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車窓を求めて旅をする⑯ あとがきを書くために旅をする ~吾妻線・御殿場線~

あとがきを書くために旅をする ~吾妻線・御殿場線~

     吾妻線

 ここまで十五回にわたって書いてきた鉄道紀行も今回が最終回である。平成二十五年(2013)秋に青森県と岩手県に跨って走る八戸線に乗ったことで、JR線の全路線に乗り終わった話から始まったこの鉄道紀行は、残る私鉄路線を訪ね歩き、私が日本の鉄道全路線に乗り終わるまでを綴る予定で企画を始めた。
 ここまでお読みいただいた方はご存知のとおり、その目標はまだ達成されていない。これを書いている現時点で未乗私鉄線区は10線区ある。内訳は青森県1、岩手県1、東京都1、神奈川県1、富山県4、大阪府1、広島県1となる。
 この鉄道紀行を書いてみようと思い立った時点では、年内に全路線に乗れるだろうと考えていた。この内訳を見てのとおり、地域が固まっている。北東北に一回、富山に一回、広島に一回と計三回の遠出で達成できる位置関係にある。初夏に立山黒部アルペンルートに向かい富山県の4線区を、夏に北東北に行って2線区を、秋に広島へ、などと私は計画を立てていた。
 しかし、すべては絵に描いた餅、妄想に浮かべた架空の旅に終わった。理由はひとつである。
 未乗線区のひとつに南海電鉄高師浜(たかしのはま)線がある。大阪府高石市を走る全長1・4キロの短い路線で、こんな短い路線なのに途中駅があるなど、なかなか面白い鉄道なのだが、この路線が令和三年(2021)5月22日から休止となった。短い路線だから需要が疑問視されて運転を止めてしまったのではない。高架化されることになって、工事のために休止となったのだ。完成は三年後の令和六年春を予定している。それまで乗ることはできなくなった。
 つまり、どんなに頑張っても私が日本の鉄道全線に乗り終わるのは令和六年春以降となったのだ。徒歩20分程度で線路沿いを歩けそうな短路線に阻まれ、私の目標は停滞することとなった。
 残り10線区に至るまで、私はラストスパートを掛けていた。
 前回の四国旅で四国に唯一残存していた未乗線区である八栗(やくり)ケーブル(香川県)に日没で乗りそびれ、出直しをする必要が生じた。翌年、つまり2021年の春に近畿地方から香川県を旅した。この旅で未乗線区だった和歌山県の南海電鉄高野山ケーブル、大阪府の大阪モノレール彩都(さいと)線の末端区間、妙見の森ケーブル、兵庫県の神戸電鉄公園都市線の末端区間、そして八栗ケーブルに乗り終わった。神社仏閣を訪ねる旅ともなり、なかなかに充実した旅になったのだが、南海高師浜線だけ乗り残して帰路に就いていた。悪いのは自分である。
 このような経緯で、日本の鉄道全路線に乗り終わる旅を綴る鉄道紀行だった筈の紀行シリーズはそうはならず、コンセプトが曖昧なシリーズものになってしまった。だが、今更言っても仕方がない。どこに向かっているのかわからない紀行ではあっても、全国様々な土地を紹介できたと自負はしている。
 どのくらい紹介できたのだろうか。振り返ってみると、47ある都道府県のうち、文中に出てこなかったのは以下のとおりである。
 宮城県、山形県、栃木県、群馬県、東京都、神奈川県、山梨県、長野県、新潟県、富山県、石川県、福井県、京都府、愛媛県、宮崎県。
 第一回めの江差線・八戸線編から前回の四国編までの年月の間、この紹介していない都府県にも出かけている。足を運んでいないのは宮崎県だけだ。今に思えば、すべての都道府県を紹介する鉄道紀行というコンセプトにすればよかったとも思うが、時系列を遡って今から上記の都府県の旅の話を挿入するのも流れが悪い。
 これからこの15都府県を訪ねる旅を綴るには時間がないが、せめて補完をと考え、青春18きっぷを握りしめて出かけてみようと思う。

 青春18きっぷを買ったのは一年ぶりだった。今年は泊まりのある旅は一回だけに終わりそうである。だが、日帰りの旅もいいものだ。私は久しく訪問していない町に行ってみようと思い、両毛(りょうもう)線に乗って二十年ぶりに栃木県の佐野を訪れ、佐野厄除け大師に参拝し、駅の北に隣接する平山城(ひらやまじろ)の佐野城に行った。
 両毛線は栃木県と群馬県に跨って走る路線で、北関東の山並みを遠くに見ながら関東平野の端を走る。北関東を走る鉄道は都市と田舎の境を往くような趣きがあり、大きすぎない町が点在しているから手軽に駅から散策を楽しめるのが魅力だ。色々と史跡があり、町並みも古びた眺めなのがまた良い。
 それで、次も北関東に行ってみようと考え、佐野訪問の翌週は群馬県の吾妻(あがつま)線を訪れた。吾妻線は上越(じょうえつ)線の渋川から分岐し、キャベツで知られる嬬恋(つまごい)村の大前に至る全長55・3キロのローカル線である。
 神奈川県に住む私にとって、東京折り返しだった東海道本線の電車が延伸して上野東京ラインとなったのは有り難い出来事だった。それは、群馬県の高崎まで電車で一本で行けるという便利さで、節約を心がける旅人には有り難い交通網の誕生であった。私の乗っていた東海道本線の電車は高崎線に乗り入れていく。この電車は上野から快速になるダイヤだったから上野から二時間足らずで高崎に着く。
 高崎駅は混んでいた。今日は2021年12月23日木曜日。期末試験の期間だからか、昼前なのに学生の姿も見かけた。高崎10時44分発の電車は両側に山並みを眺めながら、冬支度の田畑をかすめて、ひた走る。渋川で上越線から分かれると車窓から家並みは減り、雑木林と畑の風景が多くなる。
 吾妻線は吾妻川と並行するように敷かれている。吾妻川は渋川市内で利根川(とねがわ)と合流する川で、山が迫っていないうちから流れは蛇行したものとなっており、線路も川筋に合わせて小さいカーブを繰り返している。
 沿線には温泉が豊富で、小野上温泉(おのがみおんせん)という名の駅が現れる。ここは平成四年(1992)に開業した新しい駅で、駅前に温泉施設が立っている。その小野上温泉から6キロほど進んだ所にある中之条は四万(しま)温泉に沢渡(さわたり)温泉の最寄り駅であり、この先、長野原草津口は駅名のとおり草津温泉への最寄り駅で、万座・鹿沢口(まんざ・かざわくち)もそれぞれの名の温泉があり、終点の大前も駅前に温泉がある。
 そんな温泉路線の吾妻線だけに、最初の下車駅は川原湯温泉(かわらゆおんせん)に決めてある。川原湯温泉は吾妻川に建設された八ツ場(やんば)ダムによって集落と駅と温泉がダム湖に沈んだ。吾妻線と駅は高台に移設され、温泉も移転した。ダム完成前の十一年前にこの地を訪れ、温泉にも入浴しているので、新しい川原湯温泉を見てみたい気持ちがあった。
 中之条を出ると山が近づき、線路は少しずつ渓谷めいた風景に入り込んでいく。小さな駅と小さな農村が寄り添いながら出現し、冬晴れの陽光に包まれた車内は僅かな乗降が繰り返される。中之条から四駅めの岩島を出てほどなく線路は新線に入っていく。ダムによって水没する旧線から分岐して建設された新線は吾妻川から離れ、山の中に入っていき、全長4489メートルの八ツ場トンネルに入った。
 旧線時代は岩島~川原湯温泉間に樽沢トンネルという短いトンネルが吾妻川の渓谷の斜面に存在した。このトンネルの全長7・2メートルはJR全線中もっとも短いものだった。
 この短いトンネルは戦時中に建設され、昭和二十一年(1946)に開通となった。岩盤が硬くて切通し構造にできなかったという説、トンネルの上にある一本松が絵になる景色だったので発破せずにトンネルにしたという説、事実は定まっていないが、後者の説を推したい。
 今は廃線跡を利用した観光用の足漕ぎ式トロッコのトンネルとなって現存する樽沢トンネルは、残念ながら新線からは見えない。長いトンネルを抜けると右窓にダムによってせき止められた吾妻川が作り出した八ツ場あがつま湖が現れ、細い島式ホームの川原湯温泉駅に11時59分に到着した。
 川原湯温泉のホームから雪の残る地面と湖を眺め、跨線橋を上がる。電車が走り去ると静かすぎるくらい人気(ひとけ)のない駅になった。完成して七年の新駅はまだ新築のような装いで、ガラス張りの通路からも湖がよく見えた。待合室はないがベンチはあるので、そこに座って昼食にする。
 駅前には歩道に屋根の付いた車寄せもあるが、停まっているタクシーもバスもない。斜面に造られた駅の更に一段高い位置を県道が横切り、駅前は特に何もない。
 私は駅前から延びる道を東に歩き始めた。徒歩15分ほどで温泉に着くらしい。真新しい道は緩やかな下りで斜面の中腹から湖面に少し接近していく。道の下に湖岸の展望所があるのが見えた。
 やがて道は湖岸を往く景観となる。斜面の稜線に沿って右に曲がると道の左下は湖面となった。湖面には、水没した集落に密生していた木が何本か突き出している。この下に温泉や駅が眠っているのだ。
 川原湯温泉の旧駅は木造駅舎で、古びた温泉地の風景と溶け込んでいた。吾妻川を見下ろす地に立つ湯治場のような雰囲気の温泉には、番台のない鄙びた共同浴場があり、そこは川のせせらぎと鳥のさえずりを聞きながら湯に浸かるような静かな温泉だった。
 そんな十一年前の風景を思い返していると、湖面に突き出た小丘が道に現れ、丘の上に向かって階段が延びていた。その上が新しい共同浴場だった。
 建物の周囲にまで漂う温泉の香りに誘われるように中に入る。入浴料は五百円。湖を見下ろす露天風呂もあり、とても気持ちのいい温泉だった。

 14時14分の下りでもう少し奥に行ってみる。電車は吾妻線の終着駅大前のひとつ手前の万座・鹿沢口行きで、吾妻線は大前まで行く便は一日五本しかない。降りたことのない駅に行きたいと考えた私は、駅近くに古い家並みが残るという羽根尾(はねお)に向かった。途中、長野原草津口で特急の接続待ちで19分停車があって、14時45分に島式ホームの無人駅に着いた。
 階段を下り、線路下の地下通路を抜けると小さな駅前広場に出る。駅舎はない。駅を出てすぐに吾妻線と並行する国道144号線が現れ、軽井沢(かるいざわ)方面に向かう国道が羽根尾で分岐している。
 国道沿いに木造の大きな建物がいくつか立っている。旅館だった建物だろうか。現役で何かに使われているのかは定かではない。国道の裏手に出ると吾妻川の谷上だが木が多く、川の見通しはあまりよくない。道なりに家と畑が点在し、西の山に沈んでいこうとする陽を浴びている。
 羽根尾15時34分の高崎行きは空いていた。私の乗り込んだ先頭車両には誰もいない。車内はロングシートだが、トイレの横にだけ二人掛けのクロスシートがあり、そこに腰掛けて黄昏てゆく山並みを眺めた。
 17時17分、帰宅ラッシュの始まっている高崎駅に着いた。上越線、信越本線、両毛線が高校生を大勢乗せて発車していく。私はサラリーマンたちと一緒に上野行き快速に乗り込んだ。熊谷や上尾(あげお)などで乗客が更に増えた快速は旅情など感じさせぬほど日常の空気を運んで関東平野を疾走していたが、終点上野が近づくと、港に着岸する船の如く速度が慎重になり、徐行しながら上野駅の地平ホーム十六番線に到着した。行き止まり式ホームが並ぶ頭上を大屋根が包んでいる。北国に向かう長距離列車は去っていっても、上野駅の地平ホームは微かに確かな旅情を残して、北関東からやってきた中距離列車を迎えてくれた。

     御殿場線

 この鉄道紀行シリーズの最後の乗車路線はどこにするか。私は思案した。年末に観光地ではない小さな町を訪れる旅は、一年の終わりという感傷が風景に上乗せされるので旅情に溢れたものとなる。候補地を挙げながら計画を練るのは、時として実際に足を運ぶこと以上に楽しいものだが、今回ばかりは計画だけで満足している訳にはいかない。あとがきを書くための旅をしなくてはならない。
 そんな意気込みが体調のリズムを狂わせたのかどうか、年末に風邪気味な体になってしまった。このご時勢だ。旅は自粛せざるを得ない。
 年明け、体調が回復したのを機に再び計画を練り直した。まずは東海道本線に乗って富嶽を仰ぎ一年の無事を祈る旅をしようと考え、後日に山梨県に足を運んで武田家に縁のある寺社めぐりをしてみよう。そう決めた。
 年末の旅の風情はいいものだが、年始の旅にも良さがある。町がどこか襟を正している感がある。暦の数字が変わっただけで気温も陽気も変わらないのに、春がやってきたと思わされるのは迎春という言葉の響きだけではなく、気持ちを改めて一年に願いを込める人々の心情が作り出す、そわそわした町の空気が理由かもしれない。
 空気が急いていても移動の足は今日も各駅停車である。思えば、この鉄道紀行も新幹線や特急の登場回数はさして多くなく、各駅停車のローカル列車ばかり登場しているような気がする。
 各駅停車と言っても今乗っているのは通勤型電車の東海道本線で、しかもそれなりに乗客は多いから風情はない。空が青いのが嬉しい。
 真鶴(まなづる)駅にやってきた。東海道本線は小田原を過ぎると相模灘(さがみなだ)に沿い始め、斜面の中腹から海を見下ろす眺望となる。比して駅も鄙びてきて好ましくなる。真鶴駅もそのひとつだ。
 小ぶりな平屋の駅舎を出ると、あまり大きくないロータリーがあり、タクシーやバス乗り場がある。とは言ってもバスが頻発している訳ではない。これから真鶴岬に行ってみようと思っているが、バスは一時間に一本という運転頻度で、わずかながらの他の路線も似たりよったりな本数だった。
 バスの時刻まで20分ほどあったのでパンを買って食べ、それほど通行のない駅前を眺める。真鶴駅は高台に位置し、道路が海岸に向かって坂になっている。店はそれほど多くなく、大型店舗の類が駅前にないので落ち着いた眺めに感じる。神奈川県もこの辺りまで来るとかなりのどかな風景で、駅前を眺めているだけで旅気分は満たされていく。

 真鶴駅から真鶴岬まではバスで30分弱の道程で、復路は真鶴湾を眺める海岸まで歩いて帰ってきた。岬は険しく海に突き出しているから道路は海岸より高い位置にあり、山道を歩くような感覚で道を下った。
 天気は晴れだし、歩いたので少し暑くもなった。真鶴からは東海道本線で静岡県に向かい、沼津から御殿場(ごてんば)線に乗る予定だった。御殿場線の沼津から御殿場にかけての区間は富士山をじっくりと眺められる。その車窓を求めて御殿場線に乗りたい。
 しかし、旅とは思い通りにはいかないものである。だからこそ面白いともいえるのだが、山と海からの風が吹きつける真鶴駅のホームに立っていると下り電車の遅れがアナウンスされた。都内で安全確認が行われた影響だという。のどかな風景に接しているから都内の駅名を聞くと遠方の出来事のように思えてくるが、真鶴は東京駅から東海道本線の各駅停車で100分ほどの距離である。
 風を受けているうちに寒くなってきた。私はやってこない下り電車を諦めて、やってきた上り電車に乗り込んだ。旅とは時として思いを変えていく行動の積み重ねである。
 小田原から二駅先の国府津(こうづ)で降りる。ここが御殿場線の起点で、沼津までの60・2キロを一時間半ほどかけて走る無人駅が多い単線の路線だ。
 御殿場線は一時間に一本から二本程度の運転頻度だが接続はよく、ホームに三両編成の列車が既に停車していた。しかし、この列車に本来は接続している東海道本線の下り電車の到着を待っての発車となり、2分遅れで国府津を出た。
 国府津を出て高架で東海道本線の線路を越えた列車は北西の方角に向かって山麓を走る。曽我(そが)の梅林の脇を抜け、酒匂川(さかわがわ)に沿いながら山に近づく車窓は、小田急線からの連絡線路と合流して松田に着いたあたりから谷が狭くなってくる。
 どこで降りようかと考えている。富士山を見るための旅だった。御殿場線もこのあたりでは山に阻まれて富士山は容易に拝めない地勢となっている。
 車内は意外に混んでいた。立っている人もいる。接続した下り電車からの乗り継ぎの人だろう。どこに向かっているのだろうか。私の隣に座る一人旅の女性も大きなキャリーケースを手で押さえている。沿線で観光地のある駅というと御殿場を連想する。御殿場は富士山観光の拠点でもある。
 松田から二駅の山北(やまきた)を過ぎると、車窓は俄かに山間となる。御殿場線がローカル色を増す区間だが、この御殿場線、かつては東海道本線だった時期がある。
 明治二十二年(1889)御殿場線は開業した。熱海~函南(かんなみ)間に丹那トンネルが完成して東海道本線が熱海経由に改められたのは昭和九年(1934)で、それまでの間は御殿場線の国府津~沼津間が東海道本線として活用された。東京と大阪を結ぶ国内随一の幹線だから複線化もされ、長距離列車も走行した。
 東海道本線ではなくなってしまった御殿場線は衰退し、鉄材供出のため昭和十八年(1943)には単線にされてしまった。市街地区間では複線時代の面影を窺うことが難しくもあるが、山間部に入ると使われなくなったトンネルの坑口や撤去された橋梁の橋脚が現存する。
 山が深くなるにつれて外気の気温が下がって影響を受けたのか車内が冷えてきた。私の隣の女性は山北の次の谷峨(やが)で下車した。ここは駅前からバスに乗って山深く辿っていくと中川温泉がある。
 沈みかけた太陽が山の斜面に隠れ、15時台でもう暗くなり始めている。その侘しさに惹かれるように、私は谷峨の次の駿河小山(するがおやま)で降りた。駅名が示すように、ここからは静岡県である。
 駿河小山に来るのは二回目だった。駅員はいない。駅前を横切る道が坂になっていて、駅前広場は駅舎の横にあり、合わせて玄関も横を向いている。その駅前広場は狭く、そこに停車していたバスがゆっくりと発車していった。
 駅前には営業しているのか定かではない飲食店が一軒と、観光案内所のような店があるだけで、集落のはずれといった眺めだった。御殿場線には小田急線の新宿から特急ロマンスカーが乗り入れ、この駿河小山にも一部の特急が停車するが、人の気配に乏しい駅前である。
 冷風に身を震わせながら駅舎に戻って、缶コーヒーを飲みながら上り列車を待つ。日が沈んできたので沼津まで行くのはやめることにした。寒さを堪えながらホームに出てみると、手前の山と山の間から高々とした綺麗な稜線が夕陽に包まれているのを拝むことができた。

 下り列車はそれなりに混んでいたが、やってきた上りは空いていた。体を斜めにして窓枠に肘を置き車窓を眺める。もう黄昏の山だ。駿河小山と谷峨の間はひたすら木々と川の風景で人工物は少ない。あるのは道路と鉄道と鉄道遺構だけに思える。
 日が暮れかけた山北で降りた。構内が広い。東海道本線時代はここで峠越えの機関車の増解結をしていたという。使用されていた蒸気機関車は優等列車や長い貨物列車を牽引できる馬力の大きい機関車で、山北駅は幹線の要衝としての風格を備えていたのだろう。当時は山北にも多くの国鉄職員とその家族が暮らしていたという。
 今の山北は山に挟まれた小さな町で、駅前も商店が少ない。駅舎とは反対側の南口には公営の大きな建物が立ち、そこには温泉もあるのだが、そういう施設が造られるくらいに敷地に余裕がある駅前で、それは広い駅構内が生んだ産物といえた。その南口に当地を走っていたD52型蒸気機関車が静態保存されている。

 JR全線を乗り終わるという話題から始まったこの鉄道紀行は、JR線の次に未乗の私鉄線を乗るべく全国を歩き回る私の珍道中を綴るものとなる予定だったが、私鉄全線乗車は達成できないまま紀行文は完結となった。
 まだ10線区ほど残っている未乗線区は、二年後の南海高師浜線の再開と合わせて乗っておきたい。
 全十六回の鉄道紀行、ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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