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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love -the lost Buzzcocks tapes』(3)

序文 キッド・ストレンジ

 

ピートとの生活を記すのは、とても難しい。最初は皆さん同様その音楽を通して彼を知ることになった。後半は人生を共有し合う仲となったが、これは個人的なことである。

 本書は私たち共通の友人によるもので、楽しさとピートへの重要な問いかけをするという、二つの魅力を味わうことができる。奇妙なことにピートとは仕事についてまともに語り合ったことは殆んどなかった。私のような人は今後しかと考えるべきだろう。バズコックスのツアーを経験してからはとりわけ私自身そう思っている!

 私はルー(訳注:原著ではLouになっている)に、ピートと対話する機会を与えてくれたことそれだけではない、ピートの輝かしい業績を記した本書を著してくれたことに深く感謝したい。本書は私、というより彼の家族、友人、世界中のファンから愛されてきた彼への最高のプレゼントである。

 多くの人が、ピートは音楽活動をしていたのだから、あらゆる音楽を聴いてきたのだろうと誤解していたようだが、正反対だったことに驚かれるだろう。彼はいつも「自分や自分のような人に向って」曲を創るのだと言っていたし、音楽愛好家の学識を否定し紋切り型の「パンク」というレッテルを貼られることも嫌っていた。音楽業界は使い捨てにされる人や音楽であふれかえっているのだ。

 実際のピートはいわゆるパンクとかロック・ミュージックよりはるかにポップ・ソングを愛好していた。私たちはそろってカイリ―・ミノーグの「I Should Be So Lucky」を陽気に歌う類いの人間だった。[1]彼は私がシルベスターの「You Make Me Feel」のアナログ盤をみつけてはしゃいでいるのを全く気にしなかったし、家ではシェールの歌をリクエストしたりした。毎年ユーロ・ヴィジョンを熱心に見ようと言っていたけれど私のほうはまるでその気になれなかった。今は見なければと思っているけれど。[2]もっとも甘美な思い出は彼が古き良き、自らの子供時代の50年代や60年代の歌を歌ってくれたことだった。当時人気のあった歌手や映画音楽を私は聴いたこともなかった。今でもパット・ブーンの「Johnny」を聴いたら笑ってしまうだろう。ジョニーには悪いけど![3]

 ピートが私に教えてくれたことは、創作は他人よりもまず自分のためにせよ、他人のためにやっていたのでは辛くなるということだった。

 その歌詞ができたきっかけとか楽器演奏のこととか、そうした曲づくりのことを話してくれたことは殆んどなかった。ただバズコックスのラスト・アルバム『THE WAY』(訳注:2022年9月22日付で―日本では7日づけ―バズコックスの新作アルバム『SONICS IN THE SOUL』が発表になった)収録の「Virtually Real」の作詞に手こずっていたのは憶えている。「ロルキャッツ、それはシバ王の悩みのタネ」というフレーズをアドバイスできたのは、私の仕合せである。この頃の彼はそれまでの創作の主たるテーマ(多分恋愛関係のもつれだろう)に執着しなくなっていた。実はバズコックスの「幻となった」新作を制作するには彼の心臓が耐えられないと私は主張したのである。私の意見が通ったことはラッキーだったというべきだろう。ラッキー!ラッキー!ラッキー![4]

 そう。ときには冗談めいたこともあった。彼はわざとヨボヨボの老人のしぐさをして私をヒステリックに笑わせたのだけれど、私は嫌だと言ったのだ。彼が「私を一番頼りにするようになる」ということになるからだった。冗談半分に失恋をテーマにした歌をもう一度書こうかとほのめかしたりもした。私はこう言った。「傷つくのは私よ!どうすればいいの?」

 「心のままに書くよ・・・・」

 結局、彼はバズコックスの新作を放棄したのだった。

 まだつき合い始めの頃、彼はテレビ番組のテーマ・ソングがくりかえし流されるんだねと語ったことがある。彼はテーマ・ソングのメロディー、たとえば「Emmerdale」とか、そういったメロディーを歌ってくれたこともある。これは楽しい思い出である。しかし大事なことはピートの、ソングライターとしての才能であり、飽くことなき、類まれな言葉を駆使するための情熱だったということである。

 ピートの創作はいつでも鮮やかなものだった。その才を彼は自然に身につけていて、周囲の者たちを刮目させた。新しい演奏、楽器をとり入れることも彼にはたやすいものだった。彼には自分のすべきことが全てわかっていた。数秒後には音をどう配列してよいのか頭の中でできあがっていた。ブリキの箱に巻いてあるゴムヒモのようなものでも楽器として扱えたのだから。[5]

 ピートの才能は永久に不滅だろう。彼が語っていた何年にもわたるツアーを、私も確かめることができた。ちょっと妙な気分になるが、家でのピートは本当に静かで奥ゆかしい人であったが残した業績はその人となりよりもはるかに輝かしいものだった。

 本書を楽しまれんことを。そしてわが夫の真価を見出されんことを。彼の、その特別な時代とはいかなるものであったかを見出されんことを。本書から私と同様何らかの形で楽しさと安らぎを与えられんことを。夫を亡くしてとても淋しい。分かち合ってきたよろこびを亡くしたのだから。皆さんが、私と同じよろこびを分かち合って下さるならば、私も仕合せである。

 

キッド・ストレンジ

ピート・シェリー未亡人



[1] ピートお気に入りのカイリー・ナンバーは「Wouldn’t Change a Thing」であり、そのセカンド・アルバム『ENJOY YOURSELF』(1989年)に収録されているのでご一聴を。私たちは(もちろん)幸運にも恋に落ちたゆえに「I Should Be So lucky」を歌ったのである。


[2] 私はいつもばかげた歌を好んでいた。深刻には考えない質(たち)である。

[3] ここでアンディ・ステュアートの「Donald Where‘s Your Trousers ?」を挙げておきたい。ピートはよく父親ジョンのパグパイプを真似して歌って聞かせてくれたものである。ジョンはグラスゴウ出身である。


[4] カイリー・ミノーグの「I Should Be So lucky」。作詞作曲はストック・アトキン・ウォーターマン(ソウ)。

[5] そう、ホントに!輪ゴムを使っても見事に演奏できた!