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駄作と言う前に―ザ・ナック『ラウンド・トリップ』

    ザ・ナック・・・・。パンク原理主義者(?)はせせら笑うのであろう。ナックだって!?『マイシャロ』だけのあれ好きなのかよって言うのであろう。知ったことではない。私は18歳のころから好きだったのだ。文句は言わせない。いや言ってもいいが、言われても私は聴くのだ。しょっちゅうではないけれども。
 何年か前にとある雑誌を眺めていたら、ナックの曲で唯一聴けるのは「マイ・シャローナ」だけで、あとはだめだ、なんてことをほざいている奴がいた。そういうことを言う奴はいてもよい。音楽なんて、音楽だけではない芸術なんてそもそも人それぞれに価値判断は異なってくるものだ。嫌う奴がいてもよい。言いたいのは他人の言うことを鵜吞みにしてはいけないということだ。あの本に書いてあったからダメなんだろう、ではそれこそダメである。まあ興味が最初から湧かないなら仕方ない、そこまででハイ終わりなのだが、聴きもしないうちにダメと決めつけてはいけない。興味がない、持てない、ならこの場合は許せる―状況次第ではこれも許せない時があるが、今は取り上げないでおく。
 わき道に逸れてしまった。私はナックが好きだ。といってもアルバムを全部持っているわけではない。持っているアルバムでも、曲によっては気に入らないものもある。いい加減なファン・・・・、ファンと言えるレベルではないのだろう。だが「マイ・シャローナ」以外にも好きな曲はたくさんある。そしていまいちばん愛惜するアルバムは『ラウンド・トリップ』なのだ。まあひねくれている。自分でも思う。
 このアルバムは18歳、つまり86年の秋、地元吉祥寺のレコファン(今はもうない・・・・はずだ)で買った。値段は750円。同じコーナーにやはりナックの一・二枚目の国内盤も大量においてあったが、国内盤の方が皆安く、350円で売られていたのが不思議に思えた。当時は輸入盤の方が安いというイメージがあったからである(今もか)。しかし350円。たたき売りもいいところである。お買い得だわいと喜んで三枚とも買った。しかも100円の割引券もあったから、一枚は実質250円だったのだ。ところで三枚目、つまり『ラウンド・トリップ』の国内盤はずいぶん経ってから一回だけレコファンに入荷していたのを見た。値段も同じ750円、ああこっちにしとけばと後悔したものである(せこいマニア根性か?ちなみに見本盤と書いてあった)。いや、輸入盤もあれから見かけた記憶がない。どちらの盤も、少なくとも国内での流通量は相当少なかったのではあるまいか。
ずっと後になって、何故ナックの一・二枚目の国内盤ばかりがこれほどまでに安売りされていたのかわかってきた。「マイ・シャローナ」が向こうでバカ売れして、じゃあってんで日本でもレコードをプレスしまくったのは良かったが、本国での人気はすぐしぼんでしまって日本でも盛り上がらず、せっかくプレスしたレコードは売れず、在庫余りまくりでカットアウト盤扱いになった。それが6年余りも経ってまだ市場に余っていたということなのであろう。三枚目が出るころにはナックは日本ではほぼ忘れ去られていて(?)、そのプレス数も少なく、よって後年中古市場にも出回ることがなかったと思われる。現に私が入手したレコードのうち、二枚目(帯には「来日記念盤」とある)はどうみても未使用な状態であった。
 たたき売りされていて不憫にも思ったナックであったが、この買い物は大正解であった。よくナックは初期ビートルズと引き合いに出され、実際活動中はそういう宣伝をされていたようだが、私にはどうでもよかった。聴いていて楽しかったのだ。当時はそれ以上でもそれ以下でもなかった。最初はご多分に漏れず一枚目を集中して聴いていたが、やがて中途半端でとっ散らかった内容の『ラウンド・トリップ』も気に入ってしょっちゅう聴きかえすことになってしまったのであった。
 『ラウンド・トリップ』―ROUND TRIP―グーグルで調べると「往復」とか「行き帰り」という意味なのだそうだ。なぜこんなタイトルをつけたのであろうか。ナックの情報を熱心に追いかけたわけではないからわからないが―ゆえに私は本当の意味でのファンではないのだろうな―、この頃のメンバーは相当ドラッグやらなんやらでハチャメチャやっていたらしいから、自分の日常生活を茶化してタイトルにしたのかもしれぬ。―ちょっとヤクやってラㇼってきたぜ、ってな感じで。あるいはバンドの人気が低迷していたから、ここでまたかつての人気に戻そうぜ、って気分もあったのだろうか。
 テープコラージュ、オーバーダビングの多用、そしてホーン・セクション・・・・。前の二枚に比べてずいぶんと凝っている。基本線はこれまでのアルバムと同じだと、先ほどとは別の雑誌に書いてあったのを読んだ記憶があるが、私にはずいぶん違って聴こえる。60年代後半のサイケデリックを思わせる・・・・と日本盤CDの解説にあったが、確かにそれは肯えるものはある。ただ、完全にそれの再現にはならなかったのは、プロデューサーがジャック・ダグラスだったからか。この人はパティ・スミスの『ラジオ・エチオピア』もプロデュースしていて、割とかっちりとした、ハードな音を作る印象がある。ダグラスの起用は果たして『ラウンド・トリップ』に上手く合致したのだろうか。曲によっては上手くいっている、とは思う。5曲目の「ジャスト・ウェイト・アンド・シー」やラストの「アート・ウォー」のようなスピード感のあるナンバーはダグラスのハードな指向とナックならではのロックンロールな感覚がハマったな、と感じる。けれどその他の、アルバム・タイトル通りのサイケデリック感を打ち出したものとか、ファンク~ソウル的な要素を強調した楽曲とはかみ合っていないなあ、といつも思ってしまう。楽曲自体も、出来不出来の差が激しい。「ペイ・ザ・デヴィル」はどうにも甘ったるいばかりでつまらない、とここまで来て、なんだ貶してるのか好きじゃないのかと突っ込まれるであろうが、これが正直な気持ちなのだ。そういえば本稿冒頭に掲載したレコード・ジャケットに、ヒット曲「ペイ・ザ・デヴィル」収録、なんていうシールが貼ってあるが、確かに本国でシングルカットはされたが殆んどヒットしなかったはずだ。ヒットチャートで何位であったか調べればわかるが、今の私にとってあまり重要ではない。重要ではないのだが、確かにこれは売れないわな、と思ってしまう曲ではある(好きな人、すいません)。
 歌詞についてもちょっと見てみよう。ナックの歌詞はあまりメディアでは取りざたされないのだが、一枚目なんか、全編ドスケベで下世話。メッセージ性に哲学性、文学性は皆無。本稿冒頭で触れたパンク原理主義者が好んで嫌う歌詞のオンパレードだ。私なんかはそこがナックのいいところだと常々思っている。元々ロックンロールってそういうもんだろ、と作品を通じてそう言っているように聞こえる。そう、これは(これも)重要なメッセージになりうる。だが「ラウンド・トリップ」は、ちょっと違う。スケベな歌詞もあるが、これまでのようなあけすけな表現ではない。性的な表現でもどこかひねっている。全体的に暗いし真面目になった印象がある。それを良く表しているのが「アート・ウォー」だろう。

The people who work for a living
Don’t need to ask questions from cradle to grave
They don’t need no faggot to tell ‘em
What’s good and what’s bad and what’s really insane!

英語がまるでできない私でも、聴く者の表情を硬くさせる内容だと思わせる。そして間に挿入されるfaggot、持っている英和辞典で調べると「束ねたもの」とか、「嫌な奴」、「ばか者」、さらには「ホモ野郎」なんて意味もある。これは捨て台詞だろうな、いや、なにかもっと意味が?としばし考えてしまったのであった。

ゆりかごから墓場に行くまであくせくしている奴等に
問いかけるなんて無意味だろ
善とか悪とか、可笑しいとか
奴等にはそんなウゼェこと教える相手なんざ要らないんだよ

 訳してみたが、こんな感じになるのだろうか。難しいことなんか言いっこなしにしようぜ、という意味にもとれるし、真面目に歌を聴く奴なんていないんだという苛立ちにもとれる。やはり、彼らなりに考えるところはあったのではないか。こういう逡巡している言葉が、このアルバムには随所にある(と思える)。ただ意外なのは「アート・ウォー」はバンド結成直後のレパートリーにすでにあったということで、ごく初期のライヴを収めたCDで聴ける(我が家にあるはずだが、見つからない)。歌詞の内容がバンドのカラーに合わないから今までレコーディングしなかったのか。
 音にしろ、歌詞にしろ、混沌としている。当時の彼らは追い詰められていたであろう。デビューした途端に売れまくり、しかもその売れ方が急激であったからこそ、しぼむのもあっという間。いいんだ売れなくたって、なんて言いたくはないのが人の情というものであろう。以前ナックを特集したテレビ番組を観たが、そこでバートン・アヴリール(リード・ギターの人)が「ダグ・フィーガー(ナックのフロントマン)の野心は、私の5倍くらいあった」とかなんとか言っていたが、つまりあんたにもあったということなんだよな、フィーガ―の1/5は、と突っ込みを入れたくなったものである。第一レコード会社のほうで放っておいてくれないであろう。「アーティストの生活がままならなくては作品なんか生まれないから、その中には本人の生活費や、事務所の維持費、スタッフの給料なども含まれ、世界的なスターともなれば膨大な金がかかる。レコード会社はそれを先に払ってくれるわけだが、アルバム1枚で回収できることなんてまずないから、契約は長期になり、アーティストはコンスタントにヒットを生むシステムを自分でつくらなければならないのだ」(和久井光司『ザ・ビートルズ・マテリアルVOL.4』、(株)ミュージック・マガジン、2014年、42ページ)その労苦は門外漢の私には想像を遥かに超えるものがあったに違いない。こんな私の発言など、当事者にしてみたら黙れ糞野郎ってなものであろう。そして結局、彼らの労苦は評価されずレコードも売れず、バンドは解散してしまうのである。
 ここまでなら駄作で片付けられるのかもしれない。でも好きなのだ。この中途半端な仕上がり具合と逡巡しているさまがいいのだ。完全悩み抜きのナック―その実悩んでいたのかもしれないが―ももちろん好きだが、この時期のナックが今の私の心の琴線に触れるのである。だから、(私にとっては)駄作ではないとしておく。やはり私はひねくれているのだ。
 『ラウンド・トリップ』の発表は81年10月だという。それから5年たってから私は聴いた。世間では忘れ去られていた音楽が、ちっぽけな島国に住むガキの心をとらえていたのだ。だからどんな音楽も、侮れないのだ。