2022 ベトナム・タイの旅⑥ ~バンコク~
懐古への入口 ~2022年8月6日 バンコク~
セントラルプラザ
未明、まだ夜が明けない時間。具体的には午前3時から日の出までの間を指すのだという。そんな時間に私は目が覚めた。今夜こそはぐっすりと眠れるという確信があった。移動の疲れ、前夜の寝不足、ホテルがきれいであること。
実際、よく眠れた。だが、未明に目が覚めた。便意というやつである。お腹を壊している訳ではないようだったが、昨日口に入れてしまった辛子の刺激的な辛さと、夜に食べたガパオライスの辛さが重なって軽い腹痛を感じたようだった。そういう感触だったのだ。
気にするほどの状態ではなかったのだが、念の為に胃腸薬を飲んでおこうと思った。だが、このホテルはサービスの水が用意されていない。家庭用の大きさがある冷蔵庫には大きなボトルに入った水があったが、冷蔵庫には無料という表記はなかったし、いろんな飲み物があった。そこから一本コカコーラを取り出して寝る前に飲んでいたが、これ以上値段不明な商品に手を出すのは憚られた。
近くにセブンイレブンがあった。私はそこに出向いて水を買うことにした。
エレベーターで下りると、玄関はロックがかかっていた。ガラスのドアを眺めてみると横に赤い矢印が表示されていて、その先に赤いボタンがあった。近くに呼び出し用の電話もあったので、私は管理人を呼ぶためのものだと解釈してボタンを押してみたが、何の返答もない。そんなことを繰り返していると、ガラスのすぐ向こうの横にある管理人室に人影が動いた。カーテンで遮られているので顔は見えない。私は気づいてもらうためにドアを軽く叩いてみた。
何度か叩くうちに気づいてもらえ、昨夜の遅いチェックインに対応してくれた女性スタッフがこちらにやってきて、そのボタンを押せと仕草を見せてくれた。先ほどから押している赤いボタンだ。ここまで来て、私はようやく気づいた。ボタンを押してドアを押す。何事もなかったかのようにドアは開いた。
時刻は五時半で、外は暗かった。まだ人の姿などないだろうと思われたが、意外にも店内には仕事に出向くと思われる姿の人が数人いる。水は6バーツ(約二十三円)で、日本でいう「いろはす」のタイ版を手に入れた。
玄関のあたりではまだ寝ぼけていた私だが、買い物を済ませて部屋で胃腸薬を飲むと、少しだけ頭が冴えてきた。カーテンを開けて大きなガラス窓から外を眺めてみる。マンションと中規模ビルが立ち並ぶ風景に、ほんのりと青みを加え始めた空が広がっている。こういう夜明け直前の暗さの残った空が好きだ。日常生活では見る機会が非常に少ないが、旅に出ると見ることができる。この空と、それに包まれた風景を見るために夜行列車に乗っていた。日本の鉄道にまだ夜行列車が何本か健在だった頃の話だ。
早起き癖がついてしまっていたのかもしれないが、もう眠れそうになかった。一旦は軽く眠気に襲われて、開けたままになっていたカーテンから明るい日差しが入ってきた頃、私はベッドから起き上がった。
窓の外から歌が聞こえる。静かな下町。そんな印象を抱いていたホテル周辺だが、静かだと言い切れるほどでもないらしい。もう寝る気はしないので身支度をして、七時半頃に散歩に出た。
駅とは反対方向に歩いてみる。すぐに小さな川が現れ、ゆるやかな勾配がついた小さな石橋で川を渡った。歌はだんだんと近づいている。そして、またしてもセブンイレブンがあった。帰りにここで朝食を買っていこう。
バンコクの朝は早いようだった。牛乳屋がある。軽食を売る雑貨屋がある。民家の軒先に洗濯物がぶら下がっている。古びた木造の建物が多い。歩いていくうちに金色の門を持つ寺院が家々の隙間から現れた。門の前には数軒ばかりの土産物屋もある。
境内に入ると、歌がすぐそばから聞こえてきた。鐘や太鼓の音に合わせて節をつけて唱えている、お経なのかもしれない。とにかく大音声である。
境内を歩いていると干支の動物を順番に並べた箇所がある。造形はリアルだが、馬だけが金色に輝いている。何か由縁があるのかもしれない。
旅が楽しいものとなるよう仏塔に向かって頭を下げ、下町に立つ寺院をあとにした。天気は快晴のようだ。実質初日となるバンコクの旅が楽しみとなってきている。
ホテルに戻り、セブンイレブンで買ってきたパンを食べている。ベトナムで飲んだミロが案外美味しかったのでタイでも買ってみた。麦芽飲料、朝は健康的な飲み物を飲みたいという訳だ。お腹の具合がよくわからないので、パンは菓子パン風のものを二つ買う。開けてみればチョコドーナツとクリームの入ったどら焼きで、どら焼きは特に美味しかった。また買ってみたいと思う。お値段は計40バーツ。約百五十円の朝食である。
今日はのんびりと過ごそうと決めている。初めてのタイなので土地勘はなく、出発前に一応ガイドブックを見たりしてきているが、正直言って地理がきちんと頭に入っていない。ここまでのベトナム旅と違って地下鉄などの都市鉄道が走っているので移動は容易そうだから、行きたい所を順番に辿っていくことになるだろう。
居心地がいいというのは出足を遅らせる。ソファでくつろいでいるうちにチェックアウト制限時間の12時が迫っていた。体調は悪くない。荷物をまとめて部屋を出た。
私は昨夜、冷蔵庫の中のコカコーラを一本飲んでいた。有料のような気がしているので、スマホの翻訳アプリに日本語でその旨を入力してタイ語に変換した画面を用意して管理人室に来た。昨夜も、未明にもお世話になったスタッフが座っていた。二十代後半から三十代くらいの雰囲気の女性なのだが、私が以前勤めていた会社で色々と仕事を教わった女性上司と顔が似ていて昨日から密かに驚いている。彼女は私のスマホの画面を見て「OK」と呟くと、電卓を叩いて「20」と表示させ、昨夜チェックインの際に渡していたデポジット500バーツから差し引いた480バーツが手元に返ってきた。
デポジットが必要なホテルというのも珍しいと思うが、やはりここはマンションが本業で、受付はやはり管理人室なのだろうか。彼女の労働時間の長さは気になるところだが、ホテル風マンションを振り返りながらそんなことを思った。
最寄りの地下鉄駅フアイクァンにやってきた。まず向かうのは二駅先のラーマ9世駅だ。駅名は言うまでもなく王族の方の名で、駅の所在地を通るラーマ9世通りから付けられている。
ラーマ9世は日本でもプミポン国王と呼ばれて知られた人で、アメリカで生まれスイスの大学で学び、第二次世界大戦後にタイに帰還し、1946年に国王に就任した。戦後の混乱に巻き込まれた東南アジアの中で数々の苦難に立ち合い、そして解決を果たしてきた偉大な国王である。在位70年を迎えた2016年に崩御され、タイ全土が悲しみに包まれた。
今私の財布に入っているタイバーツの紙幣に描かれている人物が現在の国王であるラーマ10世で、ラーマ9世の唯一の男子である。
前国王の名が付いた駅があるということに、タイが王国であると改めて実感できる。タイの人たちは親日の人が多いそうだが、王族の国と皇族の国という点に親しみを感じるのが理由のひとつと聞いたことがある。
12時ちょうどに出た電車は6分でラーマ9世駅に着いた。私がラーマ9世駅で降りたのは、駅の上に立つショッピングセンター「セントラルプラザ・グランド・ラマ9」に用事があったからで、ここに日本のドラッグストアであるマツモトキヨシがあるからである。
建物は白を基調とした、かなりきれいな内装で多くの人で賑わっている。その賑わいを眺めているうちに空腹を感じた私は、飲食店が集まっている上階に足を運んでみた。上がってみると、そこは日本だった。
日本でもよく見かける回転寿司の店の前に入店待ちの列ができている。上の階に来るまでにも日本を感じさせる売場はいくつかあった。日本のコミックを売っているコーナーもあった。この建物は日本の店や品物が揃っているようだった。タイに来て日本の店に入るのはどうかと思ったが、味やサービスに違いがあるのかを知りたくなり、私は吉野家に入ってみた。
吉野家はファミリーレストランのような内装で、少し落とした照明で安っぽさはない。通されたテーブルに着き、メニューから「DONBURIセット」を注文した。199バーツと吉野家にしては高い値段設定だが、味噌汁とペプシコーラが付いてくる。出てきたのはすき焼き定食といった内容で、美味しかった。店も落ち着ける雰囲気で、日本の吉野家と違い、ゆっくりと食事をする店のようだ。
さて、すき焼き定食は私には量が少し多く、お腹がいっぱいになった代わりに軽い腹痛を伴った。今朝のことを思い出している。まだ本調子ではないようだ。辛子による喉の痛みは治まってきた。だが、お腹の薬を買っておこうと考えた。持参の胃腸薬はどちらかといえば胃の薬という立ち位置に感じている。目的だったマツモトキヨシでマスク五枚セットを102バーツで買った私は、通りすがりに薬局があったことを思い出し、そこに足を運んで翻訳アプリを使ってタイ語の文章を作って画面を見せた。
対応に当たってくれた男性店員は大きく頷き、棚から小さい箱をひとつ手に取り、「サーティーエイトバーツ」と言った。安い。悩むこともなく示された薬を買い、朝買ってまだ余っていたペットボトルの水で飲んだ。薬は黒い錠剤で、とりあえず一粒飲んでみた。その後、特に異変はなく、お腹の調子も悪くなかったから効いたということだろう。
フアランポーン駅
時刻は午後2時を回っていた。今夜の宿のチェックイン開始時間になったので、まずはチェックインして荷物を部屋に置いてこようと思う。
ホテルまでは地下鉄で一本なので切符(トークン)を購入する。降りる駅は八駅先で33バーツ。日本円に換算するとその安さに驚く。百三十円弱である。まだタイの物価が理解できていないので、そうでもないのが実情かもしれないが、私は安さに喜んでいる。ちなみに、先ほどは二駅乗って19バーツだった。
券売機は画面に路線図があるので降りる駅をタッチする。駅名の文字を拡大させたい場合は見たい箇所の空欄の部分をタッチすると路線図が拡大される。複数枚買う場合や、子供運賃で買う場合は、その欄をタッチして選択すればよい。感覚的でわかりやすい券売機だ。ただし、紙幣が使える券売機であっても、お釣りは全額硬貨で返ってくる。そこは要注意である。
無事トークンを手にして、地下鉄の各駅改札に設置されている保安検査機のゲートを通り、アルコール消毒液で手を消毒してホームに向かいかけると、後ろを歩いていた女性が私の肩を叩き、背後から駆けてきた女性駅員を指した。駅員の手には33バーツ分の硬貨が握られている。理由はよくわからないまま、私の手に運賃分の金額が返ってきた。
今日は土曜日だから昼間でも地下鉄は割と混んでいる。19分で下車駅であるフアランポーンに着いた。ホテルは駅を出てすぐの所にある。
地下鉄出口を上がって1分とかからずにホテルに辿り着ける立地にホテルはあった。随分と時代がかった外観で、フロントの男性スタッフも手際よく手続きをしてくれ、彼に従い部屋に向かう。
私の部屋は三階だが、どうやらこの建物にはエレベーターがないのか、短い渡り廊下で隣の新館に入り、エレベーターを降りたあとも渡り廊下を通って部屋に通された。新館は今風なモダンデザインでどこにでもあるようなきれいなホテルだが、私が泊まる旧館の方は古びていて内装も個性的だ。ドアに動物や人の絵が描かれてある。そのタッチは現代アートではなく、寺院の壁などに描かれてあっても違和感がないようなもので、つまりがレトロなドアだということだ。
部屋の内装もかなり個性的だった。何と呼ぶのかわからないが、ベッドは四本の柱で囲まれ、そこにカーテンが付けられた造りで、テーブルもロココ調とでも言えばいいのか、これもレトロなデザインだった。だが、エアコンもあるし、テレビも冷蔵庫もある。窓を開けると目の前を通る大きな道路に面して、狭いながらもベランダが設けられてあった。レトロデザインは好きなので、こういう部屋に泊まるのは楽しい。ただ、水回りは広いものの水道管から青臭い臭気がほのかに漂い、シャワーもお湯は出るが水圧が低かった。一泊三千百十二円。
私がこのレトロなホテルに宿泊しているのには理由がある。これからレトロな駅を見に行く。そして、明日の朝にこの駅から旅をしてみたいと考えている。そのレトロな駅とはタイ国鉄フアランポーン駅ことバンコク中央駅あるいはクルンテープ駅である。
呼び名が色々あるが駅のある場所から「フアランポーン」と呼ぶのが一般的なようだ。今からその駅を見学してこようと思う。
国鉄駅はホテルの前の大きな通りを渡った斜め向かいにある。窓からも駅舎の丸い屋根が少し見えた。信号は一応あるのだが、先ほどホテルに向かう際に反対側の出口から出てしまい、渡るのが結構面倒だったのでホテルのすぐそばにある地下鉄出入口から入って地下道で渡る。
地下鉄の改札から国鉄駅に向かう通路の壁にはパネルに入った写真が多数飾られていた。フアランポーンの昔の風景写真である。広告ではなく、こういう写真を並べる演出をしているのは素晴らしい。旅目的で地下鉄駅から国鉄駅に向かう人の気分を盛り上げる演出だ。
出口を上がると、そこはすぐ国鉄駅構内で、駅舎の下の広々とした待合スペースが現れた。高い天井の下にベンチが並び、脇には切符売場の窓口が並んでいる。奥に二階に上がる階段があり、そこにはカフェがある。以前はフードコートが構内にあったそうだが今はやっていない。
待合スペースの隅に細い入口があり、その先はホームとなっている。つまり、改札がないので切符を持っていなくてもホームに入ることができる。
ホームにやってくると、巨大な半円ドーム屋根がホームを包んでいる。ヨーロッパの鉄道ターミナルで見かける構造で、アジアの鉄道では珍しい。
線路は頭端式で駅舎に向かって行き止まりになっている構造で、この形式もターミナル駅らしさを演出している。私は東京の上野駅の地平ホームを連想した。
各ホームの手前に青地の液晶画面による列車案内板があり、発車時刻と行先が表示されている。行先はタイ語だけでなく英語もあるから、タイの主な地名を頭に入れてある私は行先を眺めるだけで気分が盛り上がってくる。
チェンマイ、ノンカーイといった北部や東北部に向かう夜行列車がある。チャチュンサオのような近郊に行く列車もある。まだ夜行列車は入線していなかったが、近郊や中距離に向かう普通列車が停まっているので先頭まで見に行く。
停車しているのは客車の列車ばかりだ。紫に黄色とクリーム色の車両や白と緑の車両の混成編成で、側面には大きく「3」と書かれてある。これは3等車を意味する。1等車から3等車まで等級が分けられていて、等級によって運賃が違う。3等車は冷房が付いていないから窓が開け放たれている。
ホームは日本のものと比べるとかなり低く、客車のドアの下には小さな梯子が付いている。そして、3等車の客車のドアは全て開いたままになっている。このまま走行するのだ。先頭まで来るとオレンジ色のディーゼル機関車が現れた。普通列車であっても編成は長く、ざっと見て十両前後はありそうだ。
ホームには西日が射していた。木製のベンチに腰掛けて列車を待つ人。座席に座る友人と窓越しに会話をしている見送り人。忙しそうに何かを運んでいる作業員。車内を清掃している係員。都市鉄道とは違う光景が存在している。旅がしたくなる駅。そんな言葉を思い浮かべ、タイのいろんな街に行きたくなっている。総延長四千キロにおよぶタイ国鉄の全路線に乗ってみたい。そんな気持ちが芽生えている。
機関車が牽引する旧型車両の客車列車ばかりが並ぶホームに、銀色のステンレス車体に青とオレンジをまとったディーゼルカー、つまり気動車が停車している。床下からディーゼルエンジンのアイドリングの乾いた高音が聞こえる。車体の側面に掲示されている行先を確認する。「BANGKOK-SUPHAN BURI」とある。スパンブリーという駅に行く列車だ。
スパンブリーはマレーシアとの国境方面に向かう南本線の途中から分岐している支線の終点で、バンコクからさして遠くない町である。スパンブリーに行く列車はとても少なく、フアランポーンを16時40分に出る列車一本しかない。この列車はゆっくりとスパンブリー目指して走り、20時04分に到着する。折り返し列車は早朝の4時30分発で、これがスパンブリー駅の一日に於ける一番列車であり、最終列車となっている。そのような面白い列車だから乗ってみたくなる。勿論、今夜の宿が決まってしまっている身だから無計画に飛び乗ったりはしない。指を加えて眺めるだけだ。
フアランポーン駅は12番線までホームがある。ひとつずつ見ていき、明日必ずここから列車に乗ろうと改めて決心して待合スペースに戻り、地下鉄との出入口の方に行こうとすると、係員が出口は向こうだと12番線の方向を指した。改札は存在していないが通行は一方通行だったのだ。言われたとおりに外に出るとタクシー乗り場があり、近くには小さな運河が流れていた。幅は客車一両分の長さより少しある。
バンコクは旅客用の水運も盛んで、この小さな運河に架かる橋のたもとには運河ボートの乗り場があった。これに乗って少し北の方向に移動してみようと思う。運河の岸に設けられた乗り場に掲げられた時刻表を眺めて、このあとどういうコースで散策をするか思案していると、乗り場の隅に座っていた女性スタッフが近づいてきた。彼女は時刻表を指して、両手でバツを作った。もう少し詳しく訊くと、今日のこのあとの便は運休らしい。
地図アプリでは時刻とともに乗れるような雰囲気で案内されていて、この場に来てそれを確認していたのだが、彼女の毅然とした態度には絶対な説得力があったし、制服らしき服装を纏っているから正式なスタッフに違いない。実際、先ほどから眺めていても運河を行き来する舟の姿はなかった。何より待っている雰囲気の人もいない。世界的に愛用されているスマホの地図アプリよりも、現地人スタッフを信用するのが正解なようだ。
バンコクの旅客用水運というと市内を流れる大きなチャオプラヤー川で活躍している航路が知られているが、乗った際の舟の臨場感という点ではこういう運河ボートの方が面白そうだと思っていた。運休であるのなら諦めるしかない。
さて、どこに行こうか。初めてのタイ、初めてのバンコクだ。行く先の全てが新鮮であることは間違いない。先ほどだってフアランポーン駅で時間を忘れて駅の風景に見入っていた。
タイといえば寺院が連想される。タイは熱心な仏教徒の多い国である。このバンコクには三大寺院と称される歴史ある寺院がある。そのひとつに行ってみようと思う。時刻は午後5時を回った。運河ボートに未練を残し、私は再び地下鉄ブルーラインのフアランポーン駅に向かった。
ワット・ポー
フアランポーン駅から地下鉄ブルーラインに乗る。6分21バーツの時間と運賃で着いたのはサナームチャイ駅。地上に出ると広場があり、そこでライブが開催されていた。空は少したそがれてきた。そんな空に男性歌手の甘い声が響き渡る。観客は椅子に座ってじっと聴き入っている。
王宮が近いエリアなので周辺は緑が多く、石壁が歩道の脇に続いている。中は寺院だろうか。これから向かうのはワット・ポーというバンコク最古の寺院で、仏暦2331年(西暦1788)にラーマ1世によって建立された。数分歩くと入口に向かう脇道があり、そこを進んで境内に入る入口に向かう。
入場料は200バーツで、これは外国人にのみ設定されている。自動改札に入場券のQRコートを当てて境内に入る。
ワット・ポーの敷地は八万平方メートルあり、南北に境内がある。観光客が参拝する場所は北側に集まっている。
境内に入るとたくさんの仏塔に圧倒される。特に四基の大きな仏塔がひときわ高い。こちらはラーマ1世、ラーマ2世、ラーマ3世、ラーマ4世の仏塔で、周囲には金色の仏像が並んでいる。
境内はタイ人のみならず、欧米からの観光客の姿も多い。仏塔の前で熱心に説明を読んでいるのはタイ人が多い。私も彼らに倣い、仏塔をじっくりと拝観していく。
観光客が足を運ぶのは、その奥にある巨大涅槃像である。全長49メートル、高さ12メートルという大きな金色の涅槃像がお堂の中にあるのだ。見学するには入口で靴を脱ぐ必要がある。片肘をついて横になっているその姿の迫力に圧倒されながら、ゆっくりと周囲を回っていく。涅槃像の足裏には釈迦の文様が彫られ、背中には壺が108個並んでいる。係の人に20バーツを払って硬貨の入った壺を受け取り、この108ある壺に一枚ずつ硬貨を入れていきながら煩悩を捨て去るというものである。
更に本堂に向かいたいところだが、どうやら時間が遅かったようだ。間もなく参拝終了時間を迎える。もう少し早く訪れた方がよかった。だが、仏塔と涅槃像に心洗われる気持ちで境内を後にした。
駅に向かって歩いていると猫がいた。寺院の塀のへりに座って駅の方を眺めている。ライブの音が聴こえてくるから、それに耳を澄ましているようにも見える。空は夜に近づいてきた。
サナームチャイ駅に戻ってきた。18時44分の電車に乗ってバンコク中心部にあるスクンビット駅に向かう。ここはBTSスクンビット線のアソーク駅と接している地下鉄の主要駅のひとつで、BTSというのは地上の高架を走る「バンコクスカイトレイン」という電車のことである。バンコク市内には複数の鉄道事業者が存在する。タイ国鉄ことSRT。バンコク地下鉄のMRT。バンコクスカイトレインのBTS。スワンナプーム国際空港へのアクセス鉄道であるエアポートレイルリンク。そして、昨日乗った国鉄の新事業路線レッドラインもある。
スクンビットに近づくにつれ車内は混んできた。土曜日の夜だ。買い物客の姿が多い。電車は15分でスクンビットに到着した。サナームチャイからスクンビットの運賃は35バーツ、百三十三円である。ラーマ9世駅では無料で乗車させてもらえたが、その後のフアランポーン駅でもサナームチャイ駅でも、そういう特例による乗車は実施している気配はなかった。あれは何だったのだろうか。答えは出ないまま、私は都心の地上に出ていった。
スクンビット駅のエスカレーターを上がっていくと人通りの激しい通路に出た。すぐ横はアソーク駅に上がるための通路で、そのアソーク駅から連絡通路で直結している大きな商業ビルがある。ターミナル21というこのショッピングビルで夕食にする。
ターミナル21は2011年に開業したビルで、ショッピングゾーンは六階まであり、各階に外国の都市名が付き、その都市をイメージした内装となっている。たとえば一階は東京で鳥居があったりする。
ガラス張りの壁に吹き抜け天井となっていて、そこをエスカレーターで上階に向かう。エスカレーターの脇には巨大な金色の人型モニュメントが立っている。
ショッピングゾーンの最上階である六階はハリウッドと題された映画館フロアとなっていた。ここでは日本の映画を日本語で観ることもできるという。
飲食店はいくつかの階にあるが、私が向かったのは五階サンフランシスコにあるフードコート「ピア21」だ。ここはバンコク市内の人気店が出店し、安価にタイ料理を楽しめる。私のような初タイ初バンコクの者が最初の夕食の場所として選ぶには最適の空間だろう。
ピア21は現金ではなくICカードによる購入という仕組みになっていて、まずはカウンターでカードを購入する。チャージしたい金額を渡すと、その金額がチャージされたカードがすぐに発行される。私は100バーツ(約三百八十円)をチャージしてもらった。料理の価格はさして高くないそうだから一回の食事に100バーツもあれば十分だという。
私はカオマンガイを食べることにした。チキンが乗ったご飯である。フードコートにはたくさんの店があり、どこにカオマンガイの店があるのかを探すのが大変だが、コーナーの端に店舗一覧表があるので、そこを参考にするとわかりやすい。無事に店を見つけることができた。
注文は写真を指すか、写真に書かれた番号で伝える仕組みだ。食べたい品目を伝えたら、カードを店員に渡す。そこで精算となる。私が注文したカオマンガイは32バーツだった。激安価格であるが、スープも付いている。チキンが柔らかく、ライスに沁みたダシの味もいい。ネットで調べると、この店はヤワラートという地区に本店を構える創業百年を超える老舗だ。納得の味だった。
各店とも料理の量はやや少なめなので料理だけで二店舗ほど梯子するのは容易である。いろんなタイ料理が楽しめるので梯子したくなるのだが、昼に私は腸の薬を買って飲んでいた。その後は何の問題も起きていないし、例の辛子の感触もなくなった。でも、今夜はほどほどにしておこう。帰りの際にカードをカウンターに返却すると残額が戻ってくる仕組みだが、それはしないことにして私は再訪を決めた。あとは食後の一杯だけである。フードコートなので一杯とは酒ではなくジュースのことである。
十種類以上のフルーツを提供している店があった。先ほどカオマンガイを求めてさまよっている時に見つけて気になっていた。私は酒好きで酒はなんでも飲む人間だが、実は甘党でもある。フルーツジュースも大好きなのだ。買わない理由などない。
どれにするべきか非常に悩んだ。列に並んで待っている間も悩み続けた。事実上のタイに来て最初の夜であるし、オーソドックスに30バーツのマンゴースムージーを選んだ。
館内は非常に賑わっている。席はほぼ埋まっている中、ジュース一杯で席を陣取っているのは気が引けたので、フードコートの席から離れ、ベンチに向かう。木製のベンチがある。そこは照明も少し落としてあり落ち着ける空間だった。私はそこに座り、濃厚で甘く美味しいマンゴーの味を楽しんだ。
ターミナル21を出ると駅に向かう通路は帰宅する人でごった返していた。周辺はビルが多いオフィスエリアで洗練された夜景が広がっているのだが、これから私が乗るのは景色が楽しめない地下鉄である。昨夜から地下鉄に何度も乗っていて、地下鉄以外の鉄道といえばドンムアン空港から乗ったダークレッドラインに乗っただけなので、早くもこのブルーラインという地下鉄に得も言われぬ愛着が湧きつつある。フアランポーンまでの28バーツのトークン購入も慣れたものだ。お釣りが硬貨しか出てこない仕様なのには少し不満はあるが、使いやすい鉄道だと思っている。
ホテルに戻る前に買い物をしようと思う。国鉄フアランポーン駅の並びを少し東に歩くとセブンイレブンがあった。そこで明日の朝食と今夜飲むビールを買う。昨日の朝にダナンのミーケービーチでタイガービールを飲んで以来、酒を口にしていなかった。
フアランポーンは国鉄駅から離れると明かりは薄暗く、賑わっているという印象にはなかったから店は空いていると予想していたが、夜のドライブを楽しむ客が何組か乗りつけていて混んでいた。私はシンハービールと朝食用の野菜ジュースにパン二つを買い、96バーツを払って店を出た。混んでいる店から商品とお釣りを手にしたまま外に出た私は、お釣りの中から1バーツ硬貨一枚を路上に落とした。安価な硬貨は重さもとても軽いのだ。日本の一円玉を思い浮かべてもらえれば理解してもらえることだろう。
薄暗い店先の路上に小さな1バーツ硬貨は見当たらなかった。気を取り直して受け取った硬貨を財布に仕舞って商品をマルチバッグに詰める。歩道の先には屋台が出ていてプラスチック椅子も置かれてある。誰かが1バーツを見つけてくれることだろう。
ホテルの部屋に戻ってきた。エレベーターに乗るには新館に出なければいけないので、出かける時も帰ってきた今も、通りから横に入った新館の玄関を利用した。道を挟んで隣にはドミトリーらしき宿が立っている。それもあってか、道の奥にはローカル食堂もあるようだった。もう空腹でもないのでまっすぐ帰ったが、古く大きな国鉄ターミナルの周辺は歩けば色々と発見がありそうな場所ではある。
水圧の弱いシャワーを浴びてから部屋のベランダに出て眼下の通りを眺める。その向こうに広がる国鉄駅からは今日も何本かの夜行列車が地方を目指して発車していったのだ。日本では過去のものとなってしまった光景だ。
バンコクには地下鉄がある。大きなビルもある。バスもタクシーもたくさん走っている。近代的な便利が溢れている。それは、この旅で歩いてきたベトナムのハノイやダナンとは一味違う風景で、日本の大都市と似た色合いを感じていた。同じ東南アジアの首都であるハノイの色合いよりも、一泊目に滞在した日本の福岡に近い色合いだ。福岡も地下鉄が走り、ビルが林立していた。
だが、福岡には大きなターミナル駅はあっても、そこから発車する夜行列車はもうない。それが旅情を求める旅人には物足りないのだ。そして、そんな旅情を求めていながら、同時にコンビニエンスな都市も求めている。だから私は夕食をフードコートで摂り、明日の朝食をコンビニエンスストアで買った。思考と行動に矛盾があるではないか。
そんな己の心理を分析するのは放棄する。懐古を求めてフアランポーンにやってきた私を、懐古趣味な内装のホテルが迎えてくれている。隣に立つ新館の洗練された廊下の内装とこちらの古びた絵が描かれたドアを比べながら内心では、大通りの夜景をベランダから見ることができるのは旧館の方だと優越感に浸ってもいる。
シンハービールはタイを代表するビールのひとつだが、暑い国の風土に合わせてか、辛い料理の風味に合わせてか、口当たりのいい飲みやすいビールだ。この当たりの柔らかさは、今日一日バンコクを歩いて感じている街と人の空気感と似ている。
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