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悪あがき

   夏目漱石は自分の文章がいったん活字化したら、それを手直しすることはしなかったという。最初に雑誌や新聞に掲載され、その後で単行本化される機会が得られたとしても、である。いったん公衆の目に晒してしまったら、もうそれは自分のものではなくなる、それを未練たらしく直すのは自分の流儀ではない、そんなことをするなら新しく創作をする、それが漱石の文章作法であった。
 私には、それだけの潔さがない。noteに投稿してしまった後でも、未練たらしく弄り回す。語句、言い回しが気になってならなくなる。誤字に脱字を見つけたりもする。「クソ、又かよ。あれだけ見直したのに」と独りぶつぶつ言いながら、訂正を繰り返す。それだけではない。内容も気に入らなくなってくる。新たに得た知見を盛り込みたくなる。あるいは削除したくなる。読み返すほどにアラが目について、直さずにはいられなくなるのだ。
 直した後でも納得がいかないものがほとんどである。どうにも気に入らないものは全文削除する。まるきり文章を作り変えてしまったものもある。朱を入れるたびに、だんだんと分量が増えていく傾向にある。踏ん切りの悪い奴だと我ながら呆れてしまう。呆れるのだが、やめるつもりもない。私は漱石のような才能はないのである。だから悪あがきをするのである。
 つい先日も、新しく投稿した折に、「変哲もなく、非凡なバンドー999」に、かなり訂正を加えた。しかしこれ以上加えると、文章全体が破綻してしまいそうだからやめにしようかと思う。書きたくなったら新たに一から書くつもりである。
 バズコックスの訳文も、全面的に直そうかと思っているが、こちらは全く進捗していない。バズコックス周辺の他のバンドに対する知見も、わずかながら増えてきている。訳文にもそれを盛り込みたいのだが、いかんせん語学力が余りに足りない。加えて体力もない。ないない尽くしである。それでも、やはり悪あがき。これが性分なのである。