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真実は一場の夢

    のっけからさえない話だが、インドでは常に下痢に悩まされた。着いて早々バナーラスで、2回目はアウランガ-バードに移動したその翌日から、最後はその後のアーグラーで。元々便秘になりやすいタイプで、下痢も何度か手ひどいのを経験したが便秘ほど頻繁ではなかったから甘く見ていたところはあった。日本にいる時「インドの水は日本と違って硬水だから下痢しやすい」と聞かされていたけれども、こうも頻繁にとは思ってもみなかった。下痢にかかるたびにベッドに突っ伏し、おさまるまで外出もままならぬ日々が続いた。何のための旅なのかと、我が身が恨めしくなった。アウランガーバードでの日々も、下痢の模様から、ということになる。もっとましな書き出しにと文字通り踏ん張ってみたが、どうしても思考が下痢のほうに行ってしまう。ムチャをしたのは確かである。その時々の快感原則に忠実に従った報いと言えばそれまでである。それにつけても、である。今の我が心身で、あんな旅をするのはもう不可能である。あの時であったから、あの若さ―肉体と精神両方の―があったればこそ、あんなムチャがきいたとも言える。それで下痢していれば世話ないわと言われるであろうが。穿った見方をすれば、あの旅の仕方で、よくあれくらいの下痢で済んだとも言えよう。
 アウランガーバードはボンベイとはまるで異なった、といって、まるっきりさびれてもいなかった。ちゃんと市場があって、アジャンタやエローラへの観光の中継点の役目も果たす、落ち着いた街であった。ボンベイで神経と肉体を切り刻むような経験をしたのは、まるで遠い昔の如き幻惑を覚えた。着いてからの宿へのチェックインも比較的容易に済んだ。ちょっと古いがビジネス・ホテルっぽい宿で、シャワーはお湯も出て、ボンベイのドミトリーよりもはるかに格上であった。よしここでちょいと腰を据えて、と考えていたところ、確かに腰を据えることにはなった。別な意味で。
 翌日から、猛烈な下痢に見舞われた。幸い下血までには至らなかったが、体に力は入らず、外出どころではない。たまらずにフロントに医者を紹介してもらい、へろへろしながらやっとの思いで診察に行ったが、宿から普通に歩いて5分くらいのところを、20分くらいかかった。周囲の患者は、案の定じろじろ私を見る。しかし意識している余裕もなかった。
「昨日、何を食べたかね」と言われたので、ありのままに答えると、医者はあからさまに呆れた顔をした。
「腹を下すのも当然だ。1日中炎天下の中を冷房のない列車に揺られ、歩き回ってここに着いたとたんにそんな食事で済ますとは」
 宿に着いたその日、市場でモンキーバナナが売られていた。ひと房に20本くらいくっついているのを買ってきて、全部平らげた、ついでに屋台のチャーイを2,3杯飲み干し、それでは足りないのでビン入りのコーラも平らげた。埃と泥にまみれたビンには「Campa」と書いてあって、へえ知らない銘柄だ面白いと買って一気飲みしたら一気に腹が膨れたので、その日の飯はなしにしたのである。
「もっと御身を大事にされたまえよ」医者から下痢止めを処方してもらい、それから1週間、ほぼ絶食で横たわる生活を余儀なくされてしまったのであった。
 ようやく下痢が収まって起き上がれるようになり、やれやれ食うもの、それから旅程を慎重に組まなければなあと殊勝な(?)ことを考えていたが、アタマの中でインドに着いてからの日数を繰ってみて、いや悠長なことを言ってはいられないと首を振った。もうとうに全日定の半分を過ぎていた。ぼんやりしていたら帰国の日を迎えてしまう、時間がない。この焦りが、慎重に動けよという見えざる者の声をかき消した。
「おや、もうよろしいので?」ホテルのフロントが声をかけてきたので「ええ、良くなりました」と答えると、「それでは、今日はどちらへ」とまた聞くので
「今日は、この街をぶらつこうと。何もわかりませんから」と返すと、
「ならば、ビー・ビー・カ・マクバラーに行かれなさい。タージマハルは?ああ、まだですか。ならばその予習になりましょう」
 ビー・ビー・カ・マクバラーはタージマハルをモデルにして設計された廟である。しかしタージマハルほどのカネはかけていないと聞いていたから、てんで興味がわかなかった。しかしせっかくの推薦を無下にするのも失礼に当たるだろう。行ってみることにした。
 フロントの話では、ホテルから歩いていけそうである。地図を見ても、さほどの距離ではなさそうだ。この1週間寝っ転がっていたから足も弱っていよう、リハビリも兼ねて歩いていくことにした。
 街並みは閑散としていた。あのボンベイの喧騒とは正反対な雰囲気だ。道の両サイドには空き地が転々とし、木造の家屋がまばらに建っている。途中十字路があり、右に行くとバザール、つまり商店街に連なる。左に行くと川が見えてくる。
(そういや、似ていたな)私は今、これを記しながらインドの、あの風景と、かつての我が家のそれとをひき比べている。どちらも、今となっては遠い過去である。どちらも、私の中では目の前に現実にあったことである。そしてどちらも幽玄な、朧な存在になっていることを知る。それらはみな夢だったんじゃないかと他者からみなされても否定しきれない。
 私が東京武蔵野に引っ越してきたばかりのころも、周囲には空き地が転々と広がっていた。もとは広大な雑木林であった土地を切り開き、建て売りの集合住宅地として分譲し始めた時代であったが、家そのものはまだろくに建てられていなかった。私が住まうようになった家は、その界隈でもごく初期に建てられた建築であったわけである。我が家の周囲にまだ点在していた空き地は、放っておくと、あっという間に雑草が生え放題になった。近所にはまだ引っ越してきた所帯はごくわずかであったが、私よりやや年長の子供らがいて、雑草の生えた空き地を冒険とばかりにずかずかと侵入して遊び転げ回っていた。ときおり、土地の管理人と思しき大人がやって来て子供らをしかりつけ、追い払っていた。雑草はときたま、業者の手によって刈り取られ、それが2回3回と繰り返された。大小様ざまな空き地があったが、とりわけ大きな空き地が2つあった。私が小学校に上がる少し前だったろうか、そのうちの1つがきれいな更地になり、そこに大量の砂の山が盛られた。それが何を意味するのか、幼い私にはわからなかった。近所の子供たちは学校や、あるいは幼稚園や保育園が終わって帰ってくると、その砂の山をよじ登ったりしていた。1,2度、私も一緒になってその砂山の上に上ったことがあったが、砂が足に食い込んで足がどんどん沈んでいき、助けを求めて泣き叫んだ。他の子供たちはそれを見て私をせせら笑った。まもなく、その空き地には立ち入りを不可能にするロープが張られ、家の建築が始められた。もう1つの空き地は我が家の真後ろにあってずいぶん長い間、空き地のままであった。家が増えていき、空き地が無くなっていっても、その空き地だけは残り、家が増えるに比例して増えてきた子供たちの定番の遊び場になった。空き地には先のような砂は置かれず、そのまま放置された格好になり、たまに雑草狩りがなされるだけであった。私自身は小学校にあがってから、空き地で遊ぶことが無くなっていき、家の中で他の子供らがはしゃぎまわるのを見ているだけになった。やがてそこも自由に遊ぶのを禁じられた。市が買い取って災害時の緊急避難場所扱いになり、それもわずかな間ですぐに民間に売りに出され、大きな邸宅が建てられた。邸宅の周りには、新たに他所から持ってきた木々が植えられた。こうした土地の変化は、日本の中央でのありようを、そっくり接木していったように思えた。
 私がこうして長々とインドには関係のないことを書き連ねたのは、インドでのこの空き地が、ゆくゆくは住宅に、あるいは何らかの商業施設に変貌するのでは、という予覚が、当時の私の中で働いたからである。歴史は繰り返されるのではないかという漠然とした所感。このアウランガ-バードの静かな土地も、やがては我が家の周辺の如く、中央の、都会のスタディックな規範の中にはめ込まれるのではと漠然と思考していたのである。あれから一度もここを訪れたことのない私には、今アウランガーバードの状況を云々することはできないけれど。
 場面は88年のアウランガ-バードに戻る。十字路を左に、ノロノロと歩いていくと目的の建造物が見えてきた。ビー・ビー・カ・マクバラーである。歩くこと30分。病み上がりにはきつかったが、誰にも文句は言われないから、気にもならなかった。
 かのタージマハルの弟分と言えるこの廟。たしかに概観はすすけて、写真で見るタージマハルのような清冽さはない。それでもかつてここを支配しアウラングゼーブ帝の権力はしのぶことはできた。出来たのだが、それよりも外の炎天下がウソのような涼しい内部に感激し、ここはアウラングゼーブさんの御威光を頼ってしばし涼んでいこうという気ばかりになっていたヘタレな私なのであって、廟や帝の歴史なんぞにはてんでアタマが回っていかなかった。研修生として完全に失格である。
 廟の中にはずいぶん長くいたと思う。夕方になってさすがに帰ろうと、またノロノロと歩いて引き返すうちに腹が減って来て、屋台でカレーをまたも食ってしまった。アシムル先生から、腹の悪いときにはこういう屋台での食い物はやめておけとくぎを刺されていたのに、まあいいか、ホテルの食い物だって大差ないわいと能天気に判断してしまったのであった。不貞の教え子とはこのことであろう。
 その後、のんべんだらりとアウランガーバードの街をぶらついて数日を過ごした。アジャンターやエローラへの仏跡も訪ねた。確かにそれらは日本にいては味わえないものではあったが、それ以上の感慨は持てなかった。私のインドにいる目的はそこにはなかったからである。日本をトンずらし、それまでとは断絶した日常さえ味わえればよいのであって、だから下痢で寝ていては断絶した日常を実感できなかったのである。同時に、外部からせかされる要素があることも、インドでの私は拒絶した。この行為は日本で散々強いられてきたことであったから、インドにいる間は何者にも縛られずに動こうとした。たとえ異郷の地で独りぼっちになったとしても、他者に縛られなければOKなのであった。よく外国で自分と同じ国の人がたむろしているホテルに泊まろうとする傾きがあるが、当時の私はこだわらなかった。むしろいない方が楽だと思ったこともある。言葉が通じないことで面倒なこともよく遭遇したが、それでも日本での抑圧に比べれば、まだましであった。
 帰国の日までもう2週間を切り、アーグラーに行こうとなったとき、またしても腹の具合が思わしくなくなった。やれやれまたかいとウンザリしつつも、もうチェックアウトしてしまっている、行かざるを得まいと無理やり出立した。これがよくなかった、とは後になって言えることであって、渦中の私は、相変わらず、まあどうにかなるさと出たとこ勝負な行動を繰り返したのである。