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アレルギーは起きなかったぞ―ザ・ダムド、アルジー・ワード時代

   アルジー・ワード訃報の報せには、普段音楽情報などてんでチェックしていないくせに驚いた。驚いたのはダムドの元メンバーであったから。それだけである。彼の作品は、ダムド以外ではタンクの1stしか持っていない。だから本稿で語るのは、ダムド時代にほぼ終始することになるであろう。以前もnoteでアルジー時代のダムドを記したが、内容に不備があったために削除している。今回はその改訂版、という位置づけもある。
 今のロック・ファン・・・・というか、ダムドのファン、パンクのファンからはアルジー・ワードはどう思われているのであろうか。ダムドというバンドはパンクというテクストで語られるもの、と世間一般では見なされているであろう。しかし、アルジー・ワード個人はパンクの人、というイメージでは扱われていないのではないか。実際、ダムドを辞めた―正確には首になった―後に彼がつくったタンクはメタルな扱いをされたバンドであったわけで、ダムド~パンクのファンからはあまり好意的な見方はされていないのではないか、などと勝手に思ってしまうのである。そこが、オリジナル・ダムドと異なって、アルジー時代のダムド復活が求められなかったのかな、と考えたりする。


発表は81年?これももう、40年余り前の作品なのだ

 もう10年余り前になると思うが、たまたま訪れたCDショップでタンクの1stが売られていて、「そういや、これアルジー・ワードのバンドだったよな」と思い、買って聴いてみたら期待以上にかっこよく、しかもああ、そうだよなと、納得できた部分が多かった。何を納得したのかというと、ダムドの『マシン・ガン・エチケット』のサウンド指向と、タンクの1stのそれとに、共通するところが多いと思ったのである。至極乱暴に言い直すと、ラウド、ハード、スピーディな音作り、というところか。世間一般ではメタルと思われているのであろうタンク。私にとっては、少なくとも1stに関しては、ロックンロール・バンドなのである。

  人によっては、これがか?ダムドとは‥‥と思われるかもしれぬが、私は、なのである。1stだけだが。


スリーヴが表も裏も細かいギミックがいっぱいあって、にやりなのだ。これについては別の機会に 

 『マシン・ガン・エチケット』はじっくり聴いてみると、意外に多彩な音作りが成されたアルバムである。普通ならとっ散らかった内容になってしまうところだが、それが1枚のアルバムとして見事に統一感ある仕上がりになっているのは、あくまでもラウド、ハード、スピーディな音であることを忘れずにいたからである。そして、この統一感づくりにアルジー・ワードが、ひょっとしたら最大の貢献を成したんじゃないか、この時私はそう思ったのである。アルバムを初めて聴いてから20年余りたって、ようやっとこの認識を得たというわけだ。この頃は殆んどパンクとかロックとか聴かなくなっていて、ダムドの周辺もチェックしなくなっていた、というのもあったけれど。「いやいや、ラウドな音なら、ラットでしょ」そう反論する向きもあるであろう。確かに、ラット・スケイビーズのアグレッシヴなドラムがあったればこそ、80年代半ば、『ファンタスマゴリア』のようなエレ・ポップな音でも根っこにロックンロールな味わいを残すことができたのだから。だが、アルジーの去った後に出した『ブラック・アルバム』は佳曲が多いのに、『マシン・ガン・エチケット』のような統一感がなく、雑多に音が並んだ印象を持ってしまうのは、基本となる音がないからであって、そこにアルジーの不在を感じてしまうのだ。―これはあくまでも私の勝手な、えこひいきな意見である。鵜呑みにしないように。


この写真を見ると、いたいけな‥‥ってな感じだが、実は、だったようだ

 アルジーの在籍期間はとても短い。オリジナル・ダムドも相当短かったが、彼の時代もそれに匹敵するくらいの短さだ。手持ちの少ない資料ではきちんとしたデータがないのだが、バンドに加入したのが、早くて78年10月。脱退が遅くても80年1月。つまり1年ちょっと。残したアルバム1枚。シングルはへんてこりんなレーベルの1枚も入れると4枚。作品も少ない。この作品の少なさも、ダムドの歴史上特別なものとして扱われる要因なのであろう。ただ、その後のダムド、アルジーのタンク。両者の音楽を聴いていくと、相いれないものもあると思われてくる。音楽への取り組みも、ずいぶん違うのだろうな、とも。ダムドの思想―とあえて記す。前回は精神性と書いたが、今回は思想と記す―はいわゆるハード・ロック~メタルではないのだ。型にはまった、いかにも革ジャンな、様式美的な音楽から、ダムドはいつも逃走しようとしてきた。自分を鋳型にはめ込む行為を、連中は嫌った。自由に、お気楽に(?)音楽を創ろうとした。今回YouTubeでタンクを何作か聴いてみたところ、アルジー・ワードは―あくまでも私の勝手な意見だが―ルックスも含めてひたすらゴリゴリのハード・ロック~メタル。ツボにはまれば快感な音なのだろうが、そこにはダムドが大事にしていた感覚が―端的にいうと、自由さと笑い、―がないのだ。聴いていくと、息が詰まるというか。それが好きな人もいるだろう。しかし私は「1stと2ndはいいが3rd以降は・・・・こればかり聴いているとねえ」・・・・となってしまった。おそらく、そう、おそらく、ラットと仲たがいしなくても、アルジーはダムドにいられなかったのではなかったか。それを、ダムドのファン、アルジーのファン、両者もわかっていた。だから、互いに歩み寄れなかったし、その必要もないとされていたのではないか。


歴代メンバーで、一番男前?やはりえこひいき?

 ただ、やはりアルジー本人、並びにダムドの他のメンバー(特にラット)との関係が修復されなかったのが、最も大きかったのではないか。例のドキュメント映画でも、アルジーの扱いは至極あっさりしたものであったし、彼への評価も辛辣であった。いわく「年中酔っ払って、まともに弾こうとしなかった」・・・・だったか?もう何年も前に観たきりだから、朧な記憶になっている(なら書くなって?だよな)。本人も出演しなかった。少々残念ではあった。
2004年に出た『マシン・ガン・エチケット』の拡大版に付けられたライナーを読んでみると、アルジーに直接取材もしているけれど、やはり脱退の事については詳しく書かれていない。ラットの、「アルジーはものすげえベース・プレイヤーだった。マジでさ。奴はメチャクチャやって、飲んだくれて、そのライフスタイルは・・・・つき合ってられなかったね」という発言があるのみである。ただ、この言葉が、ほかならぬラットというのも、意味深ではあるが。


どこで買ったのか、いくらだったか、全く記憶にない。当時は面白くなかったからか

 押し入れから出してきたのが、キャロル・クラークという人による、おそらく世界最初のダムド・バイオ本『The Book Of The Damned The Official Biography The Light At The End Of The Tunnel』である。1987年発行とあるから、ダムドでいえば『エニシング』が最新作であったころである。買ったのはたぶん88年頃ではなかったか。たいして欲しくもなかったが、なにせダムドのレコードは当時そうそう手に入らず(国内盤はことごとく廃盤であった)、いわばその補完物として買ったのである。読む気にもなれなくて、そのままいつしか押し入れに直行となっていたまま、忘れ去られていたのである(捨てられていなくて幸運だった!)。


恰好からして、全員好き勝手にやっているっていうのがわかってしまう

 今回、アルジーのことを調べたくなって―本を買った当時は、てんで読む気にならなかったのに―辞書を引きつつ、たどたどしく読んでいったら、アルジー解雇のきっかけは、「スマッシュ・イット・アップ」のヴィデオ収録の時、アルジーがラットの上着にドリンクをひっかけて汚してしまい、大喧嘩になったことだという―ここもバイアスがかかった書き方だ。もしかして酔っ払って✕✕まき散らした、なんて・・・・。それだけではなかった。レコーディングの時、キレたラットがウィスキーのボトルでアルジーをぶん殴り、そうしたら今度はアルジーがキレて自分のベースでラットを・・・・。こういうことが積み重なっていったのであろう。よほど、ウマが合わなかったということか。

ヴィデオでは殺伐とした状況は、全く見えてこないのだが、わからないものだ。
 89年に、前年オリジナル・メンバーが(最初に!)再結集してライヴをやったときのヴィデオが発売になり、前半はオリジナルメンバーのみで、後半は当時の最新メンバー+キャプテンで『マシン・ガン・エチケット』の曲を中心とした演奏をしたのであった(この映像も、今は簡単にYouTubeで視聴できる)。バンドの人間関係を知ろうともしなかったあの時、アルジー・ワードがいればなあと思ったものであった。何故、『マシン・ガン・エチケット』からばかり(1曲だけ、『ブラック・アルバム』からだった)なのか、(当時の)現行メンバーなら他のアルバムからもやればいいのに、とそこが不満であった―『ファンタスマゴリア』の曲は当時興味がなかったが。とはいえ、動くダムドはこれが初めてであったから、毎日のように、それこそテープが擦り切れるまで観まくったけれど。今も、当時のセット・リストを見て不思議になる。これまた推測の域を出ないが、ひょっとしたらアルジー復帰の可能性があったのではないか。それを想定して、あのリストでリハをしていたのではないのか。
 去年YouTubeでオリジナル・メンバーの(最新の)ライヴが出回ったとき、私はアルジー・ワードが今一度復帰して、「ラヴ・ソング」や「ルッキング・アット・ユー」をやったらと思っていた。アルジー時代だってダムド史上重要な―オリジナル・メンバーと等しく―扱いをされているのだから、でも自分の快感原則に忠実な奴等の事だから、ないよな、しかし、あと10年・・・・それこそよぼよぼの爺になる頃には・・・・と勝手な夢想をしていた。当人たちからしたら「うぜえよ」だったろうが。それも、今やまるきり不可能になってしまった。
 先のバイオ本にはアルジーの誕生日が1959年7月7日と書かれている。とすると、ダムド加入時は19歳。辞めた時が20歳。そして亡くなったとき63歳。いずれにせよ、若かったというしかない。


   ファンにとっては定番だろうが、何度観ても、燃える。客に悪態をつき、やけっぱちなスピード感、ラウドな音像、それでいてどこか笑える感覚。この時代のダムドならではである。