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これは矛盾ではない―ザ・フー「マイ・ジェネレーション」

   いきなり物議を醸すことを言ってしまうが、そして本稿とは直接関係のないことを言ってしまうが、私はオリンピックなんぞあろうがなかろうがどうでもいいと常に思っている人間である。この間の東京オリンピックのテレビもまったく観なかった。誰がメダルを取ったとか取らなかったとか、関心が持てなかった。終了後にやれ誘致の事やらなんやらで問題がいろいろ報道されているけれども、そんな談合話、どこの世界にもあるよな、オリンピックも例外じゃなかったんだな、とウンザリしたのが関の山である。しかしただ一つ、オリンピック関係で感じ入ってしまったものがある。2012年のロンドン・オリンピック閉会式の映像である。それはまさに、ブリティッシュ・ロックの歴史ダイジェストというにふさわしい出し物であった。あれを観た時、向こうのロック~ポップ・カルチャーのバック・ボーンの、何とぶ厚いことよと思ってしまった。それに引き換え・・・・やめておこう。ここで問題にしたいのが、この閉会式のトリに出てきたザ・フーについてなのである。
 当日演奏した曲は、いずれもザ・フー、いや、ロックの歴史に残る名曲のオンパレードであった。そして「マイ・ジェネレーション」も演奏された(短縮ヴァージョンだったが。まあ仕方ないが)。私は素直に感動した。そうなんだよな、ザ・フーだからこその、この曲なんだよ、と。
 当時すでに70近かったロジャー・ダルトリーやピート・タウンゼンドが「マイ・ジェネレーション」なんて矛盾してんじゃね?そうほざいた奴が、私の身近に何人かいた。確かに、曲の歌詞の、表面的な所だけを見れば、そう思ってしまうのも当然だろう。しかし、あの曲の、隠れたメッセージを知れば、ちっとも矛盾ではないことが判る。これについては、私なんかがほざくより故・松村雄策氏の文章を引用させていただいたほうが、よっぽど気が利いている。「マイ・ジェネレーション」について、ザ・フーについて、これを超える文章に、私は今まで出会ったことがない。

「“じじいになる前に死んじまいたい”というのは、『マイ・ジェネレーション』の有名な一行である。キース・ムーンは、正にこのとおりに死んでしまった。それではピート・タウンジェントはというと、僕は“じじいにならずに、生きていこう”ではないかと、ずっと思っている。
 若者の事を考えているというのは、若者を全面肯定するという事ではない。もちろん、おためごかしに、『君達の言う事はよく解る。しかしだな・・・・・・・・・』という例のやつでもない。そういう手で、僕達はずいぶんとだまされてきた。
 本当に若者の事を考えているというのは、解るところは解ると言い、解らないところは解らないとはっきり言い切る事だと思う。解らないからこそ、考えて、解ろうと努力するのである。フーは、そうだった。解ったようなふりなど、一度もしなかった。つまり、“⦅解ったふりをする⦆じじいになる前に、死んじまいたい”であり、‟⦅解ったふりをする⦆じじいにならずに、生きていこう“なのである」(ザ・フー『イッツ・ハード』ライナーより)

 さて、私は「解ったふり」をしたじじいに墜していないであろうか。いや、まだガキの時分から、「解ったふり」をしてきたというべきではないか。もうとうの昔に、「解らずや」になってしまっているのではないか。松村氏の言葉は、今でも私に問いかける。いや、こうやって逡巡していられるうちは、まだ「じじい」になっていないのでは・・・・。私は堂々巡りを今日もしている。
 確実に言えることは、17歳でこの曲を聴いて以来、いまだに聴く度に、燃えるということである。うむ、やはりそうすると、私はまだ大丈夫だな、と勝手に思っておこう。

https://youtu.be/EzK02LDkpIc?t=5


 「マイ・ジェネレーション」のヴァージョンは数あれど、ここはど定番の『リーズ』ヴァージョンを貼っておきたい。『トミー』のパートとドッキングした14分強。実は「マイ・ジェネレーション」のどもりの少年がトミーでもあったのかと、このアルバムを初めて聴いて何年も経ってから、一人勝手に納得し、勝手に悦に入ってしまった単細胞な私なのであった。
 「チリパチ・ノイズは気にすんな!」ーレコードのラベルに手書きで書いてあったな、この文言・・・・(英語でだが)。