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Think twice

    ダーニ君に指摘された本。それは私が日本から持参していた、大学のゼミで使用していたものであった。外国にまで、わざわざ日本の本を何故という向きもあるだろう。これにはやむにやまれぬ事情があったのである。
「本音を言えば、もっとたくさんの課題を与えたいところなんだが」
 インドに旅立つ直前、K教授はそう前置きしたうえで、
「これのレジュメを書いてきたまえ。新学期はそれを基に議論をする」
 申しつけられたのが、アダム・スミス『国富論』に関するレジュメであった。この年のゼミのメイン・テキストである。
「ご愁傷さまだね。インドにいる間位、ゼミは忘れたいところだろ?」ゼミの同期の学生Hはレジュメ報告を免れて助かったわいといった表情で、私に話しかけてきた。
「くそが。なんで俺にふってきたんだ?」
「さあね。よっぽど期待してんじゃねえの?」
「んなわけねえだろう。ならもっと試験の点数良くてもいいはずだぜ」私は1年の時、経済学の試験の点数を同期の男に話してやった。
「単位取れただけでも、ラッキーだったと思うぜ」ちなみにHは別の教師の経済学を取っていた。
「おまえ、いいよな。Kの経済学取らなくてもゼミは入れたんだから」
「俺、プロゼミ入ってたからさ」同期は万事に小賢く立ち回れた男なのであり、ゼミの報告も大体無難にやってのけていた。
「俺さあ、このゼミ入ってちょっと後悔してんのよ。アメリカ経済史のあいつのゼミ。楽だって評判だろ?あっちにすればよかったよ」Hはのんきにそんなことを言いつつ、教室を出ていった。
 私は、何故このHが、K教授のゼミに入れたのか不思議であった。また何故H自身も、わざわざK教授のゼミを選んだことも。ことの真相は、今に到るもわからないままである。ただ、K教授は大学卒業の間際、最後に会ったとき、Hを評して、
「彼は何かにつけて小手先だけでこなそうとしていた」と語っていたことは、今も記憶の片隅にある。
「やれやれ。荷物がまた増えるわい」私は愚痴をこぼしながら、『国富論』の訳本をリュックに押し込んだ。もしHなら、インドから帰って来てからチャッチャと片付けていたであろうが、万事に不器用な私には、それができなかった。K教授も、私の生半可な報告を、決して許さなかった。
「いい加減なことをするなら、もうこの教室には来ないでください」
 K教授はこんな時、冷ややかにこう言った。それは大音声に喚き罵るより、よっぽどこたえた。Sの罵りを何度受けてもちっとも懲りなかったのとは、まるで対照的でもあった。
「アレ、日本語で書かれているから、全然わかんないよ」
 場面はインドに戻る。ダーニ君は至極当然のことを部屋にいる全員に、極めて気楽な様子で報告をした。ダーニ君のその軽い一言は、部屋の全員を、私の学的行為(?)への興味に一気に傾注させることになった。
「それは文学かい?小説とか」
「ノートを取っていたから、ずいぶん気合を入れていたね」ダーニ君はちょくちょく、私の部屋を訪れていて、私をスパイよろしく観察していた。彼のその行動は別段、煩わしくもなかったから、そのままにしておいたが、彼の方は私を、普段はやってこない稀少な日本産の観察対象とみなしていたのであろう。
「ノート。それは重要な研究のようだな」
 アシムル家のお歴々は、熱心に聞いてくる。私はやむなく、ゼミのこと、本のことを説明するはめになった。
「『国富論』の、どこだね」これはアシムル先生の問いである。私はしどろもどろに答えた。
「wages・・・・of wages、だね。どんなことが書いてあるかね?」
 さて困った。当時の私は、まだ『国富論』を読みだして間もない頃であったから、その内容など、殆んど判ってはいなかった―あるいは今でもだが。ところがアシムル先生は、そしてダーニ君のご尊父は、熱心に聞いてくるのである。ダーニ君はにやにやしている。奥さんもいて、遠巻きに皆を観察しているようであった。
「・・・・スミスは・・・・高賃金を・・・・」あの時の私はみっともないほどにうろたえ、真っ当な説明など、出来たものではなかった。ここで読者の便宜のために、『国富論』の当該箇所を簡単に説明しておくと、それは第1編第8章「労働の賃金について」と題された章についてである。ここでスミスは労働者の所得である賃金は高い方が好ましいことを訴えている。より具体的には、高賃金は倫理的福祉的観点から好ましいこと、労働者の勤労意欲の刺激剤となること、勤労意欲の増大による生産力の増加は、やがて一労働単位あたりに投じられる原材料の増加を、そして機械類の増加をもたらし、さらなる消費~生産~賃金の増加をもたらす―資本の有機的構成の高度化―と言うわけである。根底にあるのはスミスの、勤労階級への信頼であって、同時代の経済論者の多くが、労働者は怠け者という観点を前提にしていたのとは鮮やかな対蹠を成していた・・・・と、こう説明をすればよかったのだけれども。
「君は、経済学部・・・・とは、Sから聞いていないが」たしかに、私の所属は経済学部ではなかったが、私のひねくれた性向が、経済学方面に行ってしまったのである。
「面白いねえ。私はそっち方面の研究はしたことがない」ご尊父はそう言いつつ、
「でも医者だって、労働者だ。そう、だから賃金は高い方がいい。ねえお父さん」とアシムル先生に振る。
「私はもう、引退した身だ。おねだりしたって無駄だ」
「なんか、難しい話だ。僕にはついていけない」こっちはダーニ君である。
「私も、そういう学問の事はまるでわからない。でも、さすがはユニヴァ―シティにいる人ね」そう笑いながら、奥さんは立ち上がりつつ、
「ほら、あんたもはやく自分の勉強片づけなさい。大学受からないよ」とダーニ君をせかす。
「あーあー、わかったよ」むくれながら、ダーニ君も退席していった。
「さて、私もインダストリを発揮せねばね」ご尊父は、大学に研究報告を提出する義務があるからと自室に引き下がっていき、居間には先生と私が残された。
 先生は、椅子に座って虚空を見ていたが、やがてこう切り出された。
「スミスの、高賃金の主張は。ロジック的には正しい。けど、あらゆる時代、あらゆる国に適合する論ではない。スミスの論は、あの時代のグレート・ブリテンの中であったからこそ、認められたんだ。いや、当時のグレート・ブリテンでも、産業によっては受け入れることの出来ないところはあったんじゃないのかね。スミスが死んですぐ・・・・19世紀の初めかな。既にブリテンでは恐慌が起こっているはずだ。もちろんそれが、スミスの賃金論が招いたとは言わないがね。けど、スミスの論は万能ではなかった。それが当時すでに露呈していたのは事実だろう」
「低賃金論も、ロジックの上では正しいんだよ。賃金を低く抑えた方が労働者は働く必要に迫られる。高賃金では労働者は働かなくなる。それも真理だ。一方を聞いて、沙汰をしてはいけないんだ。ブリテンの経済学・・・・。スミスの後だが、彼らは自分たちの論を絶対的だと思い込んでしまったね。古典派がやがて行き詰っていったのも、その一元論的な思考ゆえだったんじゃないだろうか」
 私は仰天した。先生がスミスを読んでおられるとは全く想定外だったからである。先生は若い頃、別の大学でイギリス経済史を研究し、その関連でイギリス経済学の古典をかなり読まれたらしい。
 アシムル先生の言葉は、次第に熱を帯びてきて、やがてインドとイギリスの比較に発展していった。
「当時のブリテンは、スミスの論を、自分たちが他国を支配するために都合のいいように解釈をし、その解釈を、支配しようとした他国に押しつけた。インドはその、支配された国のひとつとなった。その結果、どうなったか。インドの経済は、昔からの伝統産業は、衰退したよ。デストラクションさ」
「政治的にはブリテンの支配を被らずに済んだ国も、経済的にはブリテンから蹂躙された例はたくさんあるね。ドイツがそうだ。プロイセンだ。マルクスやエンゲルスはそれに憤っていたわけだろう。イギリス国内でも、差別、不条理は抜きがたくあった。」
「とはいっても、インドにとってブリテンは100%悪者にはできないんだ。ブリテンが先進のテクノロジーを、インドにたくさん紹介したのは事実だ。鉄道がそうだろう。インドは世界でも有数の鉄道国家になった。それと言語だ。古来インドにはたくさんの種類の言語が入り乱れていた。インド人同士のコミュニケ―ションを図るうえでは大変に困難な状況にあった。それが英語の導入で大いに緩和されることになった。ブリテンにとっては皮肉だったろうけど。インド中の意思統一を成す上で英語は大変な力になった。もし英語がもたらされなかったら、インドが一つの国家として独立できたか、大いに疑問だな。この言語の問題は、今でもインドにとって深刻だがね。」
「スミスの高賃金論は、インダストリ・・・・真面目に働くことを正当化させるのに大きな貢献をした。無駄をなくせ。怠けるな。それが今の世の常識となった。でも、それだけでいいのだろうか」
 私は今、ここまで記してきて、当時の私がまともに受けごたえできなかったことを恥ずかしく思う。いや、アシムル先生だって、私がまともに応答できないことは解っていたに違いない。それでも、先生は真面目に私の相手をしてくださったのである。そしてあのとき、先生以外の家族が、先生を残して退出したのも、この対話をする機会を設けるための配慮ではなかったか、とも思えるのである。もちろん、この時そんなことは、まるで思いもよらなかったけれども。
「考えることだ。それも何度も。いっぺん考えて、それで終わりではいけない。考えることを、あきらめてはいけない」先生はそう、述べられた。
 話が終わってから、私は一人で、ずっと考えた。これまでひたすら単純に、自分の家を、日本を逃走したくてインドにやってきただけだった。それ以外の事は、これと言って考えもしなかった。それが今、「逃走」以外についても考えなればならなくなった。賃金・・・・。つまり働くことだ。あと1年半もしたら、いやがうえにも俺は働きに出なくてはならない。働くうえでは勤勉に、より一層の成果を求めなければならない。それが俺の周囲が当然のこととして求めることだ。けど、それは先生の言う一元論的な思考、というやつではないのか。一層の富、一層の収入。一層の豊かさ。それイコール仕合せ。そう思わない奴はキインと言われた。俺はキイン扱いされてきた。それで仕方ないと思っていた。でもそれは、決して後ろ向きな思考ではないはずだ・・・・。
 その日からほどない日、ヒンディー語の講義の折である。先生から1冊の雑誌を渡された。当時の首相、ラージヴ・ガンディーが表紙を飾った『ニューズウィーク』であったが、全編ヒンディー語であった。
「講義は三日後にする。それまでに、この雑誌を全編、読んできたまえ。次はこの内容をディスカッションだ」
(はえ!?)
「この間、アダム・スミスのことであれだけ語ることができたんだ。読み通せるだろう」
(いやいやいや。全然語れていないんですけど)
「ディスカッションしたら、その内容をレポートにして提出するように」
(ほげ!)
 インド観光はどこへやら。私は朝から晩まで英語とヒンディー語の辞書をとっかえひっかえする生活に終始することになってしまった。