋風だった。漁師だと思われる日焼けした体格の良い男たちが、忘年会らしき飲み会をしていて店内は騒々しい。カウンターの中には女将さんが一人で動いていた。
私はカウンターの隅に置かれたテレビの前に座った。
「八時半くらいまで宴会なので、うるさくてすいません」
女将さんがそう言いながらお通しを出してきた。時刻は八時を過ぎていた。私は飲みながら、なんとはなしにテレビから流れるドラマを眺める。女将さんが気を遣ってドラマの話を振ってくれたが、顔をテレビに向けているだけで内容は頭に入っていない私とでは会話は弾まない。
時間になって宴会は終わり、漁師さんたちは二次会に向けて出て行った。店は私と女将さんだけになった。
四十代前半と思われる女将さんは、華と品のある美人で、随分と都会的な雰囲気をまとっている。二人っきりになったので、ようやく会話らしい会話となっていった。
神奈川県から来たと自己紹介した私に、尾鷲で生まれ育ったという女将さんは、この町の感想を求めてきた。尾鷲は雨の多い町だという予備知識で雨の話が始まり、先ほど漁港を見てきたと言って町の景気の話もした。女将さんはどこか自虐的に感じられるほど、尾鷲は田舎だと評してみせ、港も町も決して前向きな表現では説明しなかった。
「実は私、東京の大学を出ているんですよ」
女将さんはそうつぶやいて遠い目で語り始めた。
「東京の田町。田町、知ってます? そこにある大学なんですけどね…」
女将さんは淡々と言う。田町にある大学というと、K大学ではないか? しかし、もしそうだとしたら、何故K大学を出た人が三重県の田舎の小さな居酒屋を一人で切り盛りしているのか謎である。色々聞いてみたくなったし、訊ねれば面白い話が聞けそうでもある。
しかし、聞けなかった。話を振ってきたのは女将さんの方からだとはいえ、訊ねることはできなかった。どこか寂しそうに見えるその表情を見ていると、女将さんがここに辿り着くまでのストーリーは、興味本位だけでは聞けなかったのだ。
どんなに良い大学を出ても、何らかの事情で思い描いたような人生を送れないこともある。事の流れは女将さんとは違うものの、私自身も思い描いた人生を送っているとは言い難い側の者として、女将さんの過去に深く入り込むのは止めて、世間話に切り替えた。
店を出ると、夜が更けても外は寒くなかった。紀伊半島の冬は割と暖かいことを改めて実感する。今が十二月で年末であることを忘れそうな暖かさだった。女将さんの今も、他人が心配するほどではなく、実は幸せなのかもしれないと思いながら、冷えのない夜風を受けて私は宿に向かって歩き始めた。