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モテたいと思わないのかい?

    つい最近知ったのだが、女にモテる3大職業として、①バーテンダー②美容師③バンドマン、があげられるという。人によってはそこに④ロケバス運転手⑤舞台俳優、が加わる。ロケバス運転手の理由は、特に女優さんがロケ撮影の合間にバスの運転手とくっつきやすい、女優さんはスケジュール調整でなかなか男と会えないかららしい。なるほどねえと思ってしまった。かつ、私とは無縁な話題であることを、しみじみ思ったのであった。
    上の職業に就くだけの才能も縁もまるっきり持っていなかった私は、その人生最初期から、もてない男確定であった、というべきである。物心ついたころからいじめにあって意気地のない男の子であったから、女は自然、私を馬鹿にし、上の職業をうんぬんするはるか以前に、私は女とうんぬんする可能性はなかったのであった。
    ここまで記してきて、私は大学時代を思い出す。わが大学は、これまたうまい具合に(?)、女子学生が少ない大学であった。まあやくざまがいの愚連隊-これについては過去何度か記しているので繰り返さないがーが幅を利かせている大学であったから、女子は入学したがらなかったし、だいたい募集人数も少なかったー世間一般に、女子大生が今日よりはるかに少なかったというのもある。わが大学の男子で、もてる輩はこれまた極めて少数であった。無理もない。大学のカラーがいかにもであったし、1980年代当時、モテる男は「アルマーニのスーツにマイカーを持つこと」は必修科目であり、「株で儲けていること、銀座や赤坂、麻布十番あたりでボトルキープしている店を持つこと」は選択科目とされた時代であった。ビジネスマンやサラリーマンばかりではない、大学生もこれらがモテるツールとして要求されたのである。わが大学の大半の男子学生には、何光年も離れた世界なのであった。だが、もてないままで終わるのを潔しとしない男が一定数いるのも、また事実としてあった。それがいわゆるチャラ男と言われる連中であった。だがそもそも、チャラ男が人として品性に問題のあるやつとほぼ、同義であったから、多くの女からは相手にされず、結果として「低スペック」な男が大半を占めるわが大学の周りには、自然、「低スペック」な女-しかも極めてその数は少なかったーしかいなかったのである。わが大学で「高スペック」な女はほぼ皆無であり、いたとしても、まず間違いなくわが大学の男子学生と付き合うことはなかった。誤解を解いておきたいが、「高スペック」というのは、単にルックスがいいとか、リッチだとかいうだけではない。大半のわが男子学生は、「低スペック」な女にすら相手にされず、ロンリー・ハーツな境遇を強いられたというわけである。もちろん、私もその一人であった。 くだくだしく記してしまったが、わが大学のラヴ・アフェア事情は、情けないの一言に尽きた。
    当時の私には、女なんぞは相手にしたくともまったくいなかった。そもそもヘタレ故、言葉を交わす機会もない。出会いもない。女を探そうにもバイトやら何やらがあまりに忙しくて、一日が終わるころにはいつもくたびれ果てて寝こけてしまう。プラス、ほぼ常に金欠。モテる要素まるでゼロな学生なのであった。
「よおよお。情けねえなあ。ちったあ人生エンジョイしようぜ」
 うははと笑いながら、私に話しかけてくるのは、こんな時、決まってWという同じ学科の男であった。
「そっちは・・・・いつも好調なようだな」
「うははは!相変わらずだなあ。そのしかめっ面。もっとにこやかにせえよ。だからモテねえんだよ」
 Wは、私が「おまえはいつも能天気だな」と言外に嫌味を含ませた発言をしてやっているのにまるで気づかず、その下品な笑いとふやけ切った面を私に浴びせかけてきた。
「珍しいな。こんな夏休みなのに大学にいるなんて」
    私のこの言葉に補足しておくと、この時の私たちは大学4年の夏休みの最中であった。だから当然講義はない。それなのに大学構内にいるのは、私の場合、借りていた本を継続して借り出すために登校したわけである。春から始めていた就職活動はようやっと内定が取れ、次にはゼミ論文の作成に取り掛かっていたところであった。
「いやさあ、ここで待ち合わせなんだよ」
「こんなちんけな場所で待ち合わせか?もっとましなところにすりゃいいじゃねえか」
「うははは」Wは浅黒い顔に黄ばんだ歯をいっぱいにして笑う。この男は何かにつけて声に出して笑う。しかも決まって下品な笑い方である。三島由紀夫の、男たるもの、歯を見せて笑ってはならぬというセリフを、彼のこの顔を見るたびに思い出したものである。はたまた、ジャン・ジャック・バーネルの、「あんまりにやついてるなよ。○○〇になっちまうぜ」というセリフを。
「いやあ、奎文君に言ってもなあ」Wは、一見はぐらかしたつもりで、その実は真相を言いたくてたまらないのである。私に隠してないで言えと、言ってもらいたいのである。私とすれば、彼の待ち合わせの相手なんぞに興味はない。それよりも早く図書館に行ってしかるべき手続きをして帰りたいのである。
「待ち人ありきなら、俺は邪魔だな。失敬するよ」と私が去ろうとすると、Wは少々慌てて私を引き留めにかかった。
「おいおい。そうすぐに行っちまうのは芸がねえじゃねえか」
    そのにやついた面に、私は我慢がならなくなった。こいつは時間の無駄遣いだ、彼は私の時間を無駄に使わせている。時泥棒だ。かつて江戸時代、実際に時泥棒たる行為が犯罪として扱われていた。人さまの邪魔をしたとみなされた者は時泥棒をなしたとされ、牢屋にぶち込まれることすらあったのだ。Wの行為は、江戸時代なら犯罪である。牢屋にぶち込まれても文句は言えないのである。私はこれから図書館に行かねばならない。言って本を延長して借りる手続きをしないといけない。そうしたらすぐに家に帰ってゼミ論のための作業をしないといけない。こうやって腑抜けた会話をしている暇などないのである。私は事情を説明し、そそくさとその場を後にした。
「うははは!やっぱりおまえはせわしないなあ。愛想もないし、モテねえよ永遠に。うはは!」
 背中の後ろで私をせせら笑うWの声を浴びながら、好き勝手にほざいていればいいとつぶやきながら、私は図書館に向かったのであった。
 それから数分後、私が校内を出ようと急いでいるとき、視界の中に、公衆電話のボックスが入り込んできた。そのボックスの中に、あのWがいた。彼はあの下卑た笑顔を満面に浮かべ、電話をしていたのであった。
(なんだあいつ。ひととまちあわせしてたんじゃないのか?)Wはよく大学の公衆電話を使っていた。外でほかの人が電話をかけようと待っていても、平気のへいざで長々と電話をしていた。彼の行為は周囲の連中からも顰蹙を買っていた。彼自身は自分が顰蹙を買っていたことにまるで気づいていないようであった。そのうち誰かに恨みを買って怒鳴られるんじゃないかと、他人事ながらに心配になったことすらあった。電話をしていた時の彼の顔は常に例の、歯をむき出しにした、下品な笑顔であった。その口ぶりがいかにも人を小ばかにした風であり、そしてその会話がやたらと長ったらしかった。特に最後のふたつの情景は、彼が私と会話するときと共通するものであった。私は彼に取っ捕まるたんびにそのにやけ顔と口ぶりにむかっ腹がたった。どう見ても彼は私を馬鹿にしているとしか思えなかった。できるだけ彼とかかわらないでいたいと常日頃から思っていたのであったから、この時も彼の気づかれないようにと、電話ボックスにくるりと背を向け、反対方向に歩いていくことにした。大学の門は2か所あり、私が出ていこうとしたのは正門であったが、急遽裏門から出ることにしたのである。裏門から出たほうが遠回りになるが、Wとは顔を合わせたくはなかった。
 構内を出て、最寄りの駅に入ってすぐに電車がやってきた。幸いにWの姿はない。私はほっとした。ここでまた絡まれたらうんざりすこと必至だったからである。夏の暑いさなか、汗をびっしょりかきながら、しかし電車に冷房はまるで効いておらず、窓が全開になっていた。幸い車内はすいていたから、なるべく外の空気がたくさん入ってきそうな、窓が思い切り空いているところを選んで腰を下ろした。
(やれやれ。まさか今日、学校で奴に合うとはな)ついていないと思いつつ、借りてきた本を取り出した。こちとら時間を無駄にはできないのである。私のゼミ論分はそうそう簡単にできる代物ではなかった。締め切りまで5か月ほどあったけれども、それでは到底足りないように思われた。
 ここで、再び補足説明をしておきたい。電話ボックスと電車の窓の図に、奇異の印象を持たれた方もおられたかもしれないからである。今の世の中、電話ボックスが大学構内にあるのは珍しいという意見もあろう。電車の窓は東京から離れたローカル線はともかく、安全のため、開かないことになっていよう。これでも場所は一応、東京都内である。時代は1980年代末である。当時は携帯電話がなかったから、外にいるときに電話をしようと思ったらもっぱら公衆電話を利用するしかなかった。わが大学構内にも公衆電話はあったのである。10円と100円硬貨、テレホンカードが使えた。Wはやたらとテレホンカードを持っていて、自慢げに見せびらかしていたものであった。「俺にとっては必需品だからな。でも、こいつはプレミアがつくだろうから使わずにとってあるんだ」それは、とある女優の写真が刷り込まれたテレホンカードであった。もうひとつ、電車はこの時代には夏場は平然と窓を開けている車両がまだあった。もちろん冷房のついた車両もあったが、ない車両もあった。いや冷房のついている車両でも、ときには冷房をつけず、窓を開けていた。ある意味のどかであったといってよいのであろうか。
 なぜ、今から35年前の夏の情景を、こうしてわざわざ記したくなったのか。冒頭の、モテる3大職業の話を聞かされた刹那、Wが女にモテることをやたらと意識し、金科玉条のごとくしていたことを思い出したからなのである。そして今記した彼の、電話ボックスでの行為は、彼の就活ならぬモテ活なのであった。
「やっぱりよお、コミュニケーションは大事よ。そのためには豆に電話だよ、奎文君」
 こっちから聞きもしないのに、わざわざご丁寧に蘊蓄をWは傾けた。女をつなぎとめるには、飽くことのない会話だ。そのためには開いている時間を見つけ、電話すること。知らんぷりしていては女なんてすぐにどっかに行ってしまう、そうなっては男としての甲斐性がなくなる、電話代はケチってはならぬ、だからテレカは必需品である、これがWのモットーなのであった。私がてんで興味のない反応をしていると、Wは黄色い歯をむき出しにうはははと笑い、「なあんだよ、ノリが悪いなあ。せっかく教えてやってるのに、モテたくないのかい?」と突っ込んできた。
「そりゃあ、男だもの。モテるに越したことはないさ」
「だろ?じゃあ、もっと熱意を持って聞けよ」
「だからといって、無理にモテることはねえさ」
「ほれこれだ。だから君はダメなんだよ。うははは!」
 そんなにおかしいのであろうか。どこがおもしろくて、こんなに笑えるのであろうか。彼の態度こそ、それこそ可笑しい。私がぶぜんとしていると、Wは歯を近づけてさらに畳みかけてきた。
「だからさ、ほれ、もっとあいそよく。俺と一緒にモテるように励もうぜ」
 ばかばかしい。モテたその時は、まあ気分いいのかもしれぬが、それをずっとキープし続けるのに、何の意味があるのか。だいいち疲れちまう。モテるために常に相手に気を使い、おもねる、Wの意図はそんなところであろう。くさくさしたから、私はこう聞いてやった。
「じゃあ、相手をつなぎとめるためには、どんな話をするんだい。会話の中身がなくちゃ、相手もいやになるだろう」
 途端に、Wはしどろもどろになって、口をごにょごにょさせた。
「そらあ、まあ、その、いろいろだ」
「いろいろって、なんだよ。具体的にはどういう会話してんだ」
「だから、その時々さ」
 Wの回答は、回答になっていなかった。最後には、やはりうははは!で終わってしまった。
 私は、Wとの会話が苦痛であった。会うとたいていは、女にどうしたらモテるのか、そうでなかったらあの講義は出たか?俺はさぼってしまったからノート貸してくれ、こんな内容に終始していた。同じ学科ではあったけれども専門コースが違っていたからそうしょっちゅう学内で顔を合わすことがなかったのが幸いしたが、これで同じ専門であったなら、私の苦痛はさらにはるかに激しくなっていたに違いない。
「俺たちの学科は、なんでこう、履修の縛りがきついんだ?ほかの学科はこんなにしんどくはないぜ?入るんじゃなかったよ。こちとら、活動で忙しんだから」
「なんだよ、その活動って。女か」
「うははは!」彼はしょっちゅう、学校をさぼっていたのも、それだけ会う機会がなくなったわけで、私には幸いであった。それにしても私たちが所属していた学科はわが大学でも履修にうるさく、それもあって学生の数は一番少なかったし、いわゆるちゃらんぽらんな学生も少なかった。それなのに彼は堂々と講義をさぼって「活動」にいそしんでいたし、さぼっていたにもかかわらず、留年することもなかったのだから、要領はよかったのであろう。ただ、モテ活はうまくいっているようには見えなかった。うまくいっているとき、いっていないとき、どちらもあからさまにわかってしまうのであった。うまくいっているときには、こっちが何も聞かなくても向こうから報告してきたからである。
「いやあ、昨夜はまいったよ。もっともっと。もう一軒、ってさ。うははは!」
「もっとって・・・・」私がうんざりした態度をとると、
「がははは!まあ君にも伝受してやるよ。うははは!」となるので、
「ごめん被る」と返すのである。一方、うまくいっていないときには、向こうからはその手の話は一切してこないのであった。
 Wは、そんな自慢話(?)を、私以外の学生数人に聞かせていたものらしい。というのも、彼と同じ語学を履修していた男が、ある日、同じ教室に居合わせたとき、Wの話をしたのである。
「あいつ、自分に自信がないんだな。っていうか、たぶん、今までだれからもそっぽ向かれてたんだろうな。それで、自分はひとかどの男だって、見せつけたいんだろうよ。なんなんだろうな。誰もまじめに聞きやしないのに。繰り返してくるから卑屈に見えるんだよ。単純にむかつくから、言ってやったよ。お前の話はつまんねえからやめろって。そうしたら、あいつ、話してこなくなっちゃった。いいきみさ」哀れにも、Wはほかの学生からも疎まれていたのである。
 先の、夏休みでの一件を最後に、彼との交流は絶えた。いや、正月になるとどういうわけだか年賀状は送ってきた。年賀状を送りあうのがどうして起こったのかは覚えていないが、この行為は卒業後もしばらく続いて、やがて向こうから送ってこなくなったので、こちらからも送らなくなった。
 その、交流の途絶えた彼から突然、結婚式の案内が届いたのは、卒業してからもう、20数年がたち、とっくに40代も半ばを過ぎたときであった。なぜ、今頃になってと、私は首を傾げつつ、あの後も、彼はモテ活を続けていたのだろうか、その成果が今になってようやっと実ったのかと悲哀と滑稽さが入り混じった感慨を抱いた。幸か不幸か、式の行われる日は日曜日であったのだが、私には仕事が入っており、出席はかなわなかった。そして、再び私たちの交流は途絶えた。あれから10年ほどになる。今、彼がどこでどうしているのか、まるでわからない。まあ、さすがにモテ活はしていないとは思うが。