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車窓を求めて旅をする⑪ 昭和遊園地と昭和商店街 ~別府ラクテンチケーブル線・平成筑豊鉄道田川線~

昭和遊園地と昭和商店街 ~別府ラクテンチケーブル線・平成筑豊鉄道田川線~

     別府ラクテンチケーブル線

 JR全線に乗り終わった私は勢いづいて、未乗の私鉄路線に行き始めた。これまで全国の様々な私鉄に乗ってきた。津軽鉄道のストーブ列車や黒部峡谷鉄道のトロッコ列車。大手私鉄の特急列車から都市の地下鉄に路面電車。
 結果、未乗の私鉄路線で多く残っていたのがケーブルカーである。ケーブルカーは観光地や寺社への輸送を目指して建設されたものが多く、関西は特に様々な路線がある。名松(めいしょう)線に乗った約三カ月後、私は主にケーブルカーに乗ることを目的に関西に出掛け、滋賀県と京都府に残っていたケーブル路線を乗り終わった。次は九州に残るケーブルカーである。
 2019年6月29日土曜日、私はソラシドエアに搭乗して長崎空港にやってきた。初めて降りる空港だ。出口にJリーグのV(ヴィ)・ファーレン長崎の応援フラッグが掲げられている。今夜泊まる諫早(いさはや)で試合観戦する予定だ。
 人工島に設けられた空港からバスで16分の大村駅に着いたあたりから天候が怪しくなってきた。大村線から長崎本線に乗り継いで諫早を過ぎたあたりで雨の気配が訪れ、海が見える駅ということで降りた東園(ひがしその)はホームが移転して海岸から少しずれていたり、諫早城のそばのホテルに荷物を下ろして、夕方に城跡とサッカーを観に行けば途中から雨となったり、夕食を当て込んだ諫早駅前で空振りに終わって駅のコンビニのお世話になったり、あてが外れっ放しの初日であった。
 二日めも雨模様で、島原鉄道に乗って天草四郎(あまくさしろう)で知られる島原の乱の舞台である原城に行く予定だったが、土の城を雨中歩くのは気乗りせず断念した。
 そうは言っても、島原鉄道に久しぶりに乗ってみたくもあり、私は島原で降りて町中にある島原城を水掘から眺めたり、武家屋敷を見学したりして過ごし、午後は長崎本線の普通列車で干潟を眺めたりしながら佐賀県の鳥栖(とす)にやってきた。
 鳥栖もひどい雨で、予約した旅館に荷物を置いて駅横のスタジアムまで10分ほど歩いただけで足元はずぶ濡れになった。
 前夜の長崎もこの日の鳥栖もスタンドに屋根のあるスタジアムだったので試合中はよかったが、初夏と言えど夜の雨の冷えっぷりは身に沁みた。帰り道、折り畳み傘が用を成さない振り方に辟易して店探しを諦めた私は、またもやコンビニのお世話になったのだった。

 二日間、雨の思い出と大したものを食べていないという事実に心を包まれながら、私は月曜朝のラッシュの鳥栖駅から博多方面の快速に乗った。天気は曇りだ。ようやくという思いがあった。
 快速は門司港(もじこう)行きで、私は博多を通り過ぎ、北九州市の八幡(やはた)で降りた。製鉄の町である。
 駅前はちょっとした都市の顔だが、建物の並びの向こうに山が並んでいる。これからそこに向かう。道に疎いので駅前からタクシーを利用した。運転手と旅の話などしているうちに道は急な坂となり、目的地には5分ほどで到着した。
 皿倉山(さらくらやま)ケーブルカー山麓(さんろく)駅は山麓というより中腹にある駅で、斜面に造成された住宅地が切れて山中となる境に設けられていた。
 窓口で往復券を買う。ケーブルカーが800円、スロープカーが400円。合計1200円である。スロープカーなるものがよくわかっていないし、私鉄乗りつぶしに必要なのはケーブルカーの路線だけなのだが、山頂からの景色を堪能するにはケーブルカーだけでは駄目らしい。係員に言われるがままに切符を買った。
 ケーブルカーにしては緩めの勾配なホームには、黄色の大きな窓を持つ真新しい車両が停車していた。愛称が付いている。「はるか」とある。10時ちょうどに「はるか」は山麓を出発して勾配を登り始めた。
 6分で山上(さんじょう)駅に着く。すでに車窓からは北九州の市街がよく見下ろせたが、ここから更に頂に上がる。山上駅の外に出ると小さなホームがあり、そこにケーブルカーの半分くらいの車両が停車している。
 スロープカーは真ん中にドアが一枚だけの簡素な構造で、箱型なそれはロープウェイを思わせた。一本のレールが、芝生となっている斜面を蛇行しながら、へばりつくように頂を目指して延びている。私しか乗っていない箱は、斜面を小刻みに揺れながら登っていき、3分で展望台駅に到着した。そこは、電波塔と見晴らし台があるだけの寂しい空間だったが、眼下には市街地が広がっている。工場が多い。その向こうには海だ。高いビルは少ないが、北九州市は政令市だから建物が密集している。夜景はさぞ綺麗だろうと想像した。

 ケーブルカーの山麓駅から徒歩で八幡駅に戻り、小倉で電車を乗り継いで大分県の中津にやってきた。今夜は中津に泊まるので、荷物をコインロッカーに預け、再びホームに向かう。13時13分発の日豊(にっぽう)本線の普通列車は昼下がりの閑散としたローカル列車だったが、座席がロングシートであった。
 車窓は起伏の少ない山地を抜け、次第に市街地が近づいていく。海岸線の近くまで低い山が迫り、限られた平地に家や畑が形成されている。
 14時24分、列車は別府(べっぷ)に着いた。温泉で知られる町で、今まで何度となく訪れ、温泉にも何度か入っている。古い共同浴場がいくつもあり、駅前には大正建築の温泉もあるという楽しくなる町だが、今回の目的は温泉ではない。
 別府駅を降りて海とは逆の西方に向かって歩くこと20分、だんだんと景色は町はずれとなってきて、前方に低い台地が現れた。そこに開けた空間があり、その先にヨーロッパの城のような形をした黄色の建物がある。建物には「ラクテンチ」とあり、それだけでは一体何の建物か見当がつかないが、まっすぐに建物に向かう。
 建物に入ると窓口と待合室があった。ここで切符を買うことになる。私はこのラクテンチという施設内を走るケーブルカーに乗りに来たのだ。大分県唯一の私鉄である。
 切符は1300円だった。安くない値段だが、これはケーブルカーに乗るためだけの切符ではない。ラクテンチは遊園地であり、この切符は入園料込み、つまりケーブルカーは遊園地に行くための経路のひとつであり、それ以外の目的で乗る乗り物ではないという扱いになっている。
 夕方が迫る時刻に一人で遊園地に向かう者など他には居ないが、係の女性は笑顔で切符を発行し、私一人を乗せたケーブルカーの車内では私一人のために女性運転士が案内放送をしている。
 15時ちょうどにケーブルカーは発車した。この遊園地入口には雲泉寺(うんせんじ)という駅名が一応付いている。「ラクテンチ下」という別称も付いていて、山上にある駅にも「ラクテンチ上」という別称が付けられている。
 ドリーム号という愛称の付いた茶色の車両は二枚窓の前面の素っ気ないデザインで、その形といい塗装のほどよいムラといい、結構古いものであることが窺い知れた。後で知ることだが、6月3日をもって車両に施されていた装飾が撤去されたばかりだという。それまでは、私の乗ったドリーム号は犬型で、もう一両のメモリー号は猫型のデザインの車両だった。
 昭和二十六年(1951)製という、日本に現存するケーブルカーでもっとも古い台車を使用しているという車両は5分かけて斜面を登り、山上の遊園地に私を導いた。着いた駅の名は乙原(おとばる)とあった。
 平日で、閉園時間まで一時間半ほどなので人は非常に少ない。ケーブルカーに乗りに来たのだが、すぐに帰るのは切符が勿体ないし、別府の町を見下ろす立地にある遊園地という面白さに、少し歩いてみることにした。
 ケーブルカーのスタッフもそうだったが、園内のスタッフも皆若い。二十代限定で運営しているのだろうかと思えてしまうほど、すれ違うスタッフは大学生のような風貌だった。
 設備はどれも古く、建物はほどよくくたびれた感じが出ている。古いといっても整備はしっかりとされているようで塗装も綺麗だが、漂うムードが今のものではない。それが楽しくもある。そういうズレ具合を味わう場所かもしれない。東京浅草の花やしきに通じる面白さだ。
 園内を歩いていくとはずれに温泉があった。さすが別府だ。勇んで足を向けたが、16時までの営業で、最終入場は15時だった。残念ではあるが、近くに足湯があったので、そこでくつろぐことにした。
 空は曇ったままだ。そんな空の下、緑の斜面に包まれ、遊戯施設が密集している。シュールな眺めだが、非日常感がある。遊園地は非日常感の演出が大切だ。
 そんなことを思いながら足湯に浸かり、ぼんやりと景色を眺めていると、温泉から出てきた中年夫婦が足湯に入りに来た。婦人が持っていた飴を分けてくれた。雨と飴に縁がある旅である。

 別府駅前には「べっぷ駅市場」というガード下のレトロ商店街があった。そこを通って駅に向かった。結局温泉には入らないまま、私は昭和を感じながら別府を歩いて、これから中津に向かう。
 中津まで行く普通列車はしばらくない。その時刻まで待って温泉に行ってもよかったが、途中駅止まりの普通列車を乗り継いで駅めぐりをしてみようと思う。
 16時42分の亀川行きは二両の車内が高校生で溢れていた。7分で終点に着き、よく整備された駅前に出てみると、そこは別府の郊外で、案内板によると駅近くの海岸には温泉共同浴場もあるようだった。心が惹かれる情報だが次に向かう。
 17時09分に亀川を出た次の列車は大神行きだが、私は6分で降り、豊後豊岡(ぶんごとよおか)という木造駅舎の無人駅に立った。別府に向かう途中に車内から目星を付けていた駅だった。
 豊後豊岡は駅の近くに海岸があったが、国道が横切っていて、しかも横断歩道はなく、海を遠目に眺めて駅に帰った。静かな駅の木製ベンチに座り、別府駅で買った大分の地酒「西の関」の二合瓶を飲む。周辺は海に面した小さな集落だったが、列車の時刻が近づくと女子高校生が一人私の横にやってきた。
 17時41分の中山香(なかやまが)行きに乗り、終点に着いたのは18時ちょうどだった。中山香は山に挟まれた集落で、県境の町のような雰囲気が漂っている。それは、山への入口の宿場町を思わせる古びた商店街が駅前に延びていたからだろう。列車から降りた十名足らずの高校生たちは、その商店街に吸い込まれていった。
 漆喰の壁の商店や旅館らしき建物が並ぶ通りを歩く。空はだいぶ暗くなってきた。現役なのか廃屋なのか見当のつかない建物が多い。写真を撮っていると、歩いていた男性に話しかけられ、中山香の町の昔話を少し聞けた。
 駅に戻ると猫が佇んでいた。この先は豊後から豊前(ぶぜん)となる。今夜は豊前の側の中津だが、もう少し豊後に居たい気もした。

     平成筑豊鉄道田川線

 地方のアーケードは今やシャッター通りと化している所が多い。大分県の中津もそうだった。
 それでも中津はまだいい方だと言えた。2014年の大河ドラマ軍師官兵衛(ぐんしかんべえ)の飾り付けがまだ施されている。城下町としてのアピールを精一杯している。点在という表現がふさわしい数ではあったが飲食店もあった。
 私はそんな中の一軒に入った。おばあさんが一人でやっている食堂で、ハモのどんぶりを注文すると、おばあさんは奥に下がり、結構待たされたのちに沢庵と味噌汁を添えたハモどんぶりが運ばれてきた。
 壁には中津城の写真が飾られている。明日行くのだという話をした。おばあさんは「小さい城だけどね」と謙遜してみせた。
 翌朝になった。今回の旅はずっと雨か曇りだ。中津の朝も曇りだった。部屋に荷物を置いたまま、カメラ片手に私は城に向かった。
 中津は大分県としては北端の町で、豊前国としては南端に近い町である。福岡と大分の中間といった位置だが、町の雰囲気は南国ムードがあった別府や大分とは少し異なる。木造の格子戸の建物が並ぶ細い通りがある。古い建物が洋風だった別府とは趣きが異なる。その通りの先に中津城はあった。
 中津城は中津川を天然の堀とする位置に立つ城で、天守も川のすぐ横に立っている。復元天守ではあるが、昨夜の食堂のおばあさんの言葉通り天守は小さい。小さい。城内は公園になっている。
 歩いていくと神社があった。中津大神宮である。そのそばに城井(きい)神社が静かに立っていた。私はここを訪ねるのが今朝の目的だった。
 城井神社は城井宇都宮(うつのみや)家を祀った神社である。城井宇都宮家は下野(しもつけ)の名族である宇都宮家の分流で、戦国時代に豊前の南を地盤にしていた武家だった。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の天下統一で九州にやってきた黒田家がこの地を治めることになり、反発した城井宇都宮家の人々は、中津城に招かれて騙し討ちを受けたりして滅亡した。そのいきさつが綴られた小説を読んでいた私は、中津を訪れた際には城井神社に参拝したいと思っていた。
 石の鳥居をくぐり、社殿の前で手を合わせる。
 雨が降ってきた。慌ててホテルに帰り、支度をして駅に向かった。今日は福岡県に入り、夜に福岡空港から帰路に就く。その前に九州で最後の未乗路線となった福岡市営地下鉄七隈(ななくま)線に乗る。

 9時13分発の日豊本線の普通列車に乗り、20分で行橋(ゆくはし)に着いた。雨はすでに止んでいる。ここは福岡県で、駅も高架駅だから都市圏にやってきたという実感はある。
 接続よく10時ちょうどの平成筑豊(へいせいちくほう)鉄道田川(たがわ)線の列車が一両で停車していた。小型の気動車で、側面にはたくさんの地元のゆるキャラがラッピングされている。車内はロングシートだ。ドア付近にはくず物入れが設置されている。
 火曜日の午前に町から離れていく列車だから、車内は空いていた。筑豊は炭鉱地帯で、沿線はかつて炭鉱で栄えた地域だが、車窓はのどかな農村であり、低い台地の下の田畑を眺める旅である。
 58分で目的地の田川伊田(たがわいた)に着いた。ここはJRの日田彦山(ひたひこさん)線が接続している。ホームは煤けた低いホームで、短い気動車よりも蒸気機関車が牽く長い客車列車が似合いそうな構えだ。構内は割と広く側線跡も多い。だが、人の気配は少ない。
 2019年に完成したばかりだというホテルを併設した三階建ての茶色い駅舎は洋館風な優雅なもので、小さいながらも駅前ロータリーも備える。駅の左手に伊田商店街というアーケードがある。私はそこに向かった。
 アーケードは昔ながらのという形容詞が似合うくたびれ感があった。ずらりと並ぶ店舗の多くがシャッターが下りたままだが、そこにイラストが描かれ、少しでも明るい雰囲気を出そうという工夫がされていた。天井には祭りの提灯の飾り付けもされている。
 伊田商店街の横の道には飲食店街があるが、こちらもどこまでが現役なのかはわからない。炭鉱で栄えた頃は、ここに買い物客が集い、夜になれば横丁で盛り上がる。そんな時代があったのだ。それはどのあたりで終幕したのだろうか。町のくたびれ具合を見ると、平成の時代よりも昔のように思えた。
 アーケードの外に並行する県道を通って田川伊田駅前に戻ってきた。駅前に風治八幡宮(ふうじはちまんぐう)という神社があるので立ち寄って参拝してきた。道路の位置より少しだけ高い位置にある神社で、境内は明るい雰囲気だった。九世紀の伝承が残る古い神社である。

 田川伊田で線路は二手に分かれる。平成筑豊鉄道は田川線から伊田(いた)線と名を変えて北に向かい、日田彦山線は西に向かう。私は11時57分の日田彦山線で隣の田川後藤寺(たがわごとうじ)に向かった。キハ47という国鉄時代の気動車による二両編成で、古びた青いクロスシートが並ぶ車内は空いていて旅情がくすぐられたが、所要時間はわずか4分だ。
 田川後藤寺は三路線が交わる駅で、南に向かう日田彦山線から分かれるように西に向かって後藤寺線という短い路線が延びている。
 先ほど遠ざかっていったばかりの平静筑豊鉄道も田川後藤寺で再び姿を現す。北に向かっていった伊田線の線路がその先の金田(かなだ)で南西に向かう糸田(いとだ)線を分岐させ、その糸田線がここ田川後藤寺に到達する線形だ。平成筑豊鉄道で田川伊田から田川後藤寺まで行こうとすると三角形の上辺を大回りしていくような形となり、乗り換え時間を含まずで30分近くかかる。
 このように複雑な線路網が敷かれているのは、この地域の鉄道の多くが炭鉱で採れた石炭を運ぶために敷設されたものだからで、国鉄時代は今よりも路線が多かった。乗客が減り、貨物輸送もなくなって、廃止される路線が出た。平成筑豊鉄道も廃止検討された路線を第三セクター化したものだった。
 田川後藤寺は三路線も集まっている割に駅舎は小さく、緩い傾斜のついた駅前広場も狭い。細い駅前通りを歩いていくと、ここにもアーケードがあった。「田川ごとうじ銀天街」と楷書体で書かれた入口看板の上の大看板には藤の木の絵とともに「伝統とふれあいの街」と大書されていた。
 こちらのアーケードも田川伊田と同様にシャッター通りとなっていた。並ぶ店舗のシャッターの汚れ具合からも、寂れていった年月の遠さが窺い知れる。こちらは田川伊田のようなささやかな装飾もないから、侘しさはより募った。
 だが、田川ごとうじ銀天街は若干の人通りがあった。アーケードの先に高校があるようだった。ここは通学路となっている。高校生が多数通過しても商売の続行は難しいということなのだろう。

 田川後藤寺駅前の食堂でNHK朝の連続ドラマの昼の再放送を見ながら焼きそばを食べ、13時19分発の後藤寺線に乗って新飯塚に出た私は、篠栗(ささぐり)線に乗り換えて14時37分に博多にやってきた。
 コインロッカーに荷物を預けた私は、市営地下鉄で福岡市随一の繁華街である天神(てんじん)に着き、10分ほど地下街を歩かされて七隈線の起点である天神南駅に着いた。
 七隈線は2005年に福岡市営地下鉄三番目の路線として開業した。開業した年を思えば、もっと早くに乗り終わっていてもよかったが、ニュータウン路線のような線区だから気が向かずにいるまま、九州最後の未乗路線となってしまった。
 車両はミニ地下鉄という横幅の狭いもので、前年に札幌ドームに行く際に乗った札幌市営地下鉄東豊線を思い出す雰囲気がある。新しい路線だから車両も今風の、前面が斜めに傾いたデザインで、黄緑色のカラーリングで都会的な雰囲気をまとっている。
 全線地下なので乗っているだけでは旅情に乏しい路線だが、線名となった七隈以外にも、薬院(やくいん)、桜坂(さくらざか)、茶山(ちゃやま)、梅林(うめばやし)、次郎丸(じろうまる)など味わいのある駅名が続く。走り始めて23分、終点の橋本は郊外のショッピングモールに隣接した駅だった。
 ショッピングモールを少し歩いてから折り返し、六本松(ろっぽんまつ)という駅で降りる。ここから徒歩で福岡城に向かう。地下鉄で全線完乗だと感慨も湧きにくく、橋本にいた時点で気持ちは既に福岡城に向かっている。
 やってきた福岡城は復元天守などないのが好ましく、広大な敷地に築かれた石垣の規模が、近代都市福岡の風景と不思議な調和を見せ、曇り空の下の広々とした公園にそびえ立っていた。乗っていない鉄道路線は九州にはもうない。だが、歴史の古い九州の地には訪れるべき場所がまだ多くあると実感しながら、私は石垣の上から町を眺めた。

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