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2022 ベトナム・タイの旅⑨ ~バンコク市街から空港~

再会する夕陽 ~2022年8月9日 バンコク市街から空港~

   BTSゴールドライン

 アラームをセットしないで寝てみた。旅の序盤は五時半に目覚める日が続いたが、もう身体は東南アジアの時間に慣れたようで時差というものは忘却の彼方にある。時計の針は8時前だった。
 朝の下町を歩いてみようと外に出たが雨季特有の空模様といったところだろうか、雨こそなかったが今日は曇っていた。前回と同様にセブンイレブンで朝食を買う。前回この店で買ったチョコドーナツとクリームどら焼きに、昨日も食べたランチパック的なパンである。我ながらワンパターンだと思うが、どら焼きはもう一度食べてみたい味だった。飲み物くらいは今まで買っていないものにしようと思い、ブルーベリーセーキにしてみた。甘い。ちなみに、会計は54バーツである。
 天気は今一つだが蒸し暑い。今日はこの旅最後の海外滞在日なので張り切って出かけたいのだが、のんびりしているうちに十時半になりチェックアウトした。
 帰国時に日本政府指定のアプリに個人情報を登録し、PCR検査の陰性証明書のファイルをアップロードしておく必要がある。昨日の夕方に検査結果が出てから登録は済ませておいたが、今朝起きてアプリを確認すると画面が「帰国OK」を示す緑色に変わっていた。これで晴れて日本に帰国できる。
 フアイクァン駅に着いた。すっかり慣れた地下鉄の券売機とも今日でしばしのお別れである。硬貨しか返ってこないお釣りの仕様も今となっては愛おしい。
 昨夜、夕食のために降りたスクンビットまで24バーツの切符(トークン)で移動し、昨日も通ったアソーク駅への通路を上がり、スカイトレインの乗り場に向かう。向かうはチットロム駅で、アソークからは三駅だから運賃も26バーツと安い。電車は都心のビル群の中を静かな走行音で走っていく。混んでいて座るのが難しい電車だが、スカイトレインの静かな走行と架線柱のない高架は近代都市景観にふさわしい洗練された交通機関だと感じている。
 チットロムもビルが立ち並ぶ中にある駅だった。高架上の通路にいると笛の音が聴こえてきた。その高い響きは郷愁を誘ういい音色だ。音に誘われるように歩いていくと目的地が近づいた。目指すのはパワースポットとして知られる「プラ・プロム」、日本人には「エラワン・プーム」と呼ばれているヒンドゥー教の廟である。
 プラ・プロムはハイアット・エラワンホテルという建物の脇の交差点の角にある。1953年にホテルの建設工事で事故が多発したことがきっかけとなり、ヒンドゥー教の教神ブラウマーを祀ったのが始まりだという。その後、この地を訪れて祈りを捧げる人が多くなったことを受けてホテル側が整備した。
 今日は火曜日だが大勢の人が集まっている。金色の祠に祀られたブラウマー像の周囲には参拝者からのお供え物がたくさん置かれてあった。
 交差点の角にある廟だから決して広い空間ではないが、多くの参拝者が集い、それを見つめるように金色のゾウが並んでいる。私も祠に手を合わせた。
 チットロム駅に上がる階段に向かう途中、先ほど聴こえていた笛の奏者が歩道にいた。奏法についてを語れる知識は持っていないので技巧のレベルはわからないが、その旋律には心に優しく入ってくる音の波があった。横笛を巧みに操るおじさんの奏でる音色に耳を傾け、硬貨を一枚払う。
 チットロム駅から隣のサイアム駅まで線路の下に通路が通じている。つまり高架上の通路だ。上から街を眺めると、ビルとビルの間に所々緑の空き地がある。公園として使われているようだが、これだけ周辺が開発されている中、どんな理由で空き地になってしまった箇所なのかだろうかと、その理由が気になる。もっとも、都会の中に緑があるのはいいことだ。東京の都心は小規模の公園がもう少し点在していてもいいのにと、歩く度にいつも思っている。ビルばかりでは心の落ち着ける場所がないのではないだろうか。
 サイアム駅に通じる通路は広告の道でもある。人が大勢通るのだから当然だが、広告の見本市のような空間だ。タイの女優かモデルだろうか、美しい女性が笑顔を向ける大型広告がいくつかある。アソークでは美形な男性の大型広告を見た。顔の好みは国によっても違うのだろうが、広告に起用されるような人たちだがら日本人が見てもナルホドと頷ける顔の持ち主ばかりである。サイアム駅近くのこの広告の女性たちも可愛らしい。
 これから乗るのは、昨日もナショナルスタジアム駅から乗ったスカイトレインのシーロム線だ。バンコクにやってきて二日間は地下鉄ばかりでスカイトレインに乗る機会はなかったが、一昨日に初めて乗ってから今日まで三日間はお世話になりっぱなしだ。
 都心から離れていく電車は座れる程度の乗車率で、私はドアの脇に腰を下ろした。スカイトレインの外装は広告ラッピングが施され、ドアの窓の形が単なる四角ではないなど個性的な外観で、今乗っている電車のドアの窓は五角形を横に寝かせて先端を内側に向かい合わせたデザインとなっている。窓の下には白いシャツをまとった女性と男性が手を取り合っているイラストがドア内側に描かれている。ドアが開く度に男女は離れていき、ドアが閉まる度に男女は近づいていく。そういう位置関係になっている。それは人生のような、旅のような、そんな感傷的な気持ちにさせてくれるイラストを見つめている。
 ドアの横の座席の一部が優先席に設定されている。座席に描かれた優先席の表記も独特だ。対象者についてを漫画チックな可愛らしいイラストで表記しているのだが、その中に僧侶がある。これが日本とは違うところだ。この優先席の扱い方は地下鉄でも同様で、実際に地下鉄の車内で私の隣の優先席に僧侶が座っていたことがある。
 電車は郊外に向かって走っていき、クルントンブリーに到着した。この駅で降りるのは初めてである。
 クルントンブリーからはBTSゴールドラインという路線に乗り換える。今乗ってきたシーロム線と同様にBTSという同じ運営機関による鉄道だが、切符は別に購入する必要があり、サイアムで買った40バーツの切符(ICカード)をここで改札機に投入して出場し、切符を買い直さなくてはならない。
 改札を出たすぐ先にゴールドラインの券売機と改札があった。クルントンブリー駅は2009年にシーロム線が延長開業した際にできた新しい駅だが、ゴールドラインは更に新しく2020年に開業した新路線である。私の所有しているガイドブックにも新し過ぎて掲載されていない。
 ゴールドラインの車両が描かれた14バーツのICカード型切符を購入してホームに上がると、小さな島式ホームがシーロム線の駅の端に存在していた。列車は二両編成で、12時14分、私が乗り込むとすぐに発車した。
 車内はそれほど混んでいなかった。短い車両は二つドア車で、ドアとドアの間は座席がなく、座席は車両の両端にだけ赤いプラスチック製ロングシートが配置されている。
 二両編成ではあるが両車は貫通しておらず、前後に正面窓のついた車両を二両連結して走っている構造だ。ゴールドラインは案内軌条による無人運転を行う鉄道で、つまり日本でいうところの新交通システムの鉄道路線となる。乗り心地も東京のゆりかもめ辺りと似ていて、走行時にタイヤから突き上げる小さな衝撃がある。
 マンションが並ぶクルントンブリーを出た電車は高架下の道路に合わせてS字カーブして東進していくと、チャオプラヤー川の少し手前で直角に左カーブして北に向きを変えた。マンションと空き地の開発エリアの中をゆっくりと走っていく。私の前に座っているのはインド系の顔立ちの家族で、この無人運転の電車の車窓を楽しそうに見ている。座席のない空間ではカップルが窓の向こうのバンコク中心部の遠景を見ながら会話を交わしている。楽しそうな雰囲気に溢れた車内は次の停車駅チャルンナコーンに着くと閑散としたものに変わった。
 ほとんどの乗客が降りた電車は小さく左カーブをして、12時20分に終点のクローンサーン駅に着いた。
 降りた人はとても少ない。写真などを撮っていたので、気づくと周囲には私しか乗客はいなかった。改札を出て、道路を跨ぐように延びている連絡通路の上から周辺の風景を眺めた。空き地があちこちにあるが、思ったよりも下町風景だった。開発途上といったところかもしれない。
 私はアイコンサイアムに行こうと思っている。今乗ってきた電車でほとんどの乗客が降りたチャルンナコーン駅はアイコンサイアムに直結した駅だった。だが、ここからゴールドラインに乗って一駅戻るよりも歩いてみようと思う。日差しが出てきて暑いのだが、先ほどクルントンブリー駅で乗り換える途中に構内にあったローソンで19バーツのコカコーラを買ってある。これを飲みながらアイコンサイアムを目指して歩く。そして、まっすぐには向かわず、途中の町を見ていく。
 この途中の町を見ていくという気ままな行動は人に説明が難しい。通路の上で景色を見ながら思案していた私を見た警備員が声を掛けてきた。相手が警備員だから職務質問的なものかと身構えたが、そうではない風だった。私が道がわからず困っていると思い、道を教えてあげようとしてくれている。そういう穏やかな空気があった。
「チャオプラヤーリバー」
 どこに行きたいのかとタイ語で尋ねたらしい警備員に、私はそう答えた。警備員は納得した様子で頷いてみせると、身ぶり手ぶりで方向を教えてくれると、笑顔で私を見送ってくれた。「気をつけていってらっしゃい」そんなニュアンスのことを言ってくれた気がする。
 歩道に下りて少し歩くと、チャオプラヤー川に向かって店が並ぶ一角が現れた。大きな川のそばには舟運によって集落ができる。それは、古くからある町の成り立ちの基本ともいえる。店の横には犬が昼寝をしている。暑そうである。
 更にアイコンサイアム方面に歩いていくと赤い大きな柱が立っており、そこにも店が並んでいた。この先に小さな桟橋があるようだった。
 もう視界には巨大な建物が現れ始めている。通りに戻って高架に沿って歩いていくと、左手にアイコンサイアムが現れた。下町情緒を残す川沿いの古い集落を囲むように、マンションやコンドミニアムや巨大ショッピングモールが立っている。それがゴールドラインの沿線風景だった。

   アイコンサイアム

 アイコンサイアムの入口には日本の高島屋のロゴが入っていた。車寄せを横切り、きれいなガラス張りの入口から店内に入ると、心地いい冷房の風が身体を包んだ。アイコンサイアムのショッピングエリア自体は八階まであるようだが、区画によって最上階は異なる。高島屋の区画は途中階までとなっている。高島屋の内装は日本の高級百貨店の雰囲気そのもので、店内に流れている音楽に耳を澄ますと松原みきさんの「真夜中のドア」が流れている。近年海外に於いて日本の80年代シティポップが人気となっているが、その火付け役となった曲である。
 さて、私がここにやってきたのは高級百貨店で買い物をするためではない。そういう身ではない只の旅人だから、向かうは昼食のできる場所である。アイコンサイアムには食事の名所ともいうべき場所が一階にある。その名も「ソークサイアム」という。水上マーケットを模して店内にミニチュア運河の如く水路を巡らせ、タイ全七十七県の名物が集まった食事とお土産の一大スポット。そんな感じの場所だ。
 ゆったりとした空間が広がっていた店内が、ソークサイアムに足を運んだ瞬間に一変した。照明を落としたその空間には、柱や置物などにタイの民芸品の装飾が施され、私のような外国からの観光客が楽しめる空間となっていた。時刻は午後1時を回っているから空腹だ。タイ料理の屋台がたくさん並んでいる一角に足を向けた。
 さて何を食べるか。昨日の昼にインドのカレーを食べて、その値段の高さと高額紙幣を断られた思い出が記憶に新しいのだが、今日もカレーを食べたいと思う。今日はタイのカレーを食べる。歩いているとカレーの屋台は見つかった。チキンカレーが60バーツ。昨日はオレンジジュースと合わせて494バーツだったが、それはもう忘れよう。
 屋台の前のテーブルが空いていたので座る。フードコートと同じで屋台があり、その周囲にテーブルが用意されている。建物が高級志向で内装もお金がかかっていそうなので料理の価格が気になったけれど、思いのほか安くて安心している。そして、案外量もある。いや、食べる人によって感じ方は色々あるだろうけれど自分には量がたっぷりだと感じた。これは嬉しい話である。
 さて、味の方はどうだろうか。注文する前から美味しそうな匂いがしていたので確信があったが、とても美味しかった。辛すぎず、勿論甘い訳でもない。まろやかだがコクもある。そんな感じだ。ライスもふんわりとしていて美味しい。カレーの上に乗った骨付きチキンはなかなかのボリュームで食べ応えがあり、そして美味しかった。ライスの横に付いていた青菜もよい。
 私はかなり満足して席を立った。コーラを飲み切ってしまい手持ちの飲み物がなくなってしまったが、とりあえず今はお腹がいっぱいだ。どこかで休みたい。先ほどから歌が聴こえてくる。この屋台コーナーの片隅にステージが設けられ、そこでライブが行われている。海外ポピュラーソングのカバーが中心のライブのようだった。男性歌手が甘い声でバラードを歌い上げる。ステージ近くのベンチに座り歌を聴いていると、「Fiy me to the moon」が始まった。一番は英語で、二番をタイ語で歌っているのがわかる。他の曲も基本的にそういう構成で歌っていた。
 同じ場所に何も飲食せずに長く座っているのは気分が落ち着かない。適当な場所に移動して休もうと考えて店内をうろついているうちに駐車場の入口の脇にベンチがあるのに気づき、そこで少し休んだ。場所が場所だけに冷房の効きが弱く少し暑いが、ここはとても静かだ。私がくつろいでいると同じことを考えついたタイ人男性もやってきてくつろぎ始めた。同士が増えると心強い。

 基本的にアイコンサイアムは高級志向なショッピングモールである。駅の方の玄関も大きかったが、チャオプラヤー川に接した玄関は更に立派だった。こちら側は二階に外国の高級ブランドの店が並び、壁や電飾に金色が多く使われていて宮殿のような趣きがある。こういうフロアのトイレはどうなっているのだろうかと興味が湧いた私はトイレに行ってみた。
 通路を歩き、トイレが見えてきた。中に入ると驚くしかなかった。日本も含めて、今まで見たショッピングモールのトイレで一番きれいだ。いや、圧倒的一位に選びたいモダンなトイレだった。出て来てからもう一回中を見てみたくなったが、トイレに至る通路の途中に椅子に座っているだけの係員がいた。警備員かもしれない。おかしな行動は慎みたい。
 チャオプラヤー川に接した玄関の横には泉が作られ、全面ガラス張りとなっていた。二時間ほど冷房に当たっていた身で外に出た瞬間、気温と湿気で気持ちが後ずさりしたが、気を取り直して川を見る。大きな川が眼前に横たわり、悠々とした流れを見せてくれている。
 このチャオプラヤー川には水上バスがいくつかの系統で運行されている。鉄道でいう各駅停車だけでなく快速も運行されているほどで、観光客のみならず地元民の足にもなっている。それに乗って北の方向に出てみようと考えた。特に行先は思いつかない。乗り場に出向いてから考えようと思う。
 このアイコンサイアムの前に船着き場があり、テントが張られてベンチも並べられていた。そこから出ているのかと思ったが、ここは対岸に行く無料水上船の乗り場なようで、まずはそれに乗って移動してみることにした。
 時刻は午後3時を回っていた。思案しているうちに船は出ていくが、少し待つと次の船がやってくる。乗り込んで対岸に向かった。川には思ったほど船の姿はない。遊覧船のような船と一回すれ違っただけだ。減便しているのかもしれない。
 川の水は茶色に濁っているが川幅があるので景色も風も気持ちがいい。船は南に向かって斜めに川を走り、大きな橋のそばの桟橋に着いた。
 乗船して5分ほどで着いた対岸の桟橋はサートン・フェリーターミナルという場所だった。ここからチャオプラヤーエクスプレスという水上バスに乗ってみたいと思う。地図を見ながら行先を考える。遠すぎず近すぎずな場所にしてみたい。船着き場には鉄道駅のようにステーションナンバーが振られている。今いるサートンは「CEN」で、北方面はアルファベットの「N」と数字が付き、南方面は「S」に数字が付く。私は「N7」のラーチニーという所まで行ってみようと考えた。ここで下船すると、徒歩でほど近い所に地下鉄のサナームチャイ駅がある。この後の行程を考えるとベストな行先に思えた。
 私は切符売場に向かった。桟橋にはいくつかの会社の切符売場が並んでいる。どこの売場に行けばラーチニーという所までの切符が買えるのかわからず、私は案内板で確認をしていた。そんな姿を見て女性係員が声を掛けてきた。私はN7に行きたいのだと説明した。小柄なその女性係員は申し訳なさそうな表情でこう言った。
「Close 運休です」
 彼女は両手でバツを作り、流暢な日本語を交えてそう答えた。そして、路線図のN7の部分を指して、こう付け加えた。
「この三つのステーションに行く船は運休です」
 ラーチニーという船着き場は各駅停車しか停まらない所で、それが理由なのかどうなのか。長い期間続いた行動制限と規制から開けて間もないバンコクでは、まだ完全に交通機関が元に戻っていないようだった。
 残念である。彼女も申し訳ないという顔を見せてくれている。未練を残しつつ、お礼を言ってサートン・フェリーターミナルを離れた。流暢な日本語を話す彼女の語学力が活かされる日はきっと近い。街は少しずつ以前の景色を取り戻している。そう信じている。

 フェリーターミナルの出口から細い屋根付き通路が延びていた。すぐそばにはチャオプラヤー川を越える橋が架かっていて、車道の上下線の間にスカイトレインの橋梁がある。通路を歩いていくと、そこにスカイトレインのサパーンタクシン駅の乗り場があった。
 階段を上がっていくと券売機が並んでいた。見ると、どの券売機も紙幣が使えないようだった。購入する切符は30バーツだったが相当する硬貨を持っていなかったのだ。
 券売機は空いているが窓口は混んでいる。列に着き、私は100バーツ紙幣を出して「サラデーン」と行先を告げた。
 15時44分、クルントンブリーから橋を渡ってきた電車がホームに入ってくる。今回の旅でスカイトレインに乗るのはこの便が最後だろう。車内はそれなりに混んでいる。15分乗ってサラデーン駅で降りる。
 路線図で見るとサラデーン駅と地下鉄のシーロム駅は乗り換え駅として隣接しているように見えるが、実際はそうではなかった。線路の高架に沿って屋根付き通路が延びていたが距離が少しあった。この通路の下を通っている道路がスカイトレインの線名になっているシーロム通りで、スカイトレインにはシーロム駅はない。シーロム駅は地下鉄ブルーラインの駅である。
 シーロム駅の入口はルンピニー公園のそばにあった。広大な公園でバンコク市民の憩いの場だが、今回の旅では行けていない。まだ午後4時だ。もう少しバンコク市内を散策してみても良さげな時間だが、私には目指す場所があった。陽が出ている内にそれを堪能したい。
 券売機で19バーツの切符を買い、二駅先の駅に向かう。16時15分に乗った地下鉄の電車は、わずか4分で目的地の最寄り駅に着いた。目的地は、バンコク二日目に訪問し、翌日列車に乗った国鉄フアランポーン駅である。私はここから国鉄の列車に乗る。今夜はスワンナプーム空港から深夜便に乗って日本に帰国するが、私にとっての今回最後のバンコク観光は街でも店でも公園でも川でもなく、旧型客車の鈍行列車に乗ることだった。

   スワンナプーム空港

 地下鉄から国鉄への通路を歩いている。壁に昔の地元風景の写真を展示してある通路だ。ここを抜けると何十年と大きく変わらぬ風景が高くそびえている。
 今夜発つ帰国便が出る空港は入国の際に利用したドンムアン空港ではなくスワンナプーム空港である。スワンナプーム空港はバンコクの主要玄関となる空港なので、都心部から都市鉄道が通じている。エアポートレイルリンクという鉄道で、スカイトレインスクンビット線の駅もあるパヤータイを起点としている。地下鉄ブルーラインともマッカサンという駅で地下鉄のペチャブリー駅に接続している。そういう便利な鉄道なので、電車に乗って空港を利用する人はエアポートレイルリンクを利用するのが常道である。私もそのつもりだった。
 だが、三日前にフアランポーン駅を訪れて気が変わった。実は国鉄でもスワンナプーム空港に行けるという知識を持っていた。国鉄が安いから使うのではなく、国鉄の旅情に溢れた列車に乗るのは、旅の締めを飾るにふさわしいと思えたからだ。
 残念ながらスワンナプーム空港までは国鉄一本では行けない。ラートクラバンという駅まで行き、そこでエアポートレイルリンクに乗り換えとなる。距離にして30キロ弱だから国鉄だと一時間ほどかかるだろう。陽が暮れるまでにラートクラバンに着きたかった。車窓を見るなら明るいうちがいい。
 天井の高い待合所に入り、左手の切符販売窓口に向かう。ラートクラバンは英字だと「Lat Krabang」と書く。私は「ラットクラバン」と発音したが、駅員には通じなかった。一発で通じる気がしていなかったので、スマホの画面に地図アプリが示してくれた経路図を駅員に見せて駅名を指した。
「オー、ラートクラバン」
 ここで私はこの駅名が「ラートクラバン」と発音すると知った。運賃は6バーツだ。やはり国鉄は安い。ちなみに、エアポートレイルリンクでパヤータイからスワンナプーム空港まで乗ると45バーツとなる。
 ホーム入口の脇に飲料水の自販機がある。ここで12バーツの水を買った。ベトナムのハノイではお釣りが出ない自販機に困惑したが、バンコクの自販機は日本と同じような仕様で使いやすかった。
 私が乗る列車は16時55分発の東本線チャチュンサオ行きだ。チャチュンサオは日帰り旅の候補に入れていた町だが今回は未訪で終わってしまった。ピンクのガネーシャ像がある寺院や百年市場という古い市場がある町だ。
 乗り場は5番線だった。ホームの手前に立っている大型液晶モニタに英字でこう表示されている。行先は「Chachoengsao」。乗り場は「5」。列車番号は「391」。種別は「Commuter」。遅れは「00」。発車時刻は「16:55」。
 車両は今回も旧型客車だった。白に紫色と黄色のラインが入った客車に乗り込む。ナコーンパトムに行った時は木製の座席で驚いたが、今回はクッション入りのビニール張り座席だった。その青い座面と背ずりはどこかクラシックだが、座り心地は木製とは比較にならない。
 乗車率はそれほどでもなく、周囲は空席が目立つ。郊外に出かけるには遅い時間だし、仕事からの帰宅には少し早い。そんなところだろうか。列車は定刻にフアランポーン駅を離れた。丸いドーム型屋根が遠ざかり、煤けた低屋根を乗せた低いホームが窓から消えると、バンコクから離れていく実感が胸に迫ってきた。まだ私の旅は続いているが、もう終幕の気分が心に押し寄せている。コンサートで歌手に「次が最後の曲」と宣言された時の気持ちに似ている。
 前回は進行方向右側に座っていたので今回は左側に座っている。右側で見た時よりも家と線路が近い。錆びたトタンの屋根がある。はずれかかった板壁がある。人々は陽の傾いてきた空の下で少し涼しい風を受けながら、ひっそりと立っている。
 広いフアランポーン駅構内を抜けると、北本線の線路と分かれていきながら大きく右カーブしていく。その手前にささやかなホームのウルポン駅があり、カーブをして直線に入るとエアポートレイルリンクの高架が現れる。パヤータイである。国鉄のパヤータイ駅もウルポンと同様に簡素な造りで、どちらも正式には駅ではなく停車場と呼ぶのだという。フアランポーンからここまで距離にして3・7キロだが12分も要している。
 東本線も二日前に乗った北本線の線路沿いと同じように、線路のそばに簡素な家々が迫っていた。高架線路の都市鉄道と低いホームの簡素な駅の線路が並行している光景を見て思う。お互いの窓外に見えている景色はあまりに違いすぎることだろう。この線路と線路が都市の様々を対にして表現しているように思えるのだ。もっと広く視界を眺めれば、この古めかしい線路の奥にはビルが立ち並んでいるのだ。手前に見えている景色と奥の景色までは大した距離はない。だが、精神的な距離は大きな隔たりを持って窓外に提示されている。
 夕方の太陽が窓に反射して景色が滲むことなく、乗客は外を見ることができた。反射する筈の窓は下ろされている。この客車は3等車だ。冷房はない。窓は全て下げられている。
 並行するエアポートレイルリンクの駅は下からでは見えないが、階段があったり、周辺に賑わいがあるので、そこが駅だと気づける。そして、そういう場所には国鉄の駅もある。駅ではなく停車場とされている小さな駅から少しずつ人が乗り込んでくる。物売りも一緒に乗り込んでくる。駅舎と屋根付きのホームがあれば、そこは停車場ではなく駅らしい。マッカサン駅はどうやら駅のようだった。ここで座席は半分ほど埋まり、私の向かいにも彫りの深い顔立ちの女性が座った。
 線路の脇に屋台がたくさん出ている駅がある。高架の下だからエアポートレイルリンクの車内からでは見られないバンコクの風景がそこにあった。大きな通りを横切る踏切から見える古い家と新しいビルの混在した眺めもそうだ。速度は遅いが、国鉄の鈍行列車は街を見ることができる鉄道だった。
 私の座っている進行方向左側に寄り添い続けている高架の周囲から建物が離れ始めた頃、窓外はバンコクの郊外となった。列車の速度は上がり、強い風が車内に吹き込んでくる。郊外に入ると乗る人よりも降りる人が増え、私の向かいに座っていた女性も降りていった。私の降りる駅ラートクラバンはもうすぐだ。

 17時55分、ラートクラバン駅に着いた。フアランポーンから約27キロ。ちょうど一時間の旅だった。タイの人たちがやっているように、ホームに入って減速した列車の速度を計りながら、開け放たれたドアの脇の手すりに掴まり、デッキから足を下ろしていく。私の足がホームに下りきったところで列車は完全に停車した。
 ラートクラバンは細いホームを二面持つ駅で、短いながらもホームには屋根も架かっていた。駅の南は住宅地で、列車から降りていった人たちがホームから線路に下り、フアランポーン方面の線路を横切ってホームの端の向こうに歩いていき、駅の南に去っていった。
 駅の北側、今私が立っているホームの後ろにはエアポートレイルリンクの駅前ロータリーがあり、整備された歩道が通っていた。ホームからエアポートレイルリンク方面に通じると思える屋根のない階段があるが、北口に向かう人はホームから下りて、脇に延びる側線を跨ぎ、塀に開けられた一人分ほどの隙間から駅前ロータリーに向かっていく。その塀の隙間の前に物売りのおばさんが立っていて野菜などを売っている。仕事帰り風の女性が足を止めて買っている。
 そんな帰宅風景を眺めて、私も塀の隙間から北口に出てみた。駅前ロータリーからエアポートレイルリンクの乗り場に通じる階段があった。そこに差し掛かると歌が流れてきた。タイ王国国歌だ。帰路に就く人々は足を止め、私も手にしていたカメラを下げて直立不動の姿勢を取った。
 高架上を電車が通る音がする度に帰宅の人たちが続々と階段を下りてくる。ラートクラバンはバンコクへ通勤するニュータウンといった風情で、OL風な人が多い。私は国鉄駅の鄙びた具合が気に入り、その簡素な風采と隣接する高架駅との対比に旅情を感じて立ち止まったままでいる。少しずつ陽は暮れてきた。飛行機が出発する時間までは六時間半くらいあるから慌てる必要はなく、何なら今からバンコクに戻ってもいいくらいだが、こうして陽が沈んでいく様を郊外の旧家と新家が軒を並べる場所で眺めていたい。
 だが、階段の途中でカメラを片手に立ち止まり続けているのは、不審な行動だと疑われかねないので、エアポートレイルリンクのラートクラバン駅に上がった。上からだと国鉄駅の全容がよく見えた。国鉄駅ホームから延びていた階段は高架の途中で終わり、何かの建物に通じているようだった。行ってその何かを確かめようとも思ったが、建物は開いている気配がない。
 階段を上がりきってみると、エアポートレイルリンクの駅は改札に通じるまでも構内は広く、周辺を眺められるバルコニーのようでもあった。北側を一望できる位置に立って、西の空に沈みゆく太陽を眺め、その姿を撮影している。女子高生が一人で私と同じように夕陽を眺めている。駅前は草生した空き地で、その向こうに家や小さな集合住宅がある。高い建物がないから眺めはとてもいい。高速道路からラートクラバンに下りる道路が弧を描いている。道路が夕陽の色に染まっていた。
 券売機で切符を買う。買い方は地下鉄やスカイトレインと同じで、画面上の路線図から降りたい駅をタッチして枚数などを選択する。スワンナプーム空港は隣の駅で運賃は15バーツだ。切符は地下鉄と同じように黒いトークンだった。
 ホームはドーム状の屋根で覆われていて空が見えなかった。ホームドアはなく、ドアの位置を空けた鉄柵が立てられている。のんびりと待っていると18時22分に電車はやってきて、帰路に向かう人を降ろし発車した。車内は割と混んでいて座れなかったが次が終点である。窓から景色を眺めているとすぐに地下に入っていき、所要5分で電車はスワンナプーム空港駅に着いた。

私が乗るのは0時45分発のタイ・ベトジェットエアの福岡行きだ。まだ時間はたっぷりあるが、スマホの電池残量が心許ないので、充電のできるスタンドに向かう。7時まで充電をしようとスタンドにスマホからのケーブルを挿して立っている。空港は賑わいを取り戻しているようだった。乗る人、降りた人が交錯して構内は人で溢れている。充電後、一階から順番に空港を散策していっての感想だ。
 三階の出発ロビーに飲食店が並んでいた。タイ料理のフードコートは混んでいたし、チェーン系の店も慣れ親しんだ味を求める外国人観光客で賑わっている。私は比較的空いている店を選んでみた。入口に立っていた女性店員が押しつけがましくない点に好感が持てた。
 今回の旅で最後の海外の食事になる。ビールを飲みたい。料理はジャンルがよくわからない店で、要するに洋食店のようなメニューなので、きのことガーリックトーストのパスタを選んだ。
 席は通路に面した場所を選んだ。歩いている人は欧米人ばかりという印象だ。タイが観光客の受け入れを開始した結果、世界中から大勢の人たちがやってきている。これはバンコクの観光地を訪れた時も感じていた。日本とはまったく違う光景がバンコクには存在していた。さて、シンハービールがやってきた。メニューではわからなかったのだがロング缶がやってきた。予期せぬ結果だったから顔がほころんでいたのだろう。届けにやってきたベテラン風女性店員も笑みを浮かべてくれた。
 ビールをグラスにそそぎ、バンコクの日々を噛み締めているとパスタが届いた。私の大好きなカルボナーラだった。いい店を選んだようだ。会計は484バーツと高かったが、これは空港価格だから仕方がない。
 出発ロビーにUSB端子の付いたベンチがあったので、そこに座ってスマホの充電をしながら時間を潰した。九時半になろうかという頃にチェックインカウンターに向かうと日本人を中心に列ができている。列が二つあることに気づいたのは並び始めて列が動き出して間もなくだった。私は後ろにいた青年に尋ねた。
「この列は福岡行きですか?」
「いえ、違います」
 成田かと尋ねると青年は名古屋だと答えた。名古屋行きはかなりの列ができている。対して、もう一方の列はそれほどでもない。青年はその列が福岡行きだと書いてあるとカウンターの掲示板を指して教えてくれた。私の視力では判読できなかったのだ。私は礼を言って慌てて列を離脱した。
 私が乗るタイ・ベトジェットエアは係員が列の誘導をしておらず、カウンターの前でだけ人を捌いている。LCC(格安航空会社)なので色々と戸惑うことが起こる。そして、重量の計測に厳しい。機内持ち込み荷物は7キロまでで大きさも決まっている。その計量で一人あたりにかかっている時間が長かった。名古屋行きの列に間違って並んでから数えて一時間、ようやくチェックインが済み、私は急いで保安検査場に行き、出国審査を済ませ、広大なスワンナプーム空港の制限エリアをさまよった。
 夜が更けても制限エリア内の売店は華やかに照明を点けていた。先ほどネットで調べたところ、Eゲートの奥に有料のシャワーが使える施設があるという情報が出てきた。ラウンジに行けばシャワーが使えるが、私はラウンジに入れるようなカードを持っていない。そして、Eゲートは一番奥にあり、その奥まで辿り着いたが、何かある雰囲気はなかった。
 もう慌てる必要はない。不思議と疲労感はないが、もうじっとベンチに座って時間を待つことにする。店が並ぶ一角から自分が乗る便の出発ゲートは離れていた。売店に行く気力まではなかった。通路に自販機があったので、40バーツもする水を買う。福岡行きに乗る人は多いのだろうか。列を見た限りでは空いているというほどではなかった。旅の余韻に浸る閑もなく、ようやくベンチに落ち着いた私は窓の向こうの夜空をぼんやりと眺めた。また会いたいバンコクの街の風景はどの方角だろうか。

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