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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love -the lost Buzzcocks tapes』(4)

まえがき

 

バズコックスにハマったのは、私が中学を卒業した年の夏、「ハーモニー・イン・マイ・ヘッド」を聴いたときである。

 すでに「エヴァー・フォーリン・イン・ラヴ」は知ってはいた。母と一緒に前年秋、テレビの『トップ・オブ・ザ・ポップスTop of the Pops』を観ていたからである。けれど当時の私はラヴ・ソングとか恋愛にまつわることに入れ込むほどの年齢には達していなかった。しかしスティーヴ・ディグルの歌は街の喧騒、店先でのやりとり、バス停。その歌は単なるラヴ・ソングとは趣を異にしていた。街の情景と音の描写は私を虜にした。何よりもスティーヴの、その北部特有の鼻のかかった、パンクの典型といえた南部出身と明らかに異なるアクセントの、タバコ焼けしたしゃがれ声、そこに寄り添うバズ⁻ソーbuzz-saw(訳注:電気ノコギリのような)ギターにヤラれた。完璧な一曲だった。ここから私の音楽との、バズコックスとの、生涯にわたるつき合いが始まった。

 私はバズコックスに関するありとあらゆるモノを手に入れようと躍起になったけれど、八十年代初頭の、まだ十代になったばかりの子が手にしうるおカネなんてたかが知れていたのは言うまでもあるまい。むさぼり読んだ活字の中でも、バザーで入手した1977年から1979年にかけて発行されていたニュー・ミュージカル・エキスプレスNew Musical Express(訳注:以下、NMEと略)誌やメロディー・メーカーMelody Maker(以下、MMと略)誌にはぞっこんになっていた。そこにはピートとスティーヴのインタヴューが掲載されていたからである。私の生活は彼らの音楽と共にあった。その飴玉色のレコード・スリーヴ。その印刷物のヴィジュアル・イメージ。神の如しであった。

 私は十代の女の子の身でロマンチックな夢を抱いていた。彼らの仲間になり一緒に曲を創り、バンドの一員になりたかったのだ。私は「彼ら」になりたかったのである。

 当時、私の家族はパンク・バンド、ドローンズのMJの寝ぐらから道路ひとつ挟んだ向こう側に住んでいた(ドローンズの他のメンバーはMJのお隣さんであった)。楽器を手にした彼をよく見かけた。全身黒ずくめの長身でスリム。クールそのものであった。私は母に、うちのお向いさんの彼は未来のバズコックスになれるのかしらと聞いてみたことがある。母の答えはノーであった。彼女はロックンロールをやる人が、こんなうらぶれたところに住むわけがないという考えにこり固まっていた。私の住む所はマンチェスターからたった五マイル(訳注:約8.047キロメートル)しか離れていなかったが、排外主義と田舎者ならではの卑屈さと都会の暴力性とが混ざり合った『コロネーション・ストリートCornation Street』(訳注:グラナダ・テレビ制作の連続テレビ・ドラマ。初回放送は1960年12月9日で現在も放送は続いており、史上最長のテレビ・ドラマとしてギネスにも認定されている。マンチェスターを舞台にワーキング・クラスの人々の日常を描き、高い人気を誇っている)と『脱走Deliverance』(訳注:1972年アメリカで公開された暴力サスペンス映画)が

ドッキングしたような、最低としかいえない情景に満ちていた。母はバズコックスがスウィンギング・ロンドン真只中のような暮らしをしていると思い込んでいたが、今の私はよく知っている。ピートは私の家から程近い、東側にあるゴートンGortonというこれまたサビれた僻地に暮らしていたことを。つまりバズコックスのメンバーはマリファナ・タバコを吹かすような生活などはしていなかったのだ。我がご近所さんがアイドルではなかったことが判明して少々失望したが、MJたちが我が町のパンク・シーンの一翼を担っていることを知り、ひょっとしたら、バズコックスとも同じステージに立っているかもと思うことが、私のなぐさめになった。それで当時は十分だった。

 それから程なくして13歳のときにバズコックスは解散し、私は打ちのめされた。ライヴに行くには私は若すぎた。彼らの姿を生で見ることはついに果たせなかった。私は喪失感に苛まれた。葬式に参列している気分であった。バズコックスと一緒に行動するという夢。少なくとも彼らのショウの足を運ぶという夢ははかなく消え去った。

 1989年初頭、バズコックスは再結成を果たし、私はマンチェスター・アポロに足を運んだ。この頃の私はパンクを聴かなくなっていた。その年の夏に最初のE(訳注:エクスタシー。ドラッグの一種)を体験してから、ハードなギター・サウンドにはアレルギーを起こすようになっていた(思い起こすとEを初体験した場所はマンチェスター北部にある改装された映画館だったが、ここは元々トニー・ウィルソンの経営するファクトリー・クラブの、その姉妹店であるファクトリー2であった)。私かかつての思いをかみしめたくて、でかけた。そこでかつての恋人とばったり、そして、という幻想を抱いていたが、まるで楽しめなかった。クラブ仲間と行きつけの店でEをやりたい欲求に逆らえず、私は市営バスに飛び乗ってしまった。バズコックスの再結成は私にとって苦々しいものにしかならなかった。その後の三年間、私はクラブとドラッグに浸りきり、さらに七年間は全く空虚な日々を送った。

 1999年初頭、七年間の苦しいドラッグ治療を終えて私は心機一転しようと友人と連れ立ってバズコックスと再会すべくマンチェスター大学に出かけた。友人の知り合いが、もしヒマならショウの後でバンドに「会わせてやる」と言う。その態度が気に入らなかったが、普通なら会えるわけがない、会えればめっけものである。それに大学のセキュリティ・スタッフの無慈悲さはよく知っている。私たちは他の上機嫌な連中と一緒に列をなして待つことにした。ずいぶん長い時間がたった気がした。いい加減へたばり切ったその時、突然にドアが開き、中の楽園に招き入れられた。

 バンドは何くれとなくもてなしてくれた。シャンパンと食事もふるまってくれた(とはいっても豪勢なものではなかった。ショウの後ということもあって、生のオニオンしか残っていなかったと記憶している)。ピートは私同様内気であったけれど対照的だったのがスティーヴで、長椅子に座っている自分の隣りに私を座らせ、しかも旧くからの友人のように接してくれた。故郷に帰ったような心地よさだった。

 その日から数週間後にバズコックスはアメリカをツアーして回り、私はジャーナリストとして、昼はクラブ、夜はクラブをハシゴしていた。日々の生活を回想する記事を週に数回投稿するようになった。ギター・ミュージックに再び入れ込むようになったがクラブ浸りの生活にも逆戻りしてしまった。バズコックスはニュー・アルバム『モダン』を引っさげてツアー中であった。私はレコード会社に連絡し、次に私の地元に彼らがやって来たときにインタヴューさせてくれと頼み込んだ。PR担当の、とても真面目な女の娘が、ショウを取り仕切っているプロモーターの名前と電話番号を教えてくれた。プロモーターの名はアラン・ワイズ。七十年代以降のマンチェスター・パンク・シーンとファクトリー・レコーズに君臨してきた人物である。

 アランに電話すると、彼はねんごろに私をイギリス北西部で開催される五回のショウに同行できる手はずを整えてくれた。リバプールでの最初のライヴに行くクルマには同乗させてくれたが、会場に入ってから、私は彼の無給助手として働かされていることに気付いた。彼にしてみれば仕事熱心な、使いっぱしりの若い女が現れてよろこんでいたのだろうが。彼は私をリドルLidle⦅訳注:ヨーロッパの大手スーパーマーケット・チェーン店⦆にバンド専属の運転手用に酒を、バンド・メンバーにはビュッフェ形式の食料を買いに行かせた(このときはバター抜きのホワイト・フィンガー・ロールスwhite finger rolls(訳注:イギリスではなじみの、長方形の白パン)と安いチェダー・チーズひとカタマリ、それを切り分けるプラスチックのナイフだけだった)。次いで彼はライヴのセットリストのプリント作りのため、控室からセットリストのメモをとってくるよう命じた。度を越していると、私は屈辱を感じた。しかし私は悲しいほど臆病で不平を口に出せなかった。人のいい私は、数週間前に熱心なファンと認められているから樂にもらえるだろう、いやしかしそれは図々しいだろうと気に病んだ。そんな心配は無用であった。メンバーはフレンドリーで、ガチガチの私にも自然に接してくれた。

 私はアランに同行して五回のショウ全てを観、極上の時を過ごした。マンチェスターのシーンにいることでジャーナリストとしての私はキャリアアップし、数か月のうちに地方紙全国紙に盛んに投稿した。ドラッグをやり毎晩、時には一日に三回イベントに参加した。ドラッグの取引もした。しかし代償はつきものである。代償とは心と体の健康だった。ドラッグ(ME)(訳注:myalgic encephalomyelitis-筋痛性脳脊髄炎、または慢性疲労症候群)で何度も調子を崩し、仕事にも支障をきたすようになり、聴覚障害にもみまわれ、「don’t know what to do with my life(どうしていいのかわからなくなった)」続く数年間、前世紀ヴィクトリア時代のヘロイン中毒者そのままに足をひきずって歩く生活をする破目になった。

 心身の回復する見込みが立たず、私はスペインでの生活に見切りをつけた。2014年になっていた。若き日々へのノスタルジアとそれ以上にジャーナリストとしての現状から脱したい、そんな思いでイギリスに渡り、バズコックスのショウを三回観た。バンドと初めて対面し、交流が絶えて五年が経っていたが、ピートとバックステージでばったり顔を合わせたとき、彼は微笑し、こう言った。「やあ、君か!」ピートは憶えていてくれたのだ。私はよろこびに満たされた。スティーヴはあのときと変わらぬ歓迎をしてくれ、ベーシストのトニー・ベイカーともすぐうちとけて会話がはずんだ。わたしはたやすく仲間の元に帰ってこれたのである。

 南スペインのコスタ・デル・ソルのある賃貸アパートに戻ったクリスマスの朝、私は生々しい夢を見た。バンドの「マッド・マッド・ジュディ」が鳴り、そのエンディングの、スティーブのアドリブで目が覚めたのである。「三人男がいて、一人が他の二人に何か言ってる。俺は二人に言ったさ。ハッキリ言ってやったのさ。さてわかるかな?俺にはわかるさ。答えはもう出ているさ」 独り「半分空になった」ベッドにとり残された朝。あれがサインだったのだ。イギリスに戻っていたときの日々。極上の時間だった。私はバンドのツアーについて行こうと決めた。啓示だったのだ。これが私の最良の決断になったのだ。

 その後はバンドとのエキサイティングな日々が続いた。私は仲間のエルサと共にクルマでイギリス中を走り回り、ステージにかぶりついた。自分用に服を作ったりした。―ナース用チェニックにバンドの歌詞をぬいつけたのだ。ピートにはバンドが七十年代に着ていたようなデザインに「ホワット・アイ・ゲット?」と書かれたTシャツを作った。止める者はいない。私自身止めるつもりはなかった。体調は芳しくなかったが、バズコックスに触発されたアート・プロジェクトは心を軽くし、バンドと共に歩もうとする気持ちを一層増大させた。確かな手応えがあり、ピートが私のデザインした服をTVで着ているのを見るのはゴキゲンだった。

 ついに私は天職を見つけた。バンドをマネージメントし、バンドと一緒に国中をツアーして回るという天職を。私の十代の夢、彼らと「バス」(魅力的とはいい難い運送用トラックだが)でツアーをし、一緒に食事をし、気安く語り合い、毎晩ショウを観る・・・・。その夢がかなったのである。12歳の私が見たら嫉妬にかられるだろうが・・・・。

 さて、いちファンという立場で本書の経緯について述べよう。私は一回ではとうてい終わらないたくさんのテーマを扱ったインタヴューをピートにお願いしてみた。バズコックス草創期の日々。パンク・シーンにおいて彼が成し遂げたこと。あの時代に世界的な名声を得たミュージシャンであり、あの時代の象徴として永く記憶に残る名曲の数々を送り出した人となり。創作過程。曲の誕生のいきさつ。曲に込められた思い。ピートは承諾してくれ、私は奮い立った。

 場所も時間も問わなかった。ウェブを使用しエストニアにある彼の自宅にある彼の自宅からベッドに座って行なったこともあった。インタヴューは対話そのものだった。私がピートに問う。ピートが私に答える。それはファンならば誰もが知りたいと思うことばかりだった。バンド誕生のこと。曲創りのきっかけ。ライヴを行なった場所。レコーディングに練習、さらにはツアー中のこと。こうしたことがピート自身のウィットに富み、温厚な態度を保ちつつときとして俗な一面を見せつつも自らの口から語られていった。この愉快な、存分に行われた対話形式のインタヴューは至福の時間であった。本書は彼自身の言葉によるバズコックス・ストーリーであり、私や彼の家族、ごく身近な人のみが知る彼のユーモア、人間的魅力を伝えてくれるものであるのだ。

 ピートのソロ活動や再結成後のバズコックスについてもインタヴューは行なわれるはずであったが、時が許してくれなかった。ピートは2018年12月6日にこの世を去った。ロックンロールの世界では人の世は短い。「何よりも」ピートの歌の通りである。「人生とは死によって報われる」

 バンドとはファンにとって特別な存在である。熱狂的なファンにとっては家族のようなものとなる。バンドへの崇拝は信仰に等しいものなのだろう。ピート自身がピートのファンであった。謙虚な人であったけれども、人々が自分をどう見ているのかよく理解していた。彼は常に親切であり、忍耐強く上品で寛大であった。本書でそれは明らかにされるだろう。彼は自分の人生を生きた。本書はファンへの最良のプレゼントなのだ。

 ピートの死後、インタヴュー音源は放置されたままだった。私は余りに辛くて省みる気になれなかった。しかし時がたつにつれ、このインタヴューの持つ価値の大きさが次第に意識されることになった。ピートは自分の、極めて個人的なことについては書き残してはいなかった。自分史などというものは一切残さなかった。私たちが録音したのがこの自分史なのである。単にバズコックスだけではない、ピートの物語であり、ひとりの創作家の物語である。彼が創作をしているときの感情。その全てとは言えなくてもその一部分はここに刻まれているのだ。

 インタヴューへの導入部として、バンドが最初のレコード会社であるUAと契約を果たすまでのストーリーを記した。私はピートとそのバンドの初期のことを、より完全な形で知りたかった。彼の家族、バンド仲間、友人や同時代人達の発言をつなぎ合わせ、これまで知ることのなかった彼とバンドの背景を、彼の生い立ち、人柄を、より深く理解できるようになった。

 私はマンチェスターに大恩を受けたことを謝している。おそらく他所者のライターであったら、このバンドにこれほど愛惜することはなかっただろう。ジョイ・ディヴィジョン同様、バズコックスはここで生まれここで育った。砂で汚れた、ポスト工業化で荒れ果てたマンチェスター。自らの魅力に気付き、自ら再生し、やがて音楽のメッカとなる前のマンチェスター。

 さて、奇妙な運命だが、私自身ピートの育ったレーLeighのすぐそばに住んでいる。現在のレーの中心街には100円ショップ、ディスカウント・ショップ、質屋、ほとんど何でもある。しかしピートが若き日自慢にしていたレコード店や楽器店は現存しない。私がそこに出かけるときにはいつも思うのだ。この場所にピートもいて、不滅の名曲たちを紡いでいたのだと。そして心をなぐさめられるのだ。

 

ルイ・シェリー